第一章・岩陰にいるもの
「戦いには戦機と言うものがある。そしてその時が来るまではじっと潜んで耐えなければならない時がある」
「諸君、我々の今がその耐える時であり、この時があって初めて合衆国の勝利があるのだ」
──チェスター・W・ニミッツ大将・太平洋艦隊司令長官
一九四二年一月二日
真珠湾 オアフ島 ハワイ準州
チェスター・W・ニミッツ大将が新たなる太平洋艦隊司令長官として副官とともにハワイに立った時、彼に与えられていた命令は、日本海軍が攻めてきたら応戦しなければならないが、そうでない場合はこちらから攻めるな、と言う中途半端なものだった。
特に大統領からは、「勝利を急ぐことはない。まずはハワイ防衛を最優先にせよ」と釘を刺された。
当然、彼はフィリピン救援について尋ねるが、大統領は苦虫を潰すのみであった。
太平洋艦隊司令部の執務室で、かつて、キンメルが座っていた椅子に身を預ける。柔らかく、しっかりと体重を支えてくれるそれは、中々に心地よいものであった。それと同時に、この椅子に座るものの重責も感じた。
ニミッツは「これを温めている暇はないな……」と呟いた。
副官に尋ねる。
「ちょっと、クラブに顔を出してみようか」
将校クラブへ顔を出したニミッツは、そこで意気消沈して肩を落とし、あるいはやるせなさからテーブルを叩く将校たちを見回した。
──日本との艦隊決戦に敗れ、自暴自棄になるのは理解できる。俺だってその場にいたらそうなっただろう。しかし、このままでは勝てる戦も勝てなくなるが、さて……。
ニミッツはウェイターからマイクを預かった。
「諸君、オラが新しい司令長官だなや。なしてオラが海軍さ入ったかと言うとな、初めてエビを見たときにたまげたもんで、それでオラはエビが海の王者だと聞かされたもんだで、初めて海に興味を持ったんだ」
目を丸くする将校たちの前で、彼はニコニコと笑みを浮かべて続けた。
「で、オラな、エビが大好物になったんで、『よし、んだば海軍さ入って海の王者ちゅう言う奴をつかまえて、たらふく食ってやろう』と思ったんだな、これが……」
余りにも異様な訓示ではある。
ニミッツはもともと少しテキサス訛りがあったが、この訓示ではそのテキサスの田舎訛り丸出しで、将校たちの前で語り始めた。
将校たちは、始めなにか慰安の為のアトラクションかと思ったが、やがてこうしたズーズー弁の語り口と、いかにも田舎臭い男の話にどっと爆笑がおき、拍手が起こってくる。
こうした将校たちの反応に、彼は目を細めた。
次の瞬間、ニミッツは一瞬にして厳しい目つきになったかと思うと、また話を続けた。
「エビは体のカラが生え変わるときは、岩の間に入ってじっとしているもんらしい」
将校たちの「おや?」という表情が見えた。
「諸君、オラたちの情勢は悪い。それは分かっておる。今のオラたちはエビだ」
だんだんと、彼らの中からアルコールが抜けてくるのが見てとれた。
「今は甲羅が生え変わるのを待たねばならない、そして硬い新しい甲羅はできるだけ早く生え変わらねばならない……」
将校たちは、息を呑んで彼の言葉を待った。
ニミッツの口調からテキサス訛りが消える。
「戦いには戦機と言うものがある。そしてその時が来るまではじっと潜んで耐えなければならない時がある」
マイクを握る拳に力が入る。
「諸君、我々の今がその耐える時であり、この時があって初めて合衆国の勝利があるのだ」
しんと静まり返ったクラブ。誰も笑う者はいなかった。
拍手すらも起こらなかった。
そのかわり、将校たちは皆椅子を蹴とばす勢いで立ち上がり、また靴のかかとを鳴らして姿勢を正し、この新しい提督チェスター・ニミッツに敬礼した。
数時間後、ニミッツはまずスプルーアンスを呼び出した。
彼は三〇分後、ニミッツの前に姿を現わした。彼は直前まで、煤けた制服と荒れた顔立ちをしていたが、真新しい制服に着替え、髭を当たっていた。
ニミッツは彼をにこやかに出迎えた。
「よく、艦隊を連れ戻してくれた。感謝する」
「……キンメル提督の遺言でしたからね」
「うん、それにしても見事な撤退戦だ。後世の教科書にも載せていいくらいだ」
「ありがとうございます」
ニミッツは本題に入った。
「それで、今後のことなのだが」
「今後、ですか?」
スプルーアンスは目をしばしばさせる。
「査問会の上、予備役編入だと思っていましたが……」
「誰を、なんのために?」
ニミッツの姿勢が少し前のめりとなった。
「私は誰も査問委員会にかけるつもりはない。また、予備役への編入も考えていない。せっかく、日本艦隊との決戦で、貴重な戦訓を得た人材を、どうして無碍にすることができようか?」
スプルーアンスの目に光が宿る。
「そこで、だ」
ニミッツは姿勢を正した。
「君を、太平洋艦隊参謀長に迎えたい」
「私を、ですか?」
「そうだ。先ほど述べた通り、艦隊を連れ帰ったものはみな、貴重な戦訓を持っている。中でも君は、撤退戦という、最も困難な任務を成し遂げた男だ。今度は私を助けてもらいたい」
ニミッツの飾らぬ申し出に、スプルーアンスも姿勢を正した。
「私でよければ引き受けましょう」
「ありがとう、レイ」
ニミッツは相好を崩す。
「まず、今後の対策と、今回の戦いについてのレポートをまとめよう。そうしたら、一週間の休暇を与える」
最後に、ウィンクしてお国訛りをまろびだした。
「まんず、よろすく頼むわ」
さらに数時間後、ニミッツは生き残りの提督を参集した。
彼は率直に述べた。
「日本艦隊に敗れたのは事実だ。それは動かせない。しかし、破れたままでいる訳にもいかない。まずは被害を明確にし、今、我々が打てる手を打とう」
スプルーアンスの手で太平洋艦隊の被害状況が示された。
戦没:空母五隻、装甲巡洋艦二隻、重巡四隻、軽巡、駆逐艦等々……中破以下の艦も多数だった。
「改めて見ると、非道いものだな……」
ニミッツが嘆息した。
「アジア艦隊の被害も勘定に入れると、まずは半身不随、といったところか……」
彼は腕を組む。
「戦訓は個別に聴取するとして、まず今我々がなにをできるか、ということだな」
スプルーアンスに向き直った。
「被害艦は、真珠湾で直せるもの、本国に回航するもの、それぞれリストに上げておいてくれ、それと……」
淡々と話が進む中で、威圧的な声が響いた。
「俺はなにをすればいい?」
ハルゼーだった。
「俺には『エンタープライズ』と『ヨークタウン』が無傷で残っている。なにかできることはないか?」
その口調は、敗北の痛みと責任感の入り混じったものだった。
ニミッツは「ふむ」と顎をつまむ。
スプルーアンスが提案した。
「まずは、艦載機とパイロットの補充をしてもらいましょう。その後、太平洋の日本の拠点に一撃離脱の攻撃を加えるのです。少しでも彼らの進撃を送らせるため、嫌がらせをしてやりましょう」
ニミッツが「ふむ」と考え、応えた。
「レイ、いい案だ」
ハルゼーは肉食獣の笑みを浮かべる。
「我々が、決して敗北しない、ダウンしっぱなしではないことをジャップに知らしめてやろう」




