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わたしについて勘違いがあることはときどき煩わしく思います。
ボトル・シティの住人はわたしの名前がヘンリー・グレイマンだと思っています。それはわたしが灰色だからです。
それは違います。灰色なのは髪だけです。来ている服は濃い目の灰色であり、手袋は薄い灰色、目はちょっと薄い灰色で、顔は極めて白に近い灰色です。灰色にも種類があるのです。
そして、これが一番の間違いで、わたしの名前はヘンリー・グレイマンではなく、ヘンリー・ギフトレスです。アーサー・ギフトレスとメリンダ・ギフトレスとのあいだに生まれた息子で、アンドレアス・ギフトレスの甥にして義理の息子です。
しかし、出会う人に片っ端から「わたしの名前はヘンリー・ギフトレスです」と訂正してまわるのは絶対に嫌ですし、名前が違ったからと言って、何ら不利益を被ってはいません。
最大の不利益は昨晩からわたしの家を不法占拠した潜水士の少年です。ラム酒作戦は失敗しました。地図にしっかり赤鉛筆で囲い、ウツボ男の出ない時間帯も書いて教えたのに、闖入者のこたえは、
「ボクは賞金稼ぎだ」
と、きました。
潜水士の賞金稼ぎ! ボトル・シティにも賞金稼ぎはいますが、彼らはもっぱら陸専門で潜水士で賞金稼ぎとはきいたことがありません。なぜなら、それはただの自殺行為だからです。あるいは保険金殺人。彼の保険を引き受けてくれる保険会社があればの話ですが。
「だから、ラム酒をサルベージする必要はない。きみの獲物に手は出さないよ」
「あ、う、ぅ」
可愛げのない話です。それでもこのサルベージ地点を受け取って、お礼に別の部屋に移ってもいいではないですか。
わたしが引っ越す予定はありません。新しい部屋に慣れるのは人と話すのと同じで、とても気力を使います。新しいお隣さんが夜な夜な「愛について語ろう!」とはいかなくても、やかましいトランペット奏者である可能性だってゼロではないのです。
だいたい、部屋を変えるだけの決心がつけば、ボトル・シティを出ていくことも可能です。だから、わたしが部屋を変えることはないのです。それに家賃がかからない今の状態を捨てるのはわたしの財政的現状が許しません。そういうものなのです。
しかし、まあ、これでいろいろはっきりしました。
彼の目的はわたしの殲滅です。
その証拠に彼は潜水用スーツのまま、空気タンクを背負って、足ヒレすら脱がずに外を歩いているのです。アンドレアス伯父の手紙は潜水士が部屋に住むことを許すとあります。つまり、彼は自分が潜水士であることをこの沈みゆく世間に大々的にアピールすることにより、本当にあの部屋に住むべきなのはわたしではなく彼であると圧倒的多数に認めさせようとしているのです。
敵はなかなかに狡猾です。一朝一夕、オイル・サーディンの缶を開けるみたいに簡単に打倒できそうにはありません。
そこで当座すべきことを考えました。
とりあえず、潜水士としての仕事をいつものようにこなすことにします。これにはふたつの効果があります。まず、わたしが今も昔も潜水士であることを世に知らしめることで、わたしの部屋に対する正当性を世論に訴えること。もうひとつはいつものルーティンを崩さずに平常心で過ごすことで、敵の出現はわたしに対して、なんら影響を及ぼさないことを彼に教えます。
もちろん、まだ潜在的危険に対する課題が残っています。
たとえば、潜っている最中のわたしの楽しみであるひとり言をきかれる可能性があることです。ただ、彼が自己申告の通り、賞金稼ぎの潜水士ならば、わたしの探索水域と彼の狩場は重なりません。いつもより少し注意して潜っていればいいのです。
侵略者が商業街方面の東水域へ泳いでいくのを見て、わたしは商業街の西水域を目指すことにしました。この時期は西に餌を求める怪物はいません。安全ですが、怪物アンコウの例もあるので、水中銃とナイフは持っていくべきでしょう。
本当は新市街に行きたいのですが、彼の動きを予想すれば、商業街の北から流れに乗って、新市街へ向かうはずなので、ここはわたしが折れます。
旧市街の一戸建て住宅がいくつも水没した水域をボートで進んでいると、クレイズ・クロッシングのあたりでポンコツ自動車をモーターボートに改造した危険極まりない連中が不必要に波を起こしながらUターンを繰り返していました。
みな斜めに中折れ帽をかぶったギャングかぶれで、馬鹿馬鹿しい死に方をするのがかっこいいと思っているらしいのですが、それなら賞金稼ぎの潜水士になるのがいいでしょう。ワニに食べられたり、地下水路で窒息したり、魚と間違えられて漁師の銛で串刺しにされたりと命が軽々消える方法が目白押しです。
今日の雨はそれほど激しくありません。雲も少し薄い気がします。トマトの缶詰とオイル・サーディンがきれていたことを思い出したので、エディ・カールソンの店に向かいました。
