プロローグ・絶望の征途
「何故、これほどのフネを建造できた我が国が負けかけているのか、どこで針路を違えたのか……?」
──伊藤整一中将・第一艦隊司令長官
一九四五年四月六日
呉軍港 広島県
“それ”は圧倒的な存在感を放ちつつ、呉軍港に悠然と佇んでいた。
瀬戸内海の懐に抱かれ、春のうららかな陽気とは裏腹に、“それ”の巨大な影は埠頭を覆い、港でも異彩を放っていた。
これが開戦前なら、いや、そもそも今次大戦が起きていなかったら、新鋭艦艇の一隻として将兵の羨望の眼差しを受ける栄誉を与えられただろう。
だが、現実として、彼女は秘密裡の内に建造され、誰にも知られぬまま最後の任務に赴こうとしていた。
今は時折鴎の鳴き声が響くだけ。静寂が港を包む。
かつての賑わいを喪い、敗戦の影と無力感が港を支配していた。
──開戦からすでに三年が過ぎていた。数多の海戦により、聯合艦隊の艨艟たちは激減していた。
呉には残されたものたち、例えば「榛名」「日向」「伊勢」と言ったフネもいた。しかし、すでに港から出る力はなかった。燃料欠乏のためである。
そんな彼女たちに与えられた任務は「港内防空艦」だった。
聯合艦隊第一艦隊司令長官・伊藤整一中将は、“それ”の艦橋から甲板を眺めていた。
第一艦隊──“それ”を旗艦とした艦隊のみが、出撃のために忙しなく水兵が動いているのが見てとれた。艦内あちこちで訓練が実施され、水兵の駆けだす音と兵曹長の怒号が響いている。
そして、格納庫では整備兵による最後の調整が続けられていた。
彼らは前日の「酒保明け」とともに、気の置けない仲間と最後の酒を楽しんだ。中には今朝になっても二日酔いの残るものもいる。だが、それをおくびにも出さず、健気に任務に当たっていた。
そんな様子を頼もしく眺めながら、彼は前日の打ち合わせを思い出していた。
・・・
「沖縄は『大和』を待っている!」
日吉の地下司令壕に“引き籠っている”聯合艦隊司令部から来た、神参謀が熱弁を奮っていた。
伊藤が反論を試みる。
「我々は命令に従い、これまで準備を続けてきました。しかし、『大和』一隻が沖縄に向かっても袋叩きに遭うだけでしょう。沖縄に辿り着ける確信はありません。──本当に意味のある作戦なのですか?」
半ば激高した神が応えた。
「着ける、着けないではありまっしぇん! 沖縄に遊弋する米艦隊に一撃を加える。これは、本土の将兵になにごとにも代え難い勇気を、戦意を生みだす。それは無限の戦果になるではないですか!」
反論は無意味だと認めつつ、伊藤は静かに応えた。
「意義は認めます。しかし、そのために第一艦隊将兵に犠牲を強いるのですか。『大和』だけで五千人の将兵が乗艦しているのです。──ほかに使い途はなかったのですか?」
伊藤の後ろにいる森下や有賀は、どこか憤怒に燃える目を神に突き刺していた。
我慢のできなくなった有賀が切り出す。
「我々はこれまで、敵艦隊に一撃を加えるべく、訓練を重ねてきた。沖縄救援? それはよろしい。しかし、袋叩きになっては意味がないではないか?」
「怖気づいたのか?」
神は傲然と胸を反らせた。
「貴様の忠節はそんなものか」
挑発する神に有賀が激高する。
「なんですと!? 自分の忠節を否定するのですか? 私は、これまで人生を祖国と海軍に注いできました。故なき侮辱は許しませんぞ!」
慌てて寺内「雪風」駆逐艦長が有賀を抑えた。
そんな様子を見ていた伊藤が口を開いた。
「神参謀、『大和』が沖縄へ征かねばならない理由を教えてくれないか?」
伊藤の目には、踏ん切りのつく話を聞かせてくれ、そんな懇願の光があった。
神は黙り込んだ。この先を話すべきか、彼には迷いがあった。これまでの高圧的な姿勢も、本音を隠すための方便であった。
「先日……」
神の表情が微妙に変化した。躊躇いがちに口を開く。
「沖縄戦について、総長から陛下に上奏された……」
「陛下」の文言が出ると同時に、作戦室の雰囲気が変わった。寺内に抑えられていた有賀も姿勢を正す。
「……総長は『全航空兵力を沖縄に向けます。海軍は航空総特攻でいきます』と上奏した。そこで陛下はこうご下問ばされた。『飛行機だけか、もう海軍にフネはないのか?』、と。総長は『いえ、『大和』があります』と答えもした。全海軍をあげ、一億総特攻の先駆けとします、……と」
