第肆話
「これはひどかね」
「めんぼくねえ。ばってん良くできたお孫さんでうらやましかね」
先ほどの怪我をしたおじいさんは松村さんといって祖父の顔見知りだったらしい。
そもそも小さな村なのでほとんど全員を知っているという事なのだろうけど。
松村さんの腕に巻かれた真っ赤な包帯を目にした祖父は僕が何かしたのかと血相を変えていたけど、事情を話すと久しぶりの挨拶もそっちのけで松村さんの手当てをしだした。
「そぎゃんこつなかよ……ばってんひで坊よおやったの、えらかえらか。さ、次はおまんの番じゃ」
祖父は松村さんの怪我の手当てを手早く終えると平時でもしわくちゃの顔を更にしかめて僕の傷口を冷水で洗ってくれた。
「破傷風ばなるで傷口ば綺麗にせんとね」
「いつつ……! もういい、もう大丈夫だよ!」
瘤木村では水道に井戸水を使っているらしく、蛇口から出る水は夏なのにすごく冷たくて感覚が鈍くなっていたが、それでも傷口を触られると痛んだ。
「ばい菌ばきっちり落とさんとあとからもっと痛いこつなるけん今は我慢じゃ。男の子じゃろ」
男でも痛い物は痛い。目じりに涙をためながらなんとか祖父の豪快な手当てを乗り切った。
「そげん馬鹿モンまでこん村に集まりようとはね」
先ほどの駅前での話になると祖父は松村さんになさけなか、と言っていた。相変わらず方言の意味がつかめない部分もあるけどあの四人組の文句を言っているのは解る。
「あの阿呆どもはよりによってあの木の枝ば切る言いよったばい」
「……あの木って、駅ば前にある木か?」
祖父は顔をしかめて聞き返す。
「そうじゃ、あの木じゃ。だけん止めよう思ったばってん、このざまじゃ。もうなにがおこってもわしゃしらんで」
「知らんいうんは怖かね。なんもねえといいけんどなぁ」
祖父もあの木について何か知っているらしい。おじさんたちが切ろうとしていた木はやはりこの村では特別なものだったのだろうか。
「ねえ、あの木って何かあるの? 大きかったけど、特に神木みたいなのじゃないんでしょ?」
僕が問いかけると松村さんと祖父は言葉を止めて一瞬視線を泳がせた。
「……ははは、子供ばしらんでよか」
「おっとろしい話じゃ、ねしょうべんこきよるど」
先ほど見せた真剣な表情とは裏腹に松村さんと祖父は笑いながら話をそらそうとしている。
「教えて、僕だって気になるよ。それに中学生だしもうさすがに寝小便はしないって」
笑ってごまかそうとはしているけどおじさんたちを止めようとした松村さんの必死な形相から何か深い事情があるのだろうなとは思っていたのだ。
道路にはみ出す様に生えているにもかかわらず、囲いに覆われている不思議な木。
あのおじさんたちではないけど、確かに邪魔な木であることには間違いなかったので必要なら移動させたり切ってしまう方が合理的なはずだ。
「そこまで言うならええげっじょ、本当に夜寝られんなってもしらんど」
「松村さん、そりゃ……」
「よかよか、別にただの言い伝えじゃっどん。ほんまかどうかなんぞわしらにゃあわかりゃせんど。それにわしらもおっ父に同じような事言って教えて貰っだもんじゃ」
祖父は止めようとしたけど、松村さんは楽しげに言うと背筋をぴんと伸ばし、やや畏まった喋り方に変えて例の木に伝えられた話を滔々と語ってくれた。
昔、それもおじいさんたちが生まれるよりももっと昔の話だそうだ。
大きな水害と地震が重なり、その上で異常気象による凶作で大きな飢饉となったことがあるのだと言う。
野山の生き物もあらかた食べつくし、ついには木の根を掘ってしゃぶり、虫を捕まえては食べてなんとか飢えをしのいでいた。
それでも冬になると村では食べる物が何も無くなってしまった。
ついには限界が訪れて徐々に死人が出始める中、村の若い猟師が山でアオジシ(今でいうカモシカの事らしい)を捕ってきた。
アオジシの肉は大変美味しい事で有名な貴重品だったという。
猟師は自分も飢えているにも関わらずアオジシの肉を独占することなく村の人々に均等に配った。
村の住人は皆が猟師に感謝した。
中には涙を流す人も居て、皆でアオジシの肉を食べた。
……この村では捕れないはずのアオジシの肉を。
「猟師は田平いうてな、そりゃあ優秀な猟師じゃったそうじゃ。