斜めに沈んだ二階建てバスがハイマン・アンド・デュボワ貯蓄銀行の正面建築に寄せられていて、色の褪めた珊瑚が階段のようにバスにへばりつき、二階の支店長室の窓へと続いています。
その支店長室がエドワータ・〈エディ〉・カールソンの雑貨店です。
粗末な板でつくった急ごしらえの棚があり、さらに粗末な板でつくったカウンターがふたつのドラム缶の上に渡されています。青く錆びたコンデンスミルクの缶詰がピラミッド型に積み上げられていて、これを買え!と言われているようですが、わたしは甘いものが苦手です。それは彼女もご存知の通りです。
エディは何も言わず、わたしが指差した缶詰を取ってくれます。この店は彼女の兄であるエドワード・〈エド〉・カールソンから引き継いだものです。1920年12月7日、エド・カールソンが大聖堂の裏手の屋台で傷んだ果物のなかから何とか食べられそうなものを見つけようとしているところを商売敵に背中から撃たれて死ぬと、エディ・カールソンは少しも慌てず、ポンプ式ショットガンでその商売敵を細切れにして、兄の商売の継承者として立場を確立しました。ボトル・シティでは缶詰を売るのもハードなのです。
エディ・カールソンはまだ三十になったばかりですが、疲れのせいで五十歳くらいに見えます。救いようがない世界で救われる価値のない人間に缶詰を売ることがいったいどんな意味があるのかを日々考え続けたせいでしょう。これは兄のエドが深刻に考えていたもので、エディは兄から店と在庫と仕入れルート、そして、悲観的な哲学を継承したのでした。
ただ、ボトル・シティの人間は多かれ少なかれ心に悲観主義を飼っています。かなりの楽観主義者ですら悲観的な見方をこっそり忍ばせているのです。
だから、悲観主義は弱さの印ではありません。エディの店ではカウンターの下に釘でぶら下げたボロ布が下がっていますが、その布に隠れて四丁のショットガンが固定されています。
四つの引き金は一本の紐につながっていますので、もし、複数人の客がナイフを取り出して金を出せ、などと言ったら、エディが紐を一本引っぱるだけで、カウンターの向こうにいる全員が膝から下を失います。人を一生歩けなくすることと悲観主義のあいだには何の障害もないのです。
エディの店にはよく通いますが、今日は何か違和感を覚えました。強盗が両の脛の骨を剥き出しにして転がりまわったのを見たときでも違和感を覚えたことはありませんでしたが、今日は何かがおかしい。何か間違い探しの絵を見るように店内を見ると、分かりました。カウンターのコンデンスミルクのピラミッドが未完状態なのです。てっぺんの缶がないのです。
誰かが買っていったのでしょう。違和感の正体が分かれば、どうってことはないものです。わたしとしてはエディの店が儲かることは好ましいのです。
「あんたの相棒が買っていった」
エディはそう言いました。
はて? わたしは考えました。潜水中にわたしの命を預かる潜水器具たちがどうやって自我を得て、エディの店でコンデンスミルクを買うのでしょう? いえ、もしかすると、これはアンクル・トッドのことを言っているのかもしれません。いい泥棒にいい故買屋がいるように、いい潜水士にはいい買い取り屋がいるものです。
だからといって、アンクル・トッドをわたしの相棒と呼ぶのは少し意味合いが異なる気もします。ですが、それをわざわざ訂正するために口をきくのは、ちょっと難しいです。訂正が必要ならアンクル・トッドに任せましょう。
缶詰を抱えてボートに載せた後、わたし、ヘンリー・ギフトレスの悲観主義について考えます。それは間違いなく、あの賞金稼ぎの潜水士によってもたらされたものでした。いずれ、尻尾を出すに決まっている、フフンと思ってはいます。
しかし、どんな尻尾が出てきたら、わたしの家から追い出すことができるのかまでは考えていません。こうして考えると、わたしは楽観主義者だったようです。これまでわたしが悲観だと思っていたものは子どものお遊びであり、本物の悲観とは今まさに思い知っているこの状態なのです。
商業街はほとんど地盤沈下で沈み、残った地区が島のように点々としています。エディの店のようなものがいくつもあり、ファースト・ナショナル銀行はまだ銀行業務を継続しています。
路面電車が沈んでいる位置で錨をおろし、潜水装備の確認をして、水のなかでわたしを生かしてくれることを確信し、その確信とともにマスクを手で押さえながら、飛び込みます。
ライトをつけ、目印の路面電車へと泳いでいきます。
クズ紙や果物の皮といったゴミが浮遊して、脂っぽい目をした魚が目の前を通り過ぎます。破壊された道路の中央、大きく岩盤が落ちた穴へと静かに進みます。路面電車はその大穴の底に横たわっています。
水深三十メートル。なかなか緊張する深さです。
青く暗い世界で頼れるのは装備と注意力です。冷たい水から体を守る潜水用スーツ、空気タンク、呼吸マスク、丸いガラスをはめ込んだゴーグル、懐中電灯。