神の口調にはどこか、後悔の念があった。
“畜生、作戦会議に菊の御紋を出すなんて……、なにがスマートネイヴィだ”
伊藤は目を瞑った。
“神参謀も本当は口にしたくなかったのだろう。だがこれで……”
再び眼を開ける。その表情はにこやかなものに変化していた。
「それならばわかりました。作戦としては承服致しかねますが、一億総特攻の先駆けとして征けというのなら、喜んで参りましょう」
神が初めて頭を下げた。
「……よろしく、頼む」
・・・
午後一時
出撃準備が整い、「大和」は錨をあげた。二度と使われない錨、水兵たちが錨についた汚れを洗い流していた。
曳船に誘導され、彼女は港を後にする。桜が舞い散るなか、甲板で作業を見守っている大尉が、少しの間祖国の桜を、春の幾山河を眺めていた。
その間にも整備兵は戦闘を前に、列機の整備が続けられていた。
「これで祖国も見納めですな」
森下参謀長がつぶやく。
まもなく、港から信号が届いた。
「貴艦隊ノ勇戦奮闘ヲ祈ル」
伊藤長官は有賀艦長に顔を向けた。
「好きに返信していいよ」
「ありがとうございます、『我、祖国ト同胞の再興を信ズ、サラバ』、以上」
「『再興』、ね」
森下が呆れたような声を漏らした。
「そんなもの、この期に及んで信じられるのかね?」
有賀は莞爾として応えた。
「それが信じられるなら、この任務も楽しいじゃありませんか。この『大和』がどこまで戦えるか……腕が鳴ります」
伊藤も微笑んだ。
「頼もしい限りだ」
森下が戦務参謀に尋ねる。
「直掩は期待できるのか?」
戦務参謀が戸惑いを帯びた口調で応える。
「はい、途中までは第五航空艦隊の零戦隊が……。しかし沖縄までは……」
確かに、航続距離の関係で、彼らの直掩は期待できなかった。しかし……。
伊藤は微笑んだ。
「心配いらない。艦長、我が艦戦隊で直掩は続けられるだろう」
有賀は自信ありげに応える。
「はい! お任せください」
伊藤が艦橋内に響く音声で締めた。
「我が海軍の航空主兵主義、その掉尾を飾ろうじゃないか」
伊藤は、飛行甲板を見つめた。烈風、彗星、流星、彩雲……、空の猛禽類を載せた超大型空母「大和」が今、沖縄救援のために最後の出撃を果たしていた……。
満載排水量七万五千トン、全長三百二十メートル、搭載機百二十機を誇る、帝国海軍最大の──世界最大最強の空母「大和」が悠然と航行する。
第一艦隊は、超大型空母「大和」を旗艦とし、防空巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「冬月」「涼月」「雪風」「磯風」「浜風」「朝霜」「霞」「初霜」が護衛にあたっていた。
艦橋からは輪形陣を敷く艦隊が見て取れる。それに、広大な飛行甲板にはF6Fを上回る性能を持つ烈風、かつての零戦並の速度を誇る彗星、艦爆にもなれる万能艦攻・流星の姿も見えた。
「『大和』、か」
それを眺めながら伊藤は内心で呻いた。
「祖国の異名を抱くこのフネは、結局空母として完成した。米英が大艦巨砲主義に未練を残す中、我が国が航空主兵主義を前面に押し出し、『大和』の様な超大型空母を生み出すまでに至った、しかし……」
死地に向かわせる第一艦隊七千の将兵を想うと、伊藤の胸は痛んだ。
「何故、これほどのフネを建造できた我が国が負けかけているのか、どこで針路を違えたのか……?」
それは伊藤の感慨であり、ほかのものには語ることができなかった。
彼は胸ポケットに手を添えた。中には妻と子の写真が収められていた。
・・・
「第一艦隊、もとより生還を期せず」
大東亜戦争は終末的段階に突入していた。沖縄には米軍が上陸し、日米両軍の狭間で沖縄県民が塗炭の苦しみを味わっている。
「大和」が救援に当たると言っても、沖縄沖にはスプルーアンス大将率いる米第五艦隊が群れを成して彼女を待ち受けていた。
何故、「大和」が一億総特攻の先駆けとならざるを得なかったのか……?
それを物語るには、少々時間を遡らなくてはならない……。