そんでな、その娘が病に伏せっとった事は皆が知っとった。
当然もう長くない事もの。
当たり前じゃ、自然いうのは弱いもんから死んでいくもんじゃからな。
まともな喰いもんも無いのに病ばかかっちまったらいの一番に死んじまうのは自明の理じゃ。
……もうわかったじゃろ、じゃからアオシシが何かなんて、皆知っとったんじゃ。
そもそもアオジシなんてこの付近におりゃせん事くらい皆知っとる。
それでも、皆生きる為に黙ってアオジシば喰った」
大昔の話とはいえ流石に絶句した。
つまり田平は自分の娘を解体して村の人々に振る舞ったと言う事だ。
田平の持って来た肉はあくまでアオジシのものである、という事が暗黙の了解でもあった為、娘が自然死だったのかそれとも田平が殺したのかは今になっても解らないという。
「ばってん、アオジシの肉も皆で分ければ一食か二食分にしかならん。一時の飢えを満たせても、それで冬をまるまる過ごせる訳じゃなか」
後で調べてみたのだが、人一体分の総カロリーは約8万キロカロリー程度だという。
一方、成人男性の一日に必要な摂取カロリーは約2000キロカロリー。
村人全員で分けるのだと考えればとても冬を越せるような量ではない事は良く解る。
田平はその後もアオジシの肉を村に持ち帰った。
そしてそのたびに村からは老人や子供が消えていった。
「田平は、猟師じゃったからな。いきもんば苦しめず〆るんは一番上手かったんじゃろう。じゃから、皆生き延びるために田平に家族ば差し出した」
人肉食はカニバリズムとも呼ばれる文明社会における禁忌だけど、極限状態で生き残るためにはやむを得ない手段でもあった。
戦争や飛行機事故で似たような状況になり、仲間の死肉を喰らう事で生き延びた人たちの話は実際にいくつもあるのだ。
それに、本来は隠したい事であるはずだという事を鑑みれば、人肉食は思った以上に色々な場所で行われていた可能性は高い。
「そうして、何体もの、本当にたくさんのアオジシの犠牲があって、なんとか村は飢饉の冬ばこした。
でもな、何体……いや何人ものアオジシば捌き続けた田平の心は壊れてしもうたんじゃろう。
そりゃそうじゃ、こげん小さな村じゃ、どのアオジシも見知った者じゃったろうからな。
一体のアオジシじゃあどれだけ節約しても持って一週間程度じゃ。
冬を超えるために田平がアオジシばどれだけ捌いたのかを考えれば当然のことじゃ。
それでも村の者はみんな田平に感謝しておったし、皆の暗黙の了解じゃったから田平に文句を言う奴なんぞどこにもおりゃせんかった。
そうして……次の冬が来る前、田平は飢饉に備える言うて干し肉を作り始めたんじゃ。
隠し蔵いうてな、皆で生き延びるための村の食物保存庫じゃな」
「当然皆は知っとったんじゃ、田平が何を言っとるか、その言葉が何を意味するかな。
当然普通の獲物も獲る。じゃがそれだけじゃあ足りんのも自明じゃ。
足りんなら……わかるじゃろ?
村のもんをアオジシにするわけにはいかねえちゅうんで、他の村の人間ば襲ったんじゃ。
村ぐるみでな」
村が飢饉になり、村人の娘の犠牲を発端として、人肉食によりなんとか冬を越した村人たち。
田平の先導でついには人を狩り、保存食として備えるようになったと言う事だった。
「野山で遊ぶ子供や身重のおなご、旅人なんかは良いカモじゃったちゅうことじゃ。
捕まえては田平に引き渡し、そうしてアオジシの保存食ば作った。
ハラワタは足が早いけぇすぐに喰ろうた。
田平が気に入っとったんはのうみそじゃあいう話じゃ」
「田平は村を救った英雄じゃった。ばってん、平時になればそれが異常じゃちゅうことは皆解ってもおるんじゃ。
わしらで言うところの戦争と同じじゃろうな。
人ば殺めて褒められるなんておかしいことくらい皆解るじゃろ。
それにな、実際隠し蔵の傍にあるアオジシの加工場で田平がアオジシの頭蓋に穴ばあけて美味そうに中身をちゅるりちゅるりとすすっとるのを見た奴が発端となってな、徐々に田平を恐れるもんも出てきた。当たり前じゃ、そげんもんワシがみても驚くで」
「田平に異変が訪れたのは何年か経ってからじゃ。
急に震えがとまらんようになっての、まともにしゃべれんようになった。