このどれかがわたしを見限ったらおしまいです。
なるほど潜水士になりたがる人がいないわけです。その事実も最も不愉快な形で取り消されましたが。
さて、このポイントで潜るのはそれなりの見込みがあるからです。
実はこの穴の底、路面電車の下の隙間から入れるそこには、何百年も前にこの一帯を支配した豪族の墓があります。墓荒らしみたいなことはしたくありませんが、これからハードな戦いが控えているので、資金面での心配を減らさないといけません。ここは倫理にお留守になってもらって、資本主義的成功を夢見ることにしましょう。
背中のタンクがぶつからないよう注意しながら、もぞもぞと奥へ。
ここでは懐中電灯だけが使える光です。
わたしが入り込んだのは古い通路でした。壁には遠近感のない古代の召使いらしい絵が描いてあります。苔や欠落のないきれいな瑠璃のタイルに金色の鷲や鹿の絵。ボトル・シティが考古学的価値に尊敬を払わないことが残念なくらい見事なものです。
豪族の遺体が納められている玄室に入ると、鎧をまとった馬の像にまたがった豪族の鎧姿が光のなかにあらわれます。まるで、これから墓荒らしに抜刀突撃するみたいに剣を高くかかげているのですが、これは天井から針金のようなものを吊るして、姿勢を維持しているようです。きっと名のある豪族だったのでしょう。埋葬した人々の敬意が伝わるようです。
そんなわけで取っていく副葬品はひとつに絞ることにしました。
玄室は丸く、天井も丸い、プラネタリウムみたいで、そこには戦士たちの絵が所狭しと描かれていて、臨場感を醸し出します。さすがに亡骸のかかげている剣を取る気にはなれませんが、ちょっと苔を落とせば素晴らしい輝きを秘めた銀装飾の盃をひとついただくことになりました。豪族さんに〈蟹に食われた天使〉の加護のあらんことを。
その直後、ズウンと音がして、〈蟹に食われた天使〉の加護が必要なのは豪族ではなくわたしであることを思い知ることになります。
水のなかにいるとそれなりの地震があっても分かりません。だから、わたしが墓泥棒に勤しんでいるあいだに地震があって、路面電車がぐらっと位置をずらして、唯一の出口を塞いでしまったことに気づくのも少し時間がかかりました。
「まずい、まずい、まずい。これはすごくまずい」
わたしは空気の残量を見ました。あと、十五分。
路面電車は完璧に隙間を塞いでしまい、いくらライトで探っても、電車の側面につけられたホットドッグ店の宣伝板(ホットドッグ型のマスコットが自分の頭にケチャップをかけている発狂した絵柄)しか見えません。手で押してみましたが、無駄なことです。本来の通路の入り口は何百年も前に崩れた石で塞がっています。
こんなとき慌ててはいけません。慌てると空気の消費量が増えます。それは分かっているのですが――、
ドクンッ、ドクンッ!
スーッ、ゴボゴボ、スーッ!
肺と心臓は脳の命令を無視して、焦りまくります。ああ、やはり墓荒らしなどするものではありません。あと十分以内に脱出しなければ、わたしも豪族の副葬品です。
ここはひとつ、謝罪と後悔の意思を伝えるべきでしょう。わたしは持ち帰る予定の盃を元の位置に戻しました。そんなことして今さら何になるのかと思いましたが、なんとかなるものです。少し冷たい水の流れを感じたのです。
これはもしかしたらとその冷たさを辿って調べたところ、副葬品を祀る台の下に隠し通路のようなものが開いていました。あのズウンという音は路面電車が落ちた音ではなく、この通路を隠す石板が外れた音だったのです。
わたしはその狭い通路に体を突っ込みました。タンクを背負ったまま進むのは難しいですが、残り七分の空気を捨てるのは悪手です。ずりずりと這いつくばって、手で石をつかんで体を前に進めます。
「無事に脱出できたら、あなたのために蝋燭を灯します。墓泥棒もしません」
そんなことをつぶやきながら、這って進みますが、光は見えません。懐中電灯も電池が切れました。息を吸おうと思っても、マスクのなかの空気が薄く、頭がくらくらし始めます。
ああ、これは死ぬな、と思い、すると、小さな光が見えました。たぶん天国の入り口だろうと思い、わたしは手を伸ばします。
そこで意識を失い、天国では鼻をつままれて、口に空気を吹き込まれるという珍妙な形でセカンドライフが始まりました。
ゲホッ、ゲホッ!と咳き込むと、無理やり顔を横にされ、飲み込んだ水を吐き出させられました。
「ふぅ。よかった」
と、呆れるような声がしました。
蘇った視界には我が宿敵のちょっと微笑んでいる顔。
いったい何が起きたのか分からないのですが、彼は「じゃあ、ボクは狩りに戻る。今後は気をつけたまえ」と言って、水に戻ってしまいました。
そこは新市街のアルテミス貿易会社の廃墟につけられた桟橋だと気づきました。この無人ビルの曲がった杭にわたしのボートがもやっています。だんだん頭がはっきりしてきました。そして、とんでもないことに気がついたのです。
わたしの命の恩人!?