第59話 芝居
「そんなことはない。婚約破棄……というと人聞きが悪いな、婚約解消は二週間前に成立した」
珍しく早い時間に帰宅した父が、知らなかったのかと言わんばかりにハンナに教えてくれた。
「まあ、お父様、それならどうして早く知らせてくださらなかったのですか?」
父はソファに深々と座り、足乗せに足を投げ出した。
「当たり前だからだよ。僕、そう言ったよね? 一応、公表してもいいのは今日からなんだ。キャンベル家からの賠償金を受け取ったら、公表していいと合意したんでね。で、目下のところは、キャンベル家のジョージとヒルダ嬢を婚約させることが問題なんだ」
何を言っているのかしら。ハンナは呆れた。
「そんな人さまのことなど、どうでも良いのではございませんか?」
父は疲れた顔をしていたが、人が悪そうにニヤリと笑った。
「そうはいかんのだ。全部、フィリップ殿下の指示なので」
「フィリップ殿下の?」
ハンナはオウム返しに繰り返した。
「あの、フィリップ殿下は何を目指してらっしゃるのでしょう?」
「復讐かな? まあ、それより、絶対にヒルダ嬢と結婚したくないらしいよ」
ハンナは変な顔をした。
「当家とは全く関係がないではありませんか。それに……」
「それに?」
そんなことを言っていいのかどうかハンナは一瞬悩んだが、相手が父なので、思い切って言うことにした。
「あのお二人は、おそらくうまくいかないような気がしますわ」
父は軽く笑った。
「そうかもね。でも、ジョージはハンナに悪意的な噂を流したし、ヒルダ嬢はそれをばらまいた。何の根拠もないのにね」
「まあ。それで復讐ですか?」
「それが主な理由ではないのだけど。でも、学園に行くと面白い場面がみられると思うよ」
最近の学園は、面白い場所ではなかった。ちょっと怖い。父の言う面白いと言うのがわからない。
今更ながらハンナはアレクサンドラ殿下の不在をしみじみ嘆いた。
殿下さえいてくれれば、例の護衛騎士団が現れて、なにくれとなくカバーしてくれたのだ。彼らは一言も口を利かなかったけれど、今は身に染みる。
しかし、今日は黒い髪のカツラとものすごく縁の部分が分厚い黒メガネ、高い襟に顎を半分隠したフィリップ殿下が出迎えに来てくれた。
「婚約が白紙に戻ったそうだな」
「え……はい……」
ハンナは、最も会いたくない人物と会ってしまった。
だって、男遊びが過ぎると言うのが婚約破棄の理由だったはずだ。
殿下狙いという噂もあった。身分が下の女性が高貴な身分の王太子殿下にまとわりついて、見ていられないとか、まあ、さまざま噂が流れていると聞いている。主にヒルダ嬢からだけど。
「婚約が白紙に戻ったのなら、別に一緒にいても構わないだろう」
ハンナは考えた。理屈はその通りである。
「でも、殿下、アレクサンドラ殿下がご一緒なら一対一になりませんでした。それにアレクサンドラ殿下がいない今、私どもは、特に一緒にいる理由はございません」
「あるんだな、それが」
「えっ?」
ハンナは、まるでハンナが教室に行くのを阻むように立ちふさがる殿下と、それから護衛騎士たちを眺めた。
護衛騎士全員が腕を組み、ふんふんとうなずいている。
「どのような理由でございましょう?」
「いいかな? 王子殿下というのは高貴で裕福、令嬢方のあこがれの的だ」
自分で自分のことをあこがれの的って言う? ハンナは、フィリップ殿下の顔を見た。正気かしら?
「王子妃の座を狙う女性も多い」
ハンナは黙っていた。それはそうかもしれないけれど、ハンナは関係ない。
「例えば、ハンナ、君だ」
「ええッ?」
ハンナは悲鳴のような声をあげた。
「何をおっしゃっているのですか? 殿下。そんなことはございません!」
フィリップ殿下は不意に首を傾げた。
肩を落とし、眼鏡とカツラと襟のせいで表情は読めないが、なんだかしおれているように見える。
わからないので護衛騎士の方を見ると、全員がため息をついていた。
ハンナは訳が分からなくて顔が赤らむのを覚えた。
一人の護衛騎士が、ハンナに近づいてきて、小さな本を差し出した。
タイトルは『不貞の王子殿下と身分狙いの男爵令嬢の偽りの恋と、婚約者の公爵令嬢が侯爵家令息と貫いた真実の愛物語』
「タイトル、長いですね」
思わず、ハンナはつぶやいたが、護衛騎士はその長いタイトルの中の男爵令嬢のところに線を引いて伯爵令嬢と書き換えた。
「え?」
「話は短いから、あとでササッと読んどいて」
何か悪い予感がする。
「で、その男爵令嬢のデイジーちゃんがハンナ嬢で、頭が空っぽで勘違い王子が僕の役」
「は?」
ハンナは、フィリップ殿下がおかしくなったのかと思って、思わず顔をあげた。
「公爵令嬢アデリアーナがヒルダ嬢で、侯爵令息レックスがジョージ」
サラサラサラッと素早くページを繰ったハンナは注意した。
「アデリアーナは豊かな金髪で青い目ですが、ヒルダ嬢は黒目黒髪、レックスはプラチナブロンドに緑の目で背が高く筋肉隆々となっていますが、ジョージは茶色の目と髪で、小太りで背が低めです」
「さすが学年五番目の優等生。読むの速いな」
一緒に覗き込んでいた護衛騎士が拍手した。
「デイジーちゃんはスタイル抜群の庇護欲そそるピンクブロンドってことになっていますが、私は栗色の髪で全くかわいくありません。王子は小太りである以外、特長を書いてないので、どちらかというと、ジョージ様に似ているのではないかと」
「話を根幹から覆すような指摘は止めて」
フィリップ殿下が言った。
「とりあえず、その役を演って欲しい」
「どの役ですか?」
「ピンクブロンドのデイジーちゃん。僕は王子役するから」
王子のくせに?




