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スーッ、ゴボゴボ。
わたしは水のなかが好きです。
ホースから流れてマスクを満たすエアの音と吐いたエアが安全弁から泡になって出ていく音。このふたつしかきこえない、静かな世界はとても居心地がよいです。
こうして潜っていれば、やけっぱちのクラクションや過ぎ去った日々を悲観する老婆たちの繰り言をきかなくていいのです。三年前に沈んだ灯台が何色だったかで言い合う声をきかなくていいのです。密造酒を売るギャングたちの舌打ちやアサガオ型のラッパ管から流れるざらざらした低質なジャズをきかなくていいのです。
スーッ、ゴボゴボ。
この音だけなのです。
「今日はいい調子ですよ、ヘンリー。実にいい。それに銀の皿にコインが三枚。どちらも海賊時代の掘り出し物です。実際、わたしが泥のなかから掘り出したわけですから、掘り出し物なのは間違いないのですけどね」
水のなかのわたしはとてもおしゃべりです。わたしのマスクは口と鼻を覆っていて、水のなかでも口がきけるので、機嫌がよければダジャレだって言います。静かなことも好きですが、誰にもきかれる心配をせず、自分に向かって話し続けるのはもっと好きです。
なぜ、それができるか。それは水のなかで人と出会うことは絶対にないからです。ボトル・シティで潜水士はわたししかいません。街の半分以上が水没したこの街でわたししか潜水士を職として選ばなかったのは、街の空がいつも暗い雨雲なので水のなかは暗闇に閉ざされていること、危険な怪物が棲んでいること、何より潜水器具に自分の命を預ける気分になれないことが原因です。
しかし、わたしに言わせれば、これらの危険要素はきちんとした管理と手順で回避することができるのです。
まず、水のなかが暗闇であることは電池式のライトがあれば、ある程度クリアできます。確かにこの暗さでは五メートル先は暗闇でそこにライトを当てても、光は飲まれてしまいます。しかし、注意して潜っていれば、五メートルでも大丈夫です。要は潜水士としての心掛けが大事なわけです。
ふたつ目。怪物については確かに危ないし、わたしも銛を差し込んだ水中銃を護身のために持っています。ただ怪物たちの行動にはパターンがあります。それさえ知っておけば、遭遇は避けられるものです。
そして、潜水器具への信頼ですが、これこそわたしに言わせれば、お笑い種です。潜水器具はどんどん進化しているのです。というのも、わたしはときどき良さそうな部品を集めて、ポートレイト・ロードのジギーの機械店に持ち込んで、潜水器具を改造してもらっているからです。その結果、潜水時間が伸びたり、体温が下がりにくくなったりといろいろな恩恵を受けます。
むしろ、天候と水没のせいで何もかもが後ろ向きのボトル・シティにおいて、唯一前を向いているのは潜水器具なのです。
ですが、このことを吹聴するつもりはありません。商売敵を増やしたくないのもありますが、何より、このことを吹聴するにはまず誰かと口をきかなければいけません。水深五十メートルの地下水路を攻略するよりも困難です。そんなことをするなら蟹に食べられてしまったほうがマシというものです。
「それに潜水士が増えたら、今みたいに潜りながら、ひとりごとができなくなります。誰かにきかれるかもしれませんからね。そうしたら、わたしはどこでしゃべったらいいんです? 冗談じゃないですよ」
わたしは大学地区のランカスター百貨店をひとりで潜っていました。通常、潜水士は何かあったときのためにふたり一組で潜るのですが、知っての通り、わたしは誰かと一緒に潜るくらいなら蟹に食べられたほうがマシなコミュニケーション苦手人間です。実際、誰かと一緒に潜るほうが危ないとすら思っています。未知のパートナーを気にするあまり、注意がおろそかになって、ウツボに食べられたり、地下で迷ったり、謎の呼吸困難に陥ったりするに決まっています。
だから、今日もわたしはひとりで潜ります。それが最適解というものです。
ランカスター百貨店はいまから十五年前に沈んでいて、地盤沈下で五階建てが完璧に水没していました。もうあらかたお金になりそうなものは取りつくしていたつもりでしたが、ときどき何のいたずらか、今日のように収穫が得られることがあります(もちろん、ハンチング帽をかぶった頭蓋骨が見つかることもありますが)。
百貨店の入り口は三階まで吹き抜けになっていて、〈大量消費〉の寓意像が泥みたいな藻にくるまれて立ったまま眠っています。ライトを像に向けると、シルクハットをかぶった女性の青銅の顔があらわれます。
これはつまり、男性だけでなく女性もシルクハットを買ってくれれば大量消費の倍化は間違いなしだと言いたいのでしょう。
もちろん婦人用の下着を男性がはけば、それも大量消費につながりますが、その像を入口ホールに飾るのは百貨店に無用のリスクを背負わせることになります。ボトル・シティはこんなことになる前は古い城壁が残る、お堅い街でした。
「さて。残りの空気も少なくなってきたし、頃合いですね。ランカスター百貨店に感謝。あなたの本願である大量消費はわたしが叶えさせていただきます。では、またお会いしましょう」
無口な人に多い話ですが、わたしはよく無生物が生物であるかのように話しました。
空は分厚い雨雲に年じゅう閉ざされていますが、それでも水のなかから見上げれば明るく見えます。光が大人しく差し込む窓から窓枠にひっかからないよう注意して建物の外に出て、浮いているボートの底を目指して、吐き出される泡よりも遅く、焦らずにゆっくり浮上ます。泡より速く浮上すると水圧が減って肺のなかの空気が脹らんで、最悪、風船ガムみたいに肺に破裂してしまうからです。
おや? ちょっと変なことが起きています。
わたしの吐いた泡が上に浮かぶ代わりに、下に沈んでいくのです。
この奇怪な現象に心当たりがありました。
わたしは水中銃を手に取り、水面に浮かんでいるボートのようなモノを狙って、引き金を引きました。ピンと張ったゴムが留め金を外れて、銛はシュッとボートの底に突き刺さります。
すると、何か温かい水から引き抜かれたような感覚を覚え、気づけば、わたしは大きな口を開けた怪物アンコウに頭を突っ込みそうになっているところでした。
本当に危ないところでした。銛はアンコウの口のなかに飛び込み、その平べったい心臓を貫いています。
もし、あのまま、あのボートの底のようなモノへ進んでいれば、わたしの首はぱっくり怪物の胃のなかに転がり落ちていたことでしょう。
怪物は普通のアンコウの倍以上の大きさで、その触手には疑似餌のかわりにサーカスの幻術師のランタンみたいな光を放つ緑の三角形が揺れていました。
「ああっ、ヘンリー! 危うく首を食いちぎられるところでした!」
もう無害な、幻を見せることのない、ただの光は徐々にしおれていき、最後は暗闇に四方から包まれて消えてしまっいました。
しかし、本当に危ないところでした。繰り返し言いますが、本当に本当に危なかったのです。この時期、ランカスター百貨店で怪物アンコウを見たことはありません。いるとしても新市街のもっと北のほうです。それにこんなふうに表通りの砂泥に伏せることはないのです。たいていはもっと暗い建物の底を好みます。
結局のところ、水のなかには絶対大丈夫という保証はないのだ。と、思いつつ、アンコウのランプを切り取りました。これも買う人がいるのです。
今度こそ泡が上に流れていく、本物のボートへと浮上していきます。顔を出すと、雷を二、三発撃ち損ねて、青く陰る不機嫌そうな雲が市街を覆っています。
いつも通り、天気は悪いです。真鍮の梯子を上って、ボートに乗って、重いエア・タンクを下ろし、マスクを取ると、船外機の近くに置いた小さな箱を開けて、そこにしまってあるマスクをつけました。医者がつけるようなマスクです。わたしはゴム製の潜水スーツを着たまま、船外機の点火スイッチを押して、マグネトーをまわします。すると、軽快な音とともにスクリューが闇色の水をかき回して、船は南へと進み始めました。
空からは重い雨粒がゴムの服に当たって、パチッと音を立ててから滑り落ちます。雨のなか、潜水用スーツを着ることは滑り落ちることの連続です。ボトル・シティの住人には気の落ち込むことでしょう。滑るとか落ちるとか単体でも気分が塞ぐのに、ふたつあわせた滑り落ちるでは相乗効果が認められることでしょう。
とにかく気の塞ぐ人たち、気の塞ぐ街なのです。大っぴらに人と話せるのに何が気を滅入らせるのかはわたしには永久に分からないですが。
さて、水の上を出ると、わたしは話すのをやめます。このあたりは水に潜らずとも、魚を釣りに来る人がいるのです。青く冷たい脂をためたタラは釣れなかったけど、わたしが漏らしたひとりごとをきければ、釣り人にとってはそれなりの収穫になります。つまり、自慢話のタネになるわけです(『さっきランカスターのそばでタラ釣りをしてたんだが、何を見たと思う? ぺちゃくちゃしゃべりまくるヘンリーさ!』『嘘こくな、ルイス』『嘘じゃねえって!』)。
嗚呼、恐ろしい。ボトル・シティの縮小されたコミュニティはいつだって気晴らしを求めています。わたしを相手にしつこく話しかけることはさぞ楽しい気晴らしになることでしょう。
もちろん、わたしはちっとも面白くないですし、それどころか考えるだけで気持ち悪くなる地獄の責め苦です。人はもっと、放っておかれることで救われる命があることを知るべきです。
ボートはかつてスキッドモア・ストリートがあった水上を滑り、筏の上に立つカフェのそばを控えめな速度で通り過ぎました。スピードを上げて、カフェが揺れれば、罵声が飛んできます。それは好ましくありません。だから、そっと、静かに通り過ぎるのが一番です。
カフェのスツールでは仕掛け網漁師や眼鏡のセールスマン、一匹狼の運び屋がいて、海藻でつくった代用コーヒーをすすっています。本物のコーヒーを最後に飲んだのがいつのことでしょうか、わたしには――、
「思い出せないくらい昔のことです」
――、と思わず口にしてしまい、心臓が船外機並みのトルクで暴れまわりました。顔が――マスクに隠れたところも、隠れていないところも赤くなりました。
慌ててカフェのほうを見ましたが、客は三人とも薄いカレイのフライにビネガーをかけるのに忙しいようです。ほとんどささやくような声でしたし、船外機の駆動音がかき消してくれる。そうさ、大丈夫に決まっています。でも、ヘンリー・ギフトレス、大きな減点。実に大きな減点です。
新港湾地区に近づくにつれて、人が多くなってきました。スチーム・ランチや手漕ぎボートが人と人、暮らしと暮らしを結びつけ、最終的に全ては悲観と結びつけられています。
ハイペースで沈み続ける街に住んでいるのだから、仕方がありません。今度はどこが沈むのか。自分たちの家のあるブロックが沈めば、それはすなわち難民暮らしを意味します。どこかの濡れた倉庫で寒さに震えながら、目が覚めたらオオクチバスになっていませんように!と天使に祈るしかない暮らしです。オオクチバスになったら大変です。難民となった家族はもう一週間以上かびたビスケットしか食べていないから、オオクチバスに姿を変えたお父さんを食べてしまうかもしれないわけです。
ボトル・シティはお堅い街といいましたが、水没がもたらす抑圧効果と暗い反発は住人の倫理観を侵さずにはいられません。
正気の失い方はいろいろあって、いきなり狂う人もいれば、悲劇のヒロインみたいに徐々に狂いながら水のなかに沈んでいく人もいます。自分が狂っているわけではなく、自分以外の人間全てが狂っていると言い張る人もいます。一日一食に減らしたら狂った、二食に戻したらなおった、三食にしたら、もっと狂って取り返しがつかなくなった。そういう話もききます。倫理的退廃が水みたいに染み出すこの街では発狂がジョークのネタになります。しかし、そうでもしないとやっていけないのが事実なのです。
発狂の一番怖いのは怪物になってしまうことです。これは市当局が必死になって否定していますが、化け物になって水のなかに先祖返りした住人が少なからずいます。
もしかすると、あのわたしが死なせた怪物アンコウだって、元は立派な一家の主でカチカチに堅い性格をしていて、ちょっとセレナーデを弾くのが一日で最大の逸脱、なんて方だったのかもしれません。もちろん、生まれながらのアンコウだった可能性のほうが高いのですが。
これについては統計が取れないのでどうしようもありません。身内から怪物が出ることを認めたくなくて、初めからいないことにしてしまうケースがよくあるのです。どの家庭にも怪物か魚になってしまった親戚、あるいは家族がいるので、このことはあまり深く突っ込まれません。
――が、人間がそれほど忍耐強ければ、チョウザメを取り尽くしてしまう愚を犯したりしなかったでしょう。結局はこっそり噂し、あることないこと言いふらして、そのうち我慢の限界がきて、お宅のお子さん、どこに行ったのですか?と話しかけてくるのです。
もちろん、わたしは別です。怪物になった家族親戚はいません。両親は物心つく前に亡くしていて、育ての伯父のアンドレアスは三年前ショットガンで自殺しました。
天涯孤独もこういう世界ではそれなりのアドヴァンテージがあるものです。