第58話 傷もの娘
ハンナは大邸宅の自分の家に戻ることも多くなった。両親が強く勧めたせいもあるが、そのほかにアレクサンドラ殿下が学園にあまり来なくなってしまったからだ。
「結婚の準備が本格化したのですよ。学園に通う時間がなくなってしまったのです」
トンプソン先生が説明してくれた。パース夫人は、どうやら殿下につきっきりで世話をしているらしかった。
「あなたを隣国に連れていきたがったらしいのですけど」
ハンナはびっくりした。
「何もなければそれも視野に入れられて当然でした。でも、あなたには重大な結婚問題が出てきて、それどころではなくなってしまったので」
ハンナは衝撃を受けた。婚約破棄の影響だろうか。侍女になるにも、傷がついてしまったのでできないと言うことか。
悪いのはジョージである。アレクサンドラ殿下だって、そのことはよく知ってらっしゃるではないか。
「婚約破棄は、私の有責ではありませんわ」
トンプソン先生はちょっとおどろいた様子だったが、すぐに笑顔になった。
「そうじゃないのよ。キャンベル家なんて、どうでもいいと思うわ。あなたを有責になんてできっこないじゃない」
それよりもっと大きな問題が起きているのよとトンプソン先生は言葉を濁した。
どうも腑に落ちないハンナだったが、ジョージ以外にも困った問題は新しくいくつか起きていた。
「おはようございます。ハミルトン嬢」
学園に行くたびに、宰相の息子とか、騎士団長の息子とか、無碍にはできない高学年の男子生徒から声がかかるようになったのである。校門のところで整列して待っている。
「おはようございます」
ハンナは小さな声であいさつし返したが、どうしたらいいかわからない。
結果、現状彼らは、腕組みをしながら遠巻きにしている状態だ。
本格的に婚約破棄が発表されたらどうなるのだろうと、ハンナは内心ひやひやした。
その上、フィリップ殿下がいた。
二人の間柄はこじれた感があった。
主にハンナがこじらせていた。
ハンナはつましい性格で、身分相応というのが信条である。
容貌だって平凡で、これと言って自慢になるような点はない。
「そんなことはありません。アレクサンドラ殿下のご学友をそつなく勤め上げるだなんて、並大抵のことではありません。推薦した私も鼻が高いです」
トンプソン先生はそう言うけれど、ごく普通に振る舞っただけで特に何もしていない。
実はフィリップ殿下だったと暴露されてからは余計警戒心が強くなった。
王子妃なんか、ハンナのような平凡で、出来れば目立たないように暮らしていきたい人間には不向きもいいところである。ましてや、王子殿下の容姿があんなに華やかでは。
それなのに、エリック様は、いやフィリップ殿下は、次々と甘い言葉を投げかけてくる。もう、どうしたらいいかわからない。
アレクサンドラ殿下の御用がほとんどなくなって、暇ができたことも大きかった。一人になって考える時間が出来たのである。
「そんな」
侍女たちは、口々に言う。
「これまではハミルトン家のご令嬢として、地味過ぎたのですわ。まずはドレスからあつらえなければ」
「それはお金がかかるので、お母さまに、確認してからにしてちょうだいな」
王都の家の使用人総元締め、マリアが出てきた。
「ドレス代くらいで傾くような家ではございません」
ハンナはマリアを振り返った。
「でもねえ、当面、学園に行く以外ドレスを着ていく場所もないのよ」
「そんなことはございません。学園に行かれる時もそれ相応のドレスが必要でしょうし、お友達をお招きしてお茶会をなさることだっておありでしょう」
「まだ、学生ですわ。そんな派手なことは控えた方がいいと思うの。それに婚約破棄問題が片付いていないわ。派手なドレスは、はしたない女性だと言うキャンベル家の主張を後押しするんじゃないかしら」
「伯爵様がどうにかされるとおっしゃったのなら、そんな心配は一切ございませんわ。大丈夫です」
新しくハンナに仕えることになった侍女たちにとっても、キャンベル家は、文字通り目の上のコブだった。
侍女にとって、未婚の令嬢のいる家は、憧れの華やかな就職先なのだ。お金持ちで有力貴族の令嬢となれば、ますます楽しい。有名貴族の子弟の求婚者が大勢出入りしたり、華やかな令嬢のお友達がお茶会に来たり、とにかく見ているだけでもワクワクするではないか。
しかし、ハンナ嬢の地味なこと。
それもこれも、キャンベル家に婚約破棄されてしまったから、らしい。
ドレスの新調もしないし、お茶会も開かない。