田平は寝こみがちになった。
顔にもできものがたくさんできての、背中やうで、体中にぼこぼこと瘤が出来ちょった。掻き毟ってつぶれて、またいぼや瘤が出来て、田平はだんだん化物みたいな見た目になっていった。
ついには頭もぼけてしもうたらしく、脳みそばすすりたいゆうてずーっとけらけら笑うまでに狂ってしもうた」
僕は身震いしながらも、似たような話を何かで目にしたことがあるような気がしていた。
「アオジシに頼っておった食料の問題も、新しい芋や穀物のおかげでなんとか乗り越えられるようになった。
田平という存在も村の英雄から、徐々に村の汚点へと変化していったんじゃ。それでも村の長は田平を必死に庇っとった。
田平がおらねば村は全滅しとったと言ってもおかしくなかったからな。
じゃがある日、寝たきりだったはずの田平が忽然とおらんようなった。
皆で探すと、隠し蔵の傍で幼い子供の脳をちゅうちゅう吸うておった。
長の孫娘じゃった」
「長は嘆き悲しみ、狂ってしもうた田平を悪鬼と呼んで葬る事にした。
村の若いもん総出で田平はたたっ殺されて、死体はばらばらにされた。
首、右腕、左腕、胸、腰、右脚、左脚。
田平の身体が悪鬼となって復活する事を恐れた長はその身体を七つに分けて、村の敷地内にばらばらに埋葬したんじゃ」
僕はあまりにグロテスクな話についていくのに必死だったが、よくよく考えるとこの話はあの木を切ってはいけないという話へと繋がっていたのだ。
つまり、あの木にまつわる逸話とは……。
「そうじゃ、あの木の根元にあったのが田平の首塚じゃ言われとる。もうずいぶん昔の話じゃけん、皆こんな話は忘れちょった。
当たり前じゃ、自分の先祖がアオジシを喰らっておったなんて誰も知りたくは無かったろう。
田平の首塚も同じ、ついには存在を忘れられてただの石ころになっておった。
じゃが、運の悪い事にあの木がその首塚を飲み込んで大きな大木になっておった。
切り倒そうとしたこともあるらしいが、必ず切ろうとした者が怪我や病気になってついには切る事は断念した。
手を出せば呪われる、じゃけどそんな村の恥になるような逸話を看板にして説明するわけにもいかんじゃろう。
じゃから囲いをつけるだけにして、村で見守る事になったちゅうわけじゃ」
「じゃ、じゃああのおじさんたちが枝を切ってしまったら、もしかして田平に呪われて……」
僕が真剣に答えると祖父と松村さんは噴き出して笑った。僕は意味が解らなかった。
「……あっはははは! そぎゃん震えんでよかよ! こげん話は作り話にきまっちょる!」
「松村さんも人が悪い、ワシが聞いても震えがとまらんごつなりおったばい!」
僕はきょとんとして笑い転げる祖父と松村さんを見ていた。
「え、作り話なの?」
「まぁ全部が嘘とは言わんけど、あくまでもこん村に伝わる昔話じゃ。
桃太郎だってそうじゃ、鬼や喋る犬やら雉に猿がほんまにおったとは思わんじゃろ?
こげん怖か話いうんは子供ば驚かせて、言う事聞かせるためのもんじゃ。
危ない場所にいったり、夜になって出歩かないようにの。
大方そういったのんが膨らんでつたわっとるだけじゃ」
「勿論、アオジシの肉みたいな話は全国各地にあるけん全部が嘘とは言わんけどね。
飢饉があって口減らしを行ったいう伝承はどこにでもある。
それは勿論この村にだってあったんかもしれん。
ばってんそういうもんは当時としては仕方ない話でもあったんじゃ」
「せっかく良ぅしてもらったけん、ついついさーびす精神ちゅうもんを発揮してしもうたわ。
怖か話ばして驚いてもらえん事程悲しい事はなかけんね。わしの語り口もまだまだちゅうことばい」
松村さんは笑いながら言い終わるとよいしょと言って立ち上がる。
痛めていた腕もずいぶんマシになったという。
「ほならわしはもうそろそろ家ば帰るけん。ひでくんも電車ば楽しみにしとるいう話やし邪魔せんごつするばい」
「おお、ほんなら松村さんも気を付けて」
松村さんはちゃぶ台に残っていた麦茶を一気に飲み干してから元気に帰って行った。
「あんまりに真剣に話すから完全に本当の話かと思って聞いてたよ」
「まぁわしらもそう聞かされて育ってきたから、ほんまもんの話じゃないともいえんけんね