第二章・引き金を引くもの
「宣戦布告は、間に合ったのだろうな?」
──近藤信竹中将・第三艦隊司令長官
一九四一年一二月二日
軍令部 千代田 東京府
山本五十六大将は軍令部総長から、一通の書類を手渡された。
菊の透かしの入ったその書類を、その場で読む。
要約すると「十二月八日午前零時以後(中略)武力ヲ発動スベシ」と記されていた。
彼は何度も読み込む。そして深く呼吸した。
“とうとう開戦が決したか。こうなったらやむを得ない。これまで練磨を続けてきた機動艦隊を出さねばならんな”
九月の演習を思い出す。
“あの時はことごとく苦杯を舐めたが、あれから策も練り直した。このことで勝ちを拾えればよいのだが、……すでにルビコン川は渡ったのだ。後は……”
目に見えぬ勝利が、彼の焦燥感を募らせていた。
“……「機先を制する一撃」が成功するか、どうかだな”
聯合艦隊司令部は開戦に備え、呉から横須賀に移動していた。軍令部から戻った山本は、ただちに幕僚と作戦討議に移った。
ちなみに、「聯合艦隊旗艦」という存在は、帝国が航空主兵主義を採用して以来、廃止となっている。
宇垣参謀長が説明をする。
「第三艦隊はすでに出港、太平洋を南下し、フィリピンのスービック湾を目指しています。第一・第二艦隊はトラックで待機、米主力艦隊の迎撃に当たります」
誰かが尋ねた。
「アジア艦隊は強力です。太平洋艦隊との挟み撃ちになる可能性はありませんか?」
山本が応える。
「うん、そのために策は練った。囮の潜水艦を、北太平洋に配置している。彼は時期を見て適当な電文を発する予定だ」
宇垣が同情するような声音で述べた。
「空母から潜水艦への異動は、さぞ堪えるだろうな」
黒島先任参謀が胸を張って応えた。
「これも、敵を翻弄する策です」
「わかっている。ただ、急場の異動だ。艦に慣れるのも一苦労だろう」
山本がふたりを仲裁するように割って入った。
「黒島君はよくやってるよ。偵察機の問題もある程度解決しそうだし」
宇垣はやや不満そうながらも、うなずき、航空参謀に尋ねる。
「その、偵察機だが、現状どこまで進んでいる?」
「はい、全空母までは無理でしたが、『赤城』と『蒼龍』に、それぞれ五機ずつ配備できました」
「そうか。わかった」
山本が口を開く。
「まずは、彼らの活躍に期待する」
一九四一年一二月七日 深夜
フィリピン東方洋上 太平洋
「総飛行機発動」
その声と共に、整備員と搭乗員がわらわらと動き出した。
プロペラの高音と発動機の低音が甲板を支配し始める。
最低限の照明が灯されているとはいえ、洋上では二重に危険な行為といえよう。
ある零戦の操縦席で、整備員が搭乗員へ最後の確認をおこなっていた。
「シゲさん、頼んだよ」
カンテラの照らす淡い光の中、搭乗員は親指を立てる。
「任せとけ」
ふと、整備員の目が計器盤にゆく。端には娘と思われる、一葉の写真が飾られていた。
甲板の様子を艦橋から眺めている近藤信竹・第三艦隊司令長官が嘆息する。
“深夜、宣戦布告と同時の奇襲か。「機先を制する」とは言え、俺の戦力で叩き切ることができるのだろうか?”
日本時間一二月八日に変わると同時に、彼の艦隊はスービック湾にいる米アジア艦隊を奇襲する手筈となっていた。
フィリピンの基地は在台湾の基地航空隊に任せるとして、艦隊撃滅は彼の手にかかっていた。
“せめて、「加賀」か「土佐」でもいてくれれば万全だったのだが……”
近藤の艦隊には旗艦「伊勢」と、「日向」「山城」「扶桑」が配備され、そこに若干の護衛が付けられていた。彼女たちはいずれも四十機の搭載数で、合わせても百六十機に過ぎなかった。
“不満を並べても仕方がない。今は陛下から賜った兵力で全力を尽くすだけだ”
やがて、発艦時間となる。近藤は参謀長にうなずく。彼は闊達に指示を出した。
誘導員に案内され、零戦や九九艦爆、九七艦攻が、発光塗料が塗られた滑走路を次々と飛び立つ。翼端灯の淡い光だけが彼らの存在証明だった。
彼らの放つプロペラの唸り声が夜の太平洋に響く。
それが段々と小さく、やがて消えていった。
一九四一年一二月八日 午前零時
聯合艦隊司令部 横須賀 神奈川県
壁に掲げられた振り子時計が、厳かな音色を響かせていた。
宇垣が口を開く。
「時間です」
山本も言葉少なにうなずく。
「うむ」
“いよいよ、機動艦隊の初陣か。米英相手にどこまで食い下がれるか……?”
彼は自身の発想に慄いた。
“どこまで、じゃない。勝利を掴まねば、戦の意味がない……。勝利を掴めなければ、国が滅ぶ……”
山本がこの段階でなにをどう考えようと、すでに帝国陸海軍は“勝利”を目指して動き始めていた。
同時刻 宮城 千代田 東京府
天皇は執務室で独り、その時間を迎えた。
彼は手元の腕時計をちらりと眺めた。
そして、眼鏡の位置をそっと直し、すぐに姿勢を正した。
同時刻 フィリピン東方洋上
「時間です」
参謀長の言葉に近藤はうなずく。
「よし、『Z』を発信せよ」
第三艦隊司令部は電文を発した。
「Z・Z・Z」
それが意味するものは、「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」を伝えるため、限りなく短く発せられたものだった。同時に、発進した攻撃隊へ最終命令を与えるためでもある。
“始まっちまったな”
今、彼らの肩に、帝国の命運の一端が乗っていた
胃の痛くなるような時間が過ぎる。
やがて、攻撃隊から「トラ・トラ・トラ」の電文が届いた。どうやら奇襲に成功したようだ。
司令部内で安堵と歓喜の声が広がる。
通信参謀から報告が上がった。
「水上部隊が突入します」
近藤は小さくうなずいた。参謀長が隣で囁く。
「この作戦、我々の勝利ですな」
近藤もうなずきながら、ふと思った。
“宣戦布告は、間に合ったのだろうな?”




