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機動艦隊物語  作者: あべ模型製作所
第一部・序曲
5/17

第四章・ヴェールの向こうで

──そして私は、意見は述べても命令はできない。それでいて、全ては私の名において実行される。



一九四一年八月三日 早朝

宮城 千代田 東京府


 彼は、朝の散歩を日課としていた。


 執務が始まってしまえば、矢継ぎ早に書類への裁可が求められる。その内容は彼の国の重要事項ばかりで、彼の押す「御名御璽」が、彼の意思とは関係なく、彼の名において粛々と遂行されていった。


 彼が朝の散歩を楽しみにしているのはそのためである。周囲には最低限の侍従しかおらず、“プライベート”なるものがほぼ存在しない彼にとり、唯一の安息の時間であった。


 彼が踏みしめる土は柔らかく、梢には朝露が光っていた。ときおりそよぐ風が、葉の音を響かせ、それがとても心地よかった。



 彼は道端の木々に目を止めた。“街路樹”などという、とってつけたようなものではない。彼の目の前には本物の森が拡がっていた。

 東京という地にあって、手付かずに近い自然が残っているのは、ここと、数キロ離れた明治神宮だけであった。


 まだ、朝の涼し気な空気を浴び、彼はしばらくの間木々の根本を注視した。


「ご覧」

 彼は侍従に囁いた。侍従は恐懼しつつも、彼と同じ方向を眺める。

「あれは、狸だね」

「左様でございますか」

 彼の口角が上がる。

「寝床に戻るのを忘れてそのまま寝入ってしまったのか、……自由なものだ」


 彼は昨日の内奏を思い出した。陸軍が南部仏印進駐を開始して以来、米国の態度が硬化しつつあることについての報告があがっていた。


 これまでの抑制的な態度はどこかにおかれ、米国の怒りは、もはや隠されていなかった


 ──どうにか、外交で片をつけられないか……?


 彼の思いとは裏腹に、陸軍も海軍も、自分にできる唯一の外交手段──軍事力によって事態を解決しようとしていた。政府はまだ理性的とも思えたが、現首相も軍部の意向に引きずられているように見えた。


 ──あれも、よい男なのだが……、どうも自分というものがない。


 外交の余地は日に日に狭まりつつあった。


 ──六月にドイツとソ連の間で戦端が開かれ、今次大戦は欧州全域まで拡がった。我が国も、大陸とのいさかいが終わらぬうちに、今度は米英と事を構えようとしている。


 狸を眺めたまま、彼は小さく息をつく。


 ──そして私は、意見は述べても命令はできない。それでいて、全ては私の名において実行される。


 彼は父に思いを馳せた。


 ──あの人は自由人であられた。このような立場でなければ、もっと長生きできたかもしれないのに……。


 彼は空を見上げる。遠く、高いところでトンビが旋回していた。


 ──私も、自由になりたい。もっと国民と自由に語り合いたい。


 それが、叶わぬ夢であることは、彼も重々承知していた。


 ──せめて……。


 皇祖皇宗から受け継いだ、この日本という国を次代へと遺そう。



 彼は深く息を吸い、森の匂いを胸に収めた。


 彼──天皇裕仁は、侍従に向き直った。何かを決意したような、それでいてどこか寂しげな笑みを浮かべる。


 そして、静かに言った。


「今日の仕事を始めましょう」




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