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ヘンリー・ギフトレスと沈みゆく市街  作者: 実茂 譲
ヘンリー・ギフトレスと闖入ペンギン
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 わたしに潜水士としての技能を教えてくれたのはアンドレアス伯父です。

 伯父は腕のいい潜水士でしたが、飲酒と喫煙が過ぎたせいで肺がダメになり、ちょうど両親に死なれたわたしを引き取り、自分の後継潜水士として育てようとしました。水没があって、腕のよい潜水士が怪物に食われるか引退するかして、このままではボトル・シティの潜水士文化が滅んでしまうという危惧もあったようです。それ以上に自分の代わりに海に潜って、金を稼いでくれる人間が欲しかったようですが。

 アンドレアス伯父は一九二四年にショットガンで頭を吹き飛ばして自殺しますが、銃の手入れ中のただの事故ではないかとも思われました。遺書はなく、特に塞ぎ込んだ様子もなく、しんみりと形見分けみたいなこともせず、一週間先まで酒盛りの予定を入れてました。たまたまドアが開けっぱなしで通りがかった、ウィピーという七階に住む老人が伯父の最期の言葉をきいたのですが、それは「なんだ、これ?」でした。世界に救いがないことをあらためて発見した絶望のようにもきこえますが、それ以上に整備中にショットガンの銃身を覗き込んで、何か異常を見つけたようにも思えます。

 このように勘違い、思い違いは往々にしてあるものです。しかし、わたしの身に降りかかった勘違い、思い違いは想像を絶するものでした。

 わたしが、パワー・オブ・ストッピング教会から購入したあのリヴォルヴァーは水中銃だったのです。それもかなり熟達した潜水士がもちいるものであり、つまり、あのリヴォルヴァーを購入したものは賞金稼ぎの潜水士と見られるわけです。そのため、闖入ペンギンはわたしが賞金稼ぎに興味があると思い始めます。

「きみがバディなら、ボクとしても心強い。きみはここで潜って長いわけだからね」

 冗談ではありません。ひとり言と引き換えにそんなことをするつもりはありません。わたしと闖入ペンギンのあいだでは命の貸し借りはゼロです。お互い、それぞれ別の人生を歩むべきなのです。

 返す返すもアンドレアス伯父が交わした奇妙な約束が恨まれます。

 翌朝、わたしは彼が起きる前に道具の確認と準備を整えると、そのまま出かけました。

 午後三時の暗い雨雲の下、道路は潮に浸って、水たまりを跳ねているニシンダマシを若い女性がフックで引っかけてはリュックサックに入れていきます。安くて、そこそこおいしくて、ニシンよりもよく食いでのある、このニシンダマシという魚はボトル・シティの貴重なタンパク源で、これを捕まえる方法は星の数ほどあります。釣り、刺し網、ダイナマイト漁。それにいまのように潮の満ち引きで市街地の水たまりに逃げ遅れたうっかりものを拾い集めるなどもよく使われる手です。頭と尾ヒレを落として、開いて焼くのが一番おいしいのですが、三日食べると飽きてきます。

 わたしは漁師ではなくて潜水士ですが、ときどきスピアー・フィッシングもします。旧港湾地区には中くらいのマグロがいて、これを三匹獲れば、十ドルくらいになります。それに赤カサゴも人気の魚です。これは岩のあいだや建物の陰といった狭いところに籠るので、そこに水中銃を突っ込んで、引きずり出すわけです。網で獲れない魚は釣るか潜るかしかないので、こういう魚もなかなかいい値段で売れます。

 スピアー・フィッシングはサルベージのような念入りの探索が必要ないので時間がかからず、午後をたっぷり余暇に使えるのでいいのですが、魚の値段の乱高下が激しいのが難点です。朝にオオサマサワラがキロ当たり二ドル五十セントで売れるというので、十キロ獲れたから二十五ドルだと思って上機嫌で魚市場に行ったら、オオサマサワラの値段が一キロ三十セントに大暴落していて、朝、キロ当たり四十セントに過ぎなかったオオクチバスがキロ当たり二ドルになっていたなんてことはざらにあります。

 それもこれも食べるためではなく、ただ所有するために買い取りを行う相場師たちのせいです。時おり、彼らも相場を見誤って、銃身をくわえて引き金を引く始末に追いつめられるので、全く安泰な職業というわけではないのですが。

 魚市場は新港湾地区にあり、煉瓦の壁と青銅の柱の上に鋳鉄の梁と曇りガラスの屋根を置いた前世紀の建物です。数十年間飛び散り続けた魚の鱗のせいでいつも魚くさく、そこに一日いるだけで魚のにおいが一週間は取れません。魚屋たちはそれについては深刻に考えず、「だから? なんだってんだ?」とシニカルな態度を取ります。ボトル・シティにとって魚市場はファースト・ナショナル銀行よりも重要な建物であり、魚のにおいは紙幣のにおいよりも権力が香るというのが魚屋たちの主張です。

 市場の中央に緑に塗った木造の事務所があり、そこに買取価格を殴り書きした黒板が漁師や釣り人向けに掲げられています。ゴム張りの黄色いレインコートを着た漁師たちの壁をかき分けて、黒板をざっと見る限り、イソマグロにキロ三ドルの値がついています。これは間違いなく下がるのでやめておきましょう。黒メバルが一匹六十セント。悪くない値段です。おそらくどこかのお金持ちがパーティでもするのでしょう。黒メバルのアラでつくったスープは上品な味わいです。

 今夜じゅうに必要というのもいいです。メバルは海底の岩のそばに棲む魚ですから、引き網では獲れません。延縄を仕掛けているヒマもありません。まさに善良な潜水士向きのターゲットです。

 釣り人たちも動きます。陸からでも黒メバルを狙える場所を知っているのでしょう。彼らが釣り竿を垂らすところに潜れば、それなりの戦果は望めますが、紳士協定でそれはなしになっています。どのみち、怒り心頭の釣り人に詰め寄られたら、わたしは何も言い返せないまま、全ての魚を手放すハメになるのです。やはり、人間、真っ当な道を歩んでこそですよ。

 旧港湾地区へボートを進めて潜ると、真下に倉庫に挟まれた細い道が見えました。放棄された大きな網が倉庫の屋根からぶら下がっていて、ドロッとした藻が網の目を塞いでいます。網の反対側には大きな穴があり、倉庫のなかへと続いています。黒メバルの大きなものはハゼを好んで食べるので、こうした暗くて隠れる場所が多いハゼの繁殖地では、子持ちのハゼを狙った黒メバルが隠れることもせず、悠々と泳ぎまわることでしょう。銛にワイヤーをつけた水中銃で四十センチ近い黒メバルを刺すと、黒メバルは発狂したようにぐるぐるまわり、それを手繰り寄せて、魚の目と目のあいだに錐のようなナイフを差し込み、トドメを刺します。

 そんなふうにして十匹ほど捕まえて、口から鰓ぶたへ細めのロープを通して、黒メバルを鈴なりにしてボートへ。黒メバル十匹付きのロープをボートに放り出して、新しいロープで今度は七匹を刺し通します。

 次のポイントは起重機が並んだ大きな波止場で蒸気エンジンが並ぶあたりで十一匹も獲れました。あまり獲りすぎると資源が枯渇するので、このへんにして上がります。

 合計二十八匹。一匹六十セントの相場が維持されていれば、十六ドル八十セント。

 まだ午前六時です。大急ぎで魚市場に戻り、潜水スーツのまま、黒メバルでいっぱいの箱を持っていくと、一匹当たり七十五セントに値上がりしていました。二十一ドルです。あまり新しくない、少し狭い部屋の家賃とほぼ同額です。

 スピアー・フィッシングのいいところはそこに魚がいることがはっきり見てわかるところです。網や釣りではこれが分かりません。そのおかげで短期間勝負を仕掛けられます。

 このくらいの時間になると、魚市場は水産物で満ち溢れてきます。釣り竿とリールを憎悪する昔気質の手釣り漁師が二メートル以上あるイソマグロを鉤にぶら下げて、籠にはまだ透き通っている新鮮なアオリイカがあふれています。決算は現金のみ。箱詰めされたサバが買い取られて空いた場所にすかさず新市街の引き網で獲れた銀色のマスが置かれて、またすかさず買い取られ、今度は重ねたヒラメが持ち込まれる。この忙しさ。魚市場の雰囲気はわたしには激しすぎて見ているだけで頭がくらくらしています。

 さっさと帰って、終わることのない気晴らし執筆でもしましょう。潜水服のままロンバルド通りへ戻ると、シャワーを浴びました。しめた。ガスはたっぷり入っています。思う存分シャワーを浴びて、午前八時にシリアルとジュースの朝食を取ります。

 闖入ペンギンはいません。たぶん、どこかで怪物を探して潜っているのでしょう。闖入ペンギンを立ち退かせる手段を考えようかと思ったのですが、気分がいいので(スピアー・フィッシングがうまく行ったときはいつもです)、執筆することにしました。

 空が晴れてて、手を伸ばすだけで甘い果実が手のひらに落ちてくる夢のような国の物語を書いていくと、原稿が溜まり過ぎて、かさばってきました。そろそろ燃やすべきでしょう。魚市場で買った脂の乗った鮭のハラスを焼くためにぐしゃぐしゃにした物語に火のついたマッチを放り、お昼の食事を終えてみると、午後一時でした。何か読もうと思って、海賊とお姫さまが出てくる本を手に取り、悪い公爵から逃れたお姫さまが海賊に捕らえられ、なぜかお姫さまが海賊たちに指図し始めたところでわたしは意識がぶっつり切れました。

 起きたら、もうすっかり暗く、寝ぼけ眼をこすりながら電気をつけると、午後七時でした。わたしは非常に燃費のよい体をしていて、お昼に食べた鮭のハラス二枚がまだお腹に溜まっています。窓の外を見ると、すっかり闇に包まれていて、街灯の光が水面で揺らめくのは見えましたが人通りはありません。

 立ち上がって伸びをするのですが、何か違和感を覚えます。闖入ペンギンがいないのです。そこでなぜそれを違和感ととるのか、自分で自分に腹を立てます。これが正常なのです。あるべき姿に戻ったのですから、もっと喜ぶべきですが、なぜか不安を覚えます。それは彼が潜水士だからでしょう。どこかの事務所の事務員とかであれば、心配はしませんが、潜水士、しかも賞金稼ぎとなると、何かあったのではと思います。

 ボトル・シティはあまり他の人のことを構わない街です。自分が生きていくのに必死なので、他人に対して冷淡な態度を取ることがあまり悪いことだとは思われません。もし、彼が帰ってこないなら、わたしは望むべき平穏を手に入れたことになります。

 わたしは夕食の準備をしようと思い、缶詰のチャウダーを温めようとしましたが、こんな簡単な料理ですら、ハマグリを焦がしてしまいました。心外ですが、わたしは闖入ペンギンを心配しているようです。確かに出て行ってほしい相手ですが、なにも怪物のディナーになってほしいと思っているわけではないのです。ただ、よそに引っ越してもらえればよく、命まで取ろうとは思っていません。わたしはボトル・シティで暮らすには少々繊細過ぎるようです。しかし、彼のためにわたしができることはありません。怪物がいる水域を夜に潜るなんて、ただの自殺です。

 そのうち、わたしは彼が帰ってこないかと思い始めました。もちろん、ここに住むことは許可しませんが、「ボクは引っ越す。お互い元気でやっていこう」と言ってくれれば、それ以上は望みません。

 だから、ドアがノックされると、わたしはある種の義務から解放されるみたいに爽快になり、半ば小走りしてドアを開けました。

 そこにいたのはジギーでした。機械店で見るよりもひと回り小さく見える気がしますが、どうやら彼は機械店を離れて誰かを訪問することが得意ではないようです。もちろん、ジギーに訪問されるわたしのほうがずっと困惑しているのですが。

「今日、観光地区でガラクタを見ていたんだが、そのとき、これを見つけた。水辺で」

 と、言って、手に持っていた足ヒレを持ち上げました。わたしは黙っていましたが、どうもこれを受け取らないといけないようなので、仕方なく手袋を外して、その海水でベタベタした平べったいゴム製品を受け取りました。左足用の足ヒレです。

「気を落とすなよ。きっと戻ってくるさ。じゃあな」

 ジギーは足ヒレを渡すためだけにここまで来たのでしょうか? その足ヒレは、確かに闖入ペンギンのものでした。闖入ペンギンはかなり小柄なので、足ヒレも少しだけ小さいのです。足を入れる部分も小さめで、ひょっとするとこれは特注品なのかもしれません。

 いつも帰ってくるはずの時刻に帰ってこない。陸を歩くときも脱がない足ヒレが片方だけ岸辺に打ち寄せられた。そして、闖入ペンギンは賞金稼ぎの潜水士である。

 これらを総合して推論を立てれば、闖入ペンギンはもう生きていないか、あるいは生きていても、かなり厄介なトラブルに巻き込まれていることになります。怪物の上顎を両手で押し上げ、下顎を両足で踏ん張って、何とか顎が閉じられないようにしているクラスのトラブルです。

 そこまで行くと、やはり、わたしにできることはありません。わたしではなくともできることはないでしょう。

 せめて大聖堂で一本五セントの蝋燭を捧げよう。見たところ、この街には親類縁者もいないようなので。

 差しあたって、彼の左足用の足ヒレを、彼が不法占拠した部屋へと持っていき、そっと床に置きました。現時点でゴミ箱に放り込むと何か悪霊的な現象が我が身に降りかかりそうなので、捨てるのは蝋燭を捧げてからにします。

 そのとき、居間から差し込む電灯の光が、闖入ペンギンの使っていた折り畳み式のベッドに差し込み、そこに置かれたメモが目に入りました。

『もし、ボクが今日、日が暮れるまでに戻らなかったら、ここを訪れてほしい』

 と、書いてあり、保険証券がクリップで止められていました。

『フランコ準生命保険会社 セジウィック通り四十七番地 電話番号3-447』

 冗談もほどほどにしてもらいたいものです。どこかを訪問するとは、すなわち訪問先でコミュニケーションを取れということです。そんなことするくらいなら、生きたまま蟹に食べられたほうがマシです。それに準生命保険会社というものが何なのか、わたしはよく知りませんが、こうして証券が発行され、何かの契約が発生しているのなら、交わす言葉はひとつふたつで済まないのは明らかです。

 ――これは見なかったことにします。もう、闖入ペンギンはいません。亡くなったのです。天に召されたのです。故人を偲びましょう。彼のために蝋燭を灯しましょう。パワー・オブ・ストッピング教会でコルダイト火薬を燃やしましょう。生きている人間が死んだ人間にできるのはそのくらいです。フランコ準生命保険会社を訪問することは意味がないのです。もっと前を向いて生きなければなりません。

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