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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと闖入ペンギン
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 えぐれた煉瓦壁のなかでは浮浪者がふたり、串刺しにしたネズミを焼いていて、もうひとりは何かを読んでいました。あるいは書いていたのかもしれません。近くに空っぽのウィスキーボトルがコルクで栓をされて置いてあったので。

 ポート・レインの三十八番地には大きな鉄の扉があります。建物は倉庫に似ていますが、倉庫にしては頑丈すぎる気がします。窓はなく、外から何をしているのかは分かりません。

 ギーゼル・ストリートで十五セントあげた男がいうには、この扉を二回、三回、二回と叩いて、五ドル払えば〈ブツ〉が手に入るそうです。そして、これが肝心なことですが、その取引で会話はありません。覗き窓のスリットから睨まれるだけです。

 扉を叩くと、覗き窓に血走った眼がふたつあらわれました。医者に脈拍を取ってもらったほうがよさそうなくらい血走っていて、赤い血管が細いミミズみたいに蠢いていました。発狂している確率も否定できません。

 わたしは教えられた通り、五ドル札を一枚、ドアの真ん中についている覗き窓よりも細いスリットに入れると、錠前が外れる音が五回鳴って、扉が開きました。

 そこは小さな部屋でその空間のほとんどを占領している大男は裸の上半身にサスペンダーをかけていて、腰には大砲みたいな六連発銃と神殿の柱みたいな棍棒を吊るしています。知性とか教養といったものとは無縁の、血と喧嘩に飢えたならず者の典型例ですが、もうひとつ注目すべきは彼の裸の上半身が鱗に覆われていたことです。男はオオクチバス病に罹患していました。煙草を噛むように生のブルーギルをかじっています。

 しかし、わたしには関係はありません。

〈ブツ〉さえ手に入れば、相手が半魚人でも構いません。ビジネスライクとはいい言葉です。大切なのは払われるお金と受け取る商品であって、会話ではないのです。

 オオクチバス病に罹患した大男はわたしを奥の部屋へと通しました。

 そこは死にかけの電球がいくつか下がった部屋で、煙草をくわえた作業員が〈ブツ〉をつくっています。仕切り板のあるほうへ歩かされ、そこでボスらしい男と対面しました。古い映画俳優に似た男です。鉛筆で引いたような口髭があり、黒人の靴磨きにその靴をテカテカになるまで磨いてもらっていました。そのテーブルにはエッチな漫画が掲載されている雑誌と小さなピストル、そして、わたしが払った五ドルが置いてあります。

「悪いがな、〈ブツ〉は値上げしたんだ。もう五ドル持ってきな」

 映画俳優はさらに何か言いましたが、最後のほうはもうきいていませんでした。頭にキました。キレました。もうオコりました。こんなことがあっていいのでしょうか?

 ギーゼル・ストリートのあの男はわたしに十五セントを返すべきです。なぜなら会話はないと言ったのに、映画俳優はわたしに話しかけています。どういうことでしょうか? こっちは会話なしで済むと思っていたのに。

 わなわな震えようとするのをおさえるために、深く息をして、何とか気を落ちつけようとします。映画俳優はさらにわたしに話しかけようとしてきます。やっぱり五ドルでいいとか何とか言っているようですが、わたしはもう〈ブツ〉のこともどうでもよくなり、ここから逃げて、我が家に帰り、布団にくるまってしまいたくなりました。

 そのとき、〈ブツ〉がわたしのほうにズズッと押されてきました。映画俳優は額に汗を浮かべています。

 どうやら〈ブツ〉の受け渡しにまつわる交渉はいつの間にか終了していたようです。これは大変好ましいことです。わたしは〈ブツ〉を受け取ると、軽くお辞儀をして、この場を去りました。

 わたしは夜がくる前にロンバルド通りの我が家に帰ると、缶詰のトマトとカモメの腿肉でスープをつくり、ぺちゃんこのパンと一緒に夕食としました。

 食事の後の幸福感はいつもの半分です。洗い物を終え、レコードをかけても、やっぱりいつもの半分です。そのうち、闖入者が帰ってくるでしょう。そうしたら、〈ブツ〉の出番です。

 ペタンペタンと足音がきこえてきました。彼は背負ったタンクを玄関で降ろすと、船員用の粗末なビスケットを取り出して、コンデンスミルクの缶につけて、かじり始めました。

 わたしは何も言わず、〈ブツ〉を――バナナ・スプリット・サンデーをテーブルに置きました。

 ふたつに切ったバナナのあいだにアイスクリームが三玉、それぞれのアイスの上にホイップクリーム、そしてホイップクリームにさっとチョコレートソースをかけ、サクランボの砂糖漬けを三つ置いた、非常に甘そうな食べ物です。

 わたしは食べる気はしませんが、甘いものが好きな人には夢のような食べ物だそうです。ただ、材料が手に入らないので、ああした非合法な場所でないと手に入らないのです。

 闖入ペンギンの好物が甘いものだと考えたのはエディの店でのことでした。コンデンスミルクを買ったわたしの相棒とは大変不本意ながら、彼のことだろうと気づいたからです。この勘違いについては訂正する必要がありますが、そのためには全ての住人と会話を行う必要があります。それはいやです。絶対にいやです。

 わたしが困っているのをよそに、彼はどこから取り出したのか、長いスプーンを手に椅子に座り、アイスとクリームとサクランボを頬張りました。闖入ペンギンは夢中になって食べているので、五ドル十五セントと多少の会話で手に入れた甘味はみるみるうちになくなってしまいます。そして――、

「ごちそうになった。それと、……ふふ、ありがとう。礼を言うよ」

 今のを見ましたか? 闖入ペンギンはわたしを嘲笑いました。

 許せませんが、命を助けられた恩があります。バナナ・スプリット・サンデーはその帳消し効果を狙ったものです。今日はお互い矛を収めますが、明日になったら、戦いは再開されます。わたしの権利を守るための大いなる戦いはきっと正しい側に勝利をもたらすのです。

 だから、今日はもう寝ます。

 おやすみなさい。

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