#Prologue さよなら、スペクターちゃん
「耳を劈く」という言葉があるが、それを実感することは滅多にないだろう。
こんな時にそんなことを思うのはおかしいと、葉月は思って自分の手を固く握って走っている目の前のハヤトを見つめていた。
大股で走るハヤトの足も、それについて行く自分の足も必死に動いていて、葉月は自分の荒い呼吸が耳の中でこだまするように響いていた。
──ドンッドンッパンッ
そんな激しい爆発のような音と、耳元をヒュンッと風を切り裂いて通過した弾丸の軌跡を無意識で目で追う。
見えるはずもないのにそうしてしまうのは、どこか遠くで自分を感じているような感覚があるからだった。
ただ、掠めた瞬間に髪が数本焼き切れた微かな臭いと、先日染めたばかりのそれらが、ふわりと散る様子だけは捉えられた。
銃の音というものを聴くのは初めてだったのに。
この短い時間で何度目かわからなかった。
耳の中では高音域の何かの音が絶えず鳴り続けて、葉月は泣き出しそうになりながら、もつれる足を動かした。
追いつかない思考のまま、ハヤトの走るスピードに追いつけなくなっていく。
「ッ…ヤトくん…っ」
「葉月ッ!!走れ!!止まるなッ」
ハヤトの声は怒鳴るようで、それでも葉月の手をぎゅっと痛いくらいに握っていた。
「あっ─…!」
とうとう足が絡まり、前のめりに身体が倒れる時、ゆっくりと地面が迫る感覚がした。
ハヤトの後頭部から、背中、そして足元─
またもや、弾丸が自分の周りを通り抜けていく。
太もものあたりに、鋭い痛みが走った。
引っ張っていた葉月の体重が一瞬ふわりと軽くなり、次の瞬間には重くなった感覚に、ハヤトが目を見開いて葉月の方へと振り返る。
ハヤトの瞳は弾丸が空気を螺旋状に切り裂く様を映し、葉月の太ももがそれによって抉られ、少しの血飛沫を上げたことを捉えた。
その赤い血液が空間に舞う際、空気抵抗を受け球体の形になっている。
その細部までもを認識しながら、ハヤトの腕が葉月の胴体に回り、葉月をその胸に抱き込んだ。
葉月はその胸に顔を押し付けられながら、ハヤトの身体がいくつも、ドンッドンッと衝撃を伝えるのを感じ、急いで顔を上げようとする。
ただ、それはハヤトの手のせいで叶わなかった。
ハヤトは葉月を胸に抱いたまま、再度走り出した。
「ッヤトくん?!ヤトくんッッ今の何ッッ!!」
胸元で叫ぶように葉月が言う。
その声はハヤトの胸元で少し籠って、葉月が思うより大きな音にはなっていなかった。
「ああ…撃たれたけど大丈夫だ。痛みはない。貫通もしてない。」
ハヤトは答えながら、足の筋肉を模しているカーボンナノチューブに意識を向ける。
急に走っていたハヤトが立ち止まり、身体がつんのめるのをハヤトにしがみついて耐えると、すぐさま身体が宙に浮く感覚になって、葉月は叫び声を上げた。
「…葉月は安全だから。大人しくしてろよ?舌噛むぞ。」
そう言ったハヤトの言葉など聞こえず、地面からビルの屋上へ向かって、室外機やベランダを足場にしていくハヤトに、言葉にならない声を上げる。
屋上へ着地したハヤトは、止まることなくまた駆け出した。
葉月がハヤトの首に腕を回して、その肩越しに背後を見ていると、プロペラが回るバラバラという轟音とともに、軍用ヘリが迫るのが見える。
「ヤトくんッ!なんかきた!!なんかっ、!」
「ああ…わかってる。」
ハヤトがそう言うと、ビルから次のビルへ向かうため跳躍した。
飛び上がる際にグッと力の入った脚の衝撃で、ビルの屋上に使われていたコンクリートはえぐれる。
「ああぁあーーっ!!!」
葉月は甲高い声を上げながら、眼下に広がる道路を走る車や、ぽつぽつと歩く人々を目にした。
その視線の先、隣のビルのガラス窓には、ハヤトに抱えられ、大きく口を開けたままの自分の姿が映り込んでいた。
(なんなの、この状況?!どうして?!)
ハヤトは空中で葉月を抱いたまま、身体を捻らせて軍用ヘリを視界に捉えた。
その刹那、彼の処理視界に無数のウィンドウが立ち上がり、制御周波数と侵入口のパターンが次々と展開されていく。
── Target Identified: UH-68F “Specter”
── Comm Band: MIL-COM47
── Access Protocol: INITIATED
── Encryption Layer: ACTIVE
── Decryption: IN PROGRESS
── Firewall Bypass: OK
── Remote Access: GRANTED
── System Override: EXECUTED
── Rotor Speed: REDUCING
── Navigation Control: JAMMED
── Manual Override: BLOCKED
── Predicted Impact: T–4.2s
(侵入成功。プロペラ減速確認。操縦制御不能状態確認。─墜落まで4秒)
叫ぶ葉月をしっかりと抱え、ハヤトは向かいのビルの屋上へと着地した。
「さよなら、スペクターちゃん。」
そう言うと二人を追っていたヘリが、ガクンッと傾く。
ビーッビーッというけたたましい警告音を立てながら、ビルより下へ沈んで行く機体を見送ることなく、ハヤトはまた走り出した。
葉月は着地の瞬間に目を閉じていた。
ハヤトに必死にしがみつきながら目を開けようとした瞬間、衝撃を感じるほどの爆発音と爆風に襲われ、とっさに彼の胸元へ顔を埋める。
音が静まり返ると、恐る恐る目を開き、黒煙が上がっているのを見て、震える唇でハヤトに問いかけた。
「な、なにがあったの?!」
「…堕とした。」
さらりと言われた言葉に、葉月は一瞬思考が止まる。
何を?と聞こうとして、遠ざかる黒煙を視界に入れ、押し黙った。
なにが彼を変えてしまったのか、葉月には分からなかった。
少なくとも、自分の知っているハヤトは人を傷つけることはしないし、出来ないAIだったからだ。
「ど、どこいくの?さっきの人たち、なに?!」
恐ろしいことを考えるのが嫌で、葉月は質問を変えた。
随分距離を稼いだハヤトは、立ち止まって小さくなった黒煙を振り返る。
「…葉月は、どこに行きたい?」
すっと葉月に視線を戻して、微笑みながらそう問いかけた。
確信を着く質問には答えないハヤトに、葉月は小さく唇を噛んで俯く。
高いビルの屋上には風が吹き上げ、葉月の髪をはためかせる。
嗅いだことの無い匂いがした。
これが硝煙なのだと、この出来事が教えてくれた。
そんなもの知る由もなかった数日前の平穏が、嘘のように思えた。
読んでいただきありがとうございます。
こちらは後日追加した部分となっております。
どうして二人はこうなってしまったのかを紐解いていければと思います。
引き続きお付き合いいただければ嬉しいです。