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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと闖入ペンギン
3/111

 旧市街の我が家はロンバルド通りの大きなアパートのなかにあります。

 ボートをもやって、ブリキ板の庇がある桟橋で降りて、水がくるぶしくらいまでたまった中庭をザブザブと進み、階段を登ります。

 べったりとした黄色い蝋が窓のそばで冷えて固まり、子どもがきゃあきゃあ騒ぐ声、大人しくしてないと脚の骨を折ってやると叫ぶ母親の声が薄いベニヤ板のドアの向こうからきこえ、踊り場では洗濯物をぶら下げたロープがわたしの視界へ遠慮なく割り込んできます。一年じゅう、雨の降るボトル・シティでは服を乾かすにはなかに干すしかないのです。

 なぜ、みなわたしのように同じ服を七着買わないのだろうと不思議に思います。洗濯紐からぶら下がっているのはワイシャツだったりプルオーバー・シャツだったり、あるいは少し縮んだウールのセーターだったり、使用用途は何でも大丈夫のコットンだったりです。

 こうした乾かした服やタオルはにおいがひどく、ずぶ濡れの犬みたいなにおいが絶えません。こういうにおいが原因で撃ち合いをした話をどこかできいたことがあります。

 わたしの五〇八号室はシャワー室とキッチンを別にして部屋が五つもあり、平凡で見どころのない家具が程よく空間を占拠しています。

 潜水日誌が置いてある蓋つきの書き物机、元は大きなオルゴールだった食器棚を占拠する広口瓶たち、ボードがついていない簡単なつくりのスプリング・ベッド。

 赤と白のチェックのクロスを敷いたテーブルには細いガラスの花瓶があって、蝋でつくったカーネーションが一輪差してあります。

 キッチンの鋳鉄製のガスレンジは石炭レンジに改造されていて、しょっちゅう黒鉛で磨かないといけないのが面倒臭いのですが、ガス料金のことを考えると、ここは我慢です。

 裂き木と湿った新聞紙を辛抱強く組み合わせて火をつけ、いよいよ石炭が燃え出すと、手袋を外して焼き台に手をかざして、どのくらい熱いかを調べます。

 そのうち、サーモンを焼けるくらいに熱くなったら、油をしいたフライパンを載せ、それから切り身のサーモンを置きました。サヤインゲンの缶詰も開けて、フライパンの隅に落とし、塩と胡椒で味を調えます。

 わたしはそこまで食事にこだわりはありませんが、毎日の栄養をビスケットとコンデンスミルクに依存するつもりもありません。潜水士が用意できるくらいのものを素早く用意して、食べるのです。

 潰して揚げたポテトと、ちゃんとしたビスケットを添えて、完成です。

 マスクを引き降ろして顎のあたりまで開放して、小さく切ったサーモンを口にしました。実においしい、よくできた料理だと思います。料理をするほどの体力もないときは外食で済ませますが、基本的には自炊します。行きつけの料理屋だって明日も水没しないという確証はありません。

 わたしに限ったことではないのですが、食事で摂取するタンパク源は基本的に魚です。

 ポークチョップは最高の贅沢のひとつで一皿三十ドルは割りません。

 タラとスズキとサーモンとタラ。だいたいがこのローテーションです。ときどきオイル・サーディンやクジラ、アザラシのハンバーガーが割り込みますが、Tボーン・ステーキが迷い込むことはありません。

 ステーキはわたしたちが浅瀬でモゾモゾバチャバチャしているあいだに頭上を通り過ぎて、お金持ちのお皿に着陸する、これが資本主義の仕組みです。

 生鮮野菜も同じく絶望的です。光合成をする細胞にとって、ボトル・シティはハードな街なのです。庶民に手が届く野菜はせいぜい蕪と痩せた芋です。

 食事を終えて、食器を洗い、専用塩クリームで念入りに歯磨きをし(水没する街で虫歯になるのは考えうる限り、最大の悲劇です)、マスクをつけて、手袋をはめなおし、蓄音機にジャズのレコードをかけます。ボビー・ハケットの『ビッグ・バター・アンド・エッグ・マン』です。

 わたしの好みはふんわり光るような音のコルネットです。ボビー・ハケットは本当に素晴らしい。わたしにはトランペットで不快なほど高い音を目指す現在の風潮がさっぱり分かりません。あれは音楽ではなく、ただの警報です。

 さて、音楽と食事で魂がほぐれたところで、一日の最後の楽しみ――執筆が始まります。

 どんなものを書いているのかは言いません。ただ、そのなかでは石油まみれのペリカンはいませんし、空は晴れていて、土地は程よく乾いていて、水は己が立ち位置をよく理解して控えめに砂浜を洗っている、とだけ言っておきましょう。

 つまり、ユートピア小説です。それを現在千三百五十万字ほど書いています。書いた小説はある程度かさばってきたら燃やしてしまいます。人に見せるために書いているものではないのです。

 ただ、全部きちんと覚えているわけではないので、昔書いたものと矛盾した部分が出てくるのは間違いありませんが、その矛盾に困るのはわたしだけで、誰にも迷惑はかかりません。そもそもわたし自身もその矛盾には気づかないでしょう。わたしの執筆スタイルは暴走機関車のそれです。そうです、ヘンリー、その意気です。矛盾や批評など気にせず、どんどん書けばいいのです。

 すずらんの形の青いガラス笠がかかっている電灯をつけて(自慢をさせてください。我が家は電気が通っています)、その下でせっせと万年筆を滑らせ、十時か十一時には眠りにつきます。

 寝巻に着替えますが、マスクはつけたままです。

 というのも、世のなかには信じられないほど無礼な人がいて、そいつは『よう、よう! 愛について話そうぜ!』とわめきながら深夜の一時にドアを乱打するのです。

 もちろん、わたしが会ったことのある人間ではありません。わたしの無口を知らないのですから。

 何の恨みがあって、こんなことをされなければいけないのか、全く嘆かわしい限りですが、こうなると、ドアを開けるまで相手は粘ることは経験で分かります。

 世界がめちゃくちゃになり、自分もめちゃくちゃになったからといって、他人をめちゃくちゃにしようとする人は最低です。

 こういうときはまずフェンシングのユニフォームに着替え、銃士マスケティアの使う細い剣を手にして、ドアを開けます。

 そして、相手が逃げるまで光のない灰色の目でじっと睨むのです。十分も睨めば、相手は帰ります。

 今日もどこかの無礼者がペタン、ペタンと奇怪な足音で階段を上ってきました。

 もう、その足音で目が覚めて、そして、控えめなノックで確信しました。相手は愛と会話に飢えています。

 わたしは無視して眠ることにします。ひょっとしたら、下の階に住んでいるハディスバーグ氏が階段を余分に上って、こうしてノックをしているのかもしれません。ハディスバーグ氏はわたしのことを放っておいてくれるのですが、お酒が過ぎるのが欠点で、安物のパンチ酒などでめろめろに酔っぱらうと、こうやってノックする階を間違えるわけです。

 ドン、ドン。ノックの音が大きくなりました。

 これでハディスバーグ氏の可能性は消えます。氏はお酒以外では何においても控えめな人物で、酔っぱらったときのノックですら、控えめなのです。

 わたしは解決しないと分かっていますが、枕の下に頭を突っ込んで、わたしの意識を世界から隔離することを図ります。

 ドンドンドン!

 来ました。もはやこの段階まで来ると、覚悟を決めなければいけません。

 わたしは火薬銃が好きではありません。いつ暴発するか考えるだけでも嫌な気持ちになるのですが、このときはショットガンを買う必要性を感じました。

 緑の藻のカーテンに隠れて、ボートを撃つ人びとの偏屈さに対して、寛容になれる気がします。もちろん実際に発砲は無理です。このあたりは旧市街でもずいぶん治安がよく、警察権力が殺しても文句を言われない悪党はいないかと目を光らせています。

 ノックに対して、銃を撃ったという主張は認められないですし、主張とは供述であり、供述とは話すことです。絶対に無理です。

 わたしは服を着替え、細い剣を鞘から抜き取って、ブーツをはき、ドアへ突進しました。

 勢いよく開けたドアの向こうにいたのは、黒いゴムの潜水服に身を包み、足ヒレを履いた少年でした。黒い髪の先からポタポタと水を滴らせています。

 これにはわたしが逆に驚かせられました。これまで夜中のドア乱打は顎ヒゲをたくわえた痩せた男か趣味の悪い柄のネクタイを締めた丸顔の太った男でした。必ずこのどちらかなのです。

 それが年端もゆかぬ少年がわたしのドアを乱打? どうやら犯罪の低年齢化が進み、世界はより深い暗黒にはまり込んだようです。いくら年端のゆかぬ少年と言えど、善良な潜水士の心の平安をこんな形で乱すことが許されるのでしょうか?

 わたしが重度のパニックに陥っていると、少年は追撃騎士の模様が打ち出された金属製の円筒を取り出し、なかの手紙をわたしに読ませました。

 その手紙はパニックをさらにひどくするもので、三年前ショットガンの銃身をくわえて死んだ伯父のアンドレアスがこの手紙を所有する潜水士が伯父の家、つまり今のわたしの家に住むことを許可する手紙でした。どうして、アンドレアス伯父はこんな書類を作ったのか、理由が分かりません。書類の形式はかなりしっかりしたもので、口約束の延長とかお酒に酔った勢いでといった破棄可能な隙がないものでした。この書類の作成日は1921年9月2日。つまり、わたしが引き取られた後に作成されたということです。

 そういえば、アンドレアス伯父が大聖堂などに行くときに着る一番いい背広を着て、「ピクルスを買ってくる」と言って、二日間帰ってこなかったことがありましたが、なるほど、この書類はあのときにつくられたようです。

 ペタペタの足音で我に返ると、悪質な闖入ペンギンは部屋のひとつに入っていきます。

 わたしは話すことは苦手です。いえ、苦手の域を越えます。しかし、わたしは義務から逃げる男ではありません。いま、わたしは生きるか死ぬかの瀬戸際にいるのです。この幸福な王国を侵略せんとする悪魔のペンギン蛮族に毅然とした態度で立ち向かい、平和を勝ち取らなければいけません。わたしは少年に対し、厳かにここから立ち去るように口頭で述べました。

「あ、う、ぅ」

「?」

 彼は首を傾げ、わたしの主張を勝手に肯定的に取り、空いている部屋のひとつへ入ると、軍隊用の折りたたみベッドを広げ、足ヒレをつけたまま眠ってしまいました。

 ――わかっています。わたしは惨めな敗北者です。しかし、決定的な敗北をしたとは思っていません。出ていかせるのは簡単です。もっといい場所に住んでもらえばいいだけです。そのためにはよくラム酒が沈んでいる穴場をふたつ教えてもいいと思っています。

 公共墓地のそばの難破船と旧港湾地区にある秘密の酒場。

 ここに頭に赤いスカーフを巻いた黒人の女性のラベルが貼られた、質の高いラム酒が箱単位で沈んでいます。いざというときにサルベージしようととっておいたものですが、今この瞬間がまさにいざというときです。歓楽街のラム酒に対する需要はとても高いので、そのラムを売れば、新市街のもっといい家に住めることでしょう。

 ふたたび寝巻に着替え、ベッドに潜り込みます。たぶん、今日は眠れないでしょうが、しかし、一日くらいの不眠は誰にでもあることです。わたしには確実な作戦があるのです。勝利の栄光は最終的に善良な潜水士のものとなることは確定なのです。

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