第三章・崩れ落ちる砦
「これほど、卑怯で、破廉恥極まりない文章を受け取ることとなるとは、な」
──コーデル・ハル国務長官
一九四一年一二月七日 午後一一時過ぎ
スービック湾 フィリピン
キンメルからの再三の要請により、アジア艦隊空母部隊はようやく出港の手筈を整え始めた。
燃料、弾薬、それに兵員の食料などなど、全てが完了し外洋に出るのは、明日の午前と見込まれていた。埠頭や艦内では、出撃準備で大わらわとなっていた。
彼、ドリスー・ミラー三等水兵は、残飯を捨てるために甲板へと上がっていた。どんな時でも兵隊は腹を空かせる。そんな彼らに食事を提供するのが彼の任務だった。
ミラーは籠一杯の残飯を海に捨てながらぼやいた。
“ホワイティが騒いでいるけど、戦争かな? 面倒だな”
彼の乗る空母「レンジャー」も、内で外でと出港準備が続けられていた。
ふと、彼の目に何かが光ったような気がした。それは“ヒュルル……”と音を立て、近くにいた空母「ユナイテッド・ステーツ」の付近に落下した。その瞬間、盛大な水柱が上がる。
“これは……”
ミラーがおののく間に、ようやく警報が鳴り出した。空に向かって探照灯が伸び、チラチラと航空機が飛んでいる様が見える。
その集団が、ミラーの乗る「レンジャー」や、他の空母を目がけて急降下している。
その光景に、膝が震えているのが自分でもわかった。
頭上で両用砲が射撃を始めるのが振動で伝わってきた。彼の目の前の機銃もドカドカと弾を放つ。
呆然と眺める彼に、衝撃が襲ってきた。飛行甲板に爆弾が命中したらしい。耳を塞いで耐える。
まだ、レンジャーは耐え凌いでいた。彼女の頑丈さに、ミラーは感動した。
外洋から新たな敵機が、匍匐前進するように迫ってきた。銃手も必死で応戦する。
と、その戦闘機(だろうか?)から火花が見えた。数瞬後、目の前の銃手がスイカのように破裂する。ミラーにも血しぶきが降り注いだ。
“この野郎……”
ミラーは死せる銃手に代わって機銃の引き金を引いた。すでに頭は沸騰し、当てずっぽうの射撃に過ぎなかった。
それでも、艦上を駆け抜けようとする敵機に命中したらしい。機体から火を噴き、目の前の海面に堕ちた……。
“やった、のか……?”
「ミラー三等兵!」
振り返ると、上官が立っていた。彼は独断で機銃を撃ったことを咎められるのを覚悟した。
しかし、上官は顔をほころばせて肩を叩いた。
「よくやった! 敵機を撃墜するなんて、勲章ものだ」
ミラーは鼻を擦って返事に変えた。
ただし、彼の起こした奇跡は、全体ではなんの効果も得られなかった。
どこかで大音響が鳴る。ミラーと上官が同じ方向を見る。
そこには、かつて「ユナイテッド・ステーツ」と称されたものが、抽象芸術に変容を強いられた光景が広がっていた……。
同時刻 国務省ビル コロンビア特別区
“書記官はなにをしていたのだ?”
野村全権大使は長官執務室の前で独り言ちていた。
“予定より通告が遅れてしまったじゃないか”
やがて、国務長官執務室に通される。中ではコーデル・ハルが執務机から立とうともせず、腕を組んでじっとしていた。
不審に思いながらも、野村は文章を差し出した。ハルは手を伸ばさず「そこに置け」と言わんばかりに顎をしゃくった。
気まずい沈黙が流れる。
やがて、ハルが口を開く。
「これほど、卑怯で、破廉恥極まりない文章を受け取ることとなるとは、な」
野村が顔をしかめると、ハルは続けて述べた。
「つい三十分前、我が海軍が日本帝国から攻撃を受けたことの報告が届きました。貴方たちは、日清・日露の頃から進歩していませんな」
そうして、ハルは扉の外に向け、再び顎をしゃくる。「出ていけ」の合図だった。
一九四一年一二月八日
スービック湾 フィリピン
やがて、夜が明ける。
スービック湾は鉄くずと油膜の展覧会となっていた。
辺りには油・焦げた金属・海水の匂いが立ち込める。もっとも強烈なのは、すでに腐敗が始まった人体からの腐臭だった。
見物人は黒く煤けた生き残りの将兵だけだった。
鳥の声すら聞こえなかった
ミラーの乗る「レンジャー」も、大爆発とはならなかったものの、魚雷を二発くらい、大破着底状態となった。
喫水線を間近に見下ろしながら、彼はつぶやいた。
“遠征してこれじゃぁ、世話ないよな……せめて戦闘手当を弾んでくれなきゃ……”
一九四一年一二月八日
真珠湾 オアフ島 ハワイ準州
スービック湾での悲劇が司令部に届いた。
内容は凄惨なものだった。主だった損害は
撃沈: 「ユナイテッド・ステーツ」(レキシントン級)
「ゲティスバーグ」(ヨークタウン級)
大破着底:「レンジャー」(レキシントン級)
「モンマス」(ヨークタウン級)
そして、洋上に逃げおおせた水上艦隊も、待ち構えていた日本艦隊に撃滅されていた。
そして止めに、ハート大将の戦死も確認された。
「壊滅状態、か……」
キンメルは戦死者の冥福を神に祈る。
“我々は、翻弄されてばかりではないか!”
横にいた参謀長が尋ねる。
「いかが対処いたしましょう?」
キンメルは一瞬彼を睨みつける。参謀長が縮み上がるのが見てとれた。
「まず」
あくまで冷静に応える。
「空母を戻せ。そして、改めて『オレンジⅡ』を実施する」
「了解です」
キンメルには、参謀たちの視線が遠く感じられた
同時刻 ホワイトハウス コロンビア特別区
「あぁ、あぁ、あちこちから報告を受けているところだ。そうだな、誠に残念な事態だ。私も憂慮している。うん、宣戦布告の演説? 今準備をしている。整ったら、また連絡する」
合衆国大統領ルーズヴェルトは一度受話器を置き、再びあげた。交換手に用事を伝える。すぐに回線が繋がった。
「提督、君が求めていた『オレンジⅡ』の実施についてだ。現時刻をもって許可する。あぁ、うん、わかった。しっかり任務を果たしてくれたまえ」
再び受話器を置いた彼は、車椅子に体重を預けた。
──これで、堂々と宣戦布告ができる。欧州にも介入できるな。しかし、ハートはなにをやっていたのだ? 彼ももう少しできる男だと思ったんだがな。
まぁ、仕方がない。開戦の代償と受け止めよう。
後はキンメルか。彼こそは大丈夫だろう。「オレンジⅡ」か。まずはお手並み拝見だな。
彼の判断ひとつで、太平洋の未来が変わる。それは彼も理解していよう。そうでなければ……。
やがて彼は、執事に車椅子を任せて議会へと向かった。




