第61話 悪女爆誕
ハンナは紙をにらんだ。父の筆跡に間違いない。
「なぜ、父はそんなことを」
「それは、説得したんだ。こうやってみんなの前で恋人になっとけば、結婚がスムーズだと……」
「誰と誰の結婚がですか?」
「そりゃもちろん、あの、ハンナ嬢と僕の……」
周りを取り囲む護衛騎士団が拍手した。
「スムーズに進むわけないでしょう! 国王陛下は何ておっしゃっているのですか?」
「大賛成だよ。当然」
ハンナは涙目で変な格好をしたフィリップ殿下をにらんだ。
嘘に決まっている。
「責任を取ってくれるのですね?」
「何言っているんだ。もちろんだよ、もちろん」
王家の命令だ。父も無碍にできなかったのだろう。殿下はハンナの両手を取り、猫背をさらに屈めて、頼み込んでいた。
「でね、でね、このベンチに座って……そう、それで、ハンナの方から僕に抱きついてほしいんだ」
「いやです」
「フリだけだよ、フリだけ。ね? 右手をこう……背中に回して」
右手を背中に回して、フィリップ殿下の言う場所まで手を伸ばすと、ものすごく近くなってしまう。
それより胸が殿下の鼻先まで来てしまう。
「ブッ……」
何か残念な音がして、赤いものが視界に入った。鼻血?
護衛騎士団が慌てふためいて、ハンカチを引っ張り出してきた。殿下の襟が赤くなっている。ハンナは思わず手を放して、身を引いた。ドレスに血がついてはたまらない。
一人の護衛騎士が、走り出して助けを呼びに行き、殿下は護衛騎士団に担がれてどこかに運ばれていった。
一人の護衛騎士がハンナに向かって、平謝りに謝っている。
「いえ。別にいいんですけど」
ハンナはつぶやくように言った。
「ああいう真似は、鼻血が出ないようになってから、おやりになった方がよいのでは? 演技以前の問題でしょう」
護衛騎士も思うところはあるらしく、ハンナの言葉にうなだれた。その通りである。
「もう、授業はいいので、自邸に戻ります」
ハンナは冷たく言い置いて、とんだ猿芝居の会場になった学舎に囲まれた中庭から退去した。めちゃくちゃ恥ずかしい。
そして自分の屋敷に帰ると、心配そうな母に向かって、学園での一部始終をぶちまけた。
「ヒルダ嬢の餌食になりたくないばっかりに、下衆な小芝居を打つんですの。私のような大根にそんな真似できるわけがないではありませんか。それに、こう言っては何ですけれど、私の縁談に差支えが出ますわ。殿下は、自分が結婚してやるからなどとおっしゃるのですよ」
憤懣やるかたない。ハンナが好きなのはエリック様だ。フィリップ殿下は別人。これまで、アレクサンドラ殿下のオマケで時々一緒にいただけの人だ。
それに顔の表情が全く読めないのである。言葉も違うし。
鼻血の件は黙っておいた。恥ずかしすぎる。
母は、猛烈に微妙な顔をしていた。
しばらく黙っていたが、ハンナを慰めてくれた。
「護衛騎士団が見ていたのだったら、殿下に強要されたと証言してくれると思います。あなたはアレクサンドラ殿下の庇護下にいますから、フィリップ殿下が何か言ったとしても大丈夫かなと」
でも、噂が怖い。
あの時は夢中だったけど、冷静になって考えたら、王子様のゆくえはを生徒が追っていたと思う。たとえどんなに先生が制止したとしてもだ。
そして教室から見たら、どう見てもハンナが殿下に自分から抱きついたようにしか見えないと思う。
ゾクゾクゾク。
ハンナは背中が寒くなってきた。
ヒルダ嬢は、フィリップ殿下を婚約者と呼んでいる。
「略奪者なの? 私?」




