第四章・ヴェールの向こうで
──そして私は、意見は述べても命令はできない。それでいて、全ては私の名において実行される。
一九四一年八月三日 早朝
宮城 千代田 東京府
彼は、朝の散歩を日課としていた。
執務が始まってしまえば、矢継ぎ早に書類への裁可が求められる。その内容は彼の国の重要事項ばかりで、彼の押す「御名御璽」が、彼の意思とは関係なく、彼の名において粛々と遂行されていった。
彼が朝の散歩を楽しみにしているのはそのためである。周囲には最低限の侍従しかおらず、“プライベート”なるものがほぼ存在しない彼にとり、唯一の安息の時間であった。
彼が踏みしめる土は柔らかく、梢には朝露が光っていた。ときおりそよぐ風が、葉の音を響かせ、それがとても心地よかった。
彼は道端の木々に目を止めた。“街路樹”などという、とってつけたようなものではない。彼の目の前には本物の森が拡がっていた。
東京という地にあって、手付かずに近い自然が残っているのは、ここと、数キロ離れた明治神宮だけであった。
まだ、朝の涼し気な空気を浴び、彼はしばらくの間木々の根本を注視した。
「ご覧」
彼は侍従に囁いた。侍従は恐懼しつつも、彼と同じ方向を眺める。
「あれは、狸だね」
「左様でございますか」
彼の口角が上がる。
「寝床に戻るのを忘れてそのまま寝入ってしまったのか、……自由なものだ」
彼は昨日の内奏を思い出した。陸軍が南部仏印進駐を開始して以来、米国の態度が硬化しつつあることについての報告があがっていた。
これまでの抑制的な態度はどこかにおかれ、米国の怒りは、もはや隠されていなかった
──どうにか、外交で片をつけられないか……?
彼の思いとは裏腹に、陸軍も海軍も、自分にできる唯一の外交手段──軍事力によって事態を解決しようとしていた。政府はまだ理性的とも思えたが、現首相も軍部の意向に引きずられているように見えた。
──あれも、よい男なのだが……、どうも自分というものがない。
外交の余地は日に日に狭まりつつあった。
──六月にドイツとソ連の間で戦端が開かれ、今次大戦は欧州全域まで拡がった。我が国も、大陸とのいさかいが終わらぬうちに、今度は米英と事を構えようとしている。
狸を眺めたまま、彼は小さく息をつく。
──そして私は、意見は述べても命令はできない。それでいて、全ては私の名において実行される。
彼は父に思いを馳せた。
──あの人は自由人であられた。このような立場でなければ、もっと長生きできたかもしれないのに……。
彼は空を見上げる。遠く、高いところでトンビが旋回していた。
──私も、自由になりたい。もっと国民と自由に語り合いたい。
それが、叶わぬ夢であることは、彼も重々承知していた。
──せめて……。
皇祖皇宗から受け継いだ、この日本という国を次代へと遺そう。
彼は深く息を吸い、森の匂いを胸に収めた。
彼──天皇裕仁は、侍従に向き直った。何かを決意したような、それでいてどこか寂しげな笑みを浮かべる。
そして、静かに言った。
「今日の仕事を始めましょう」




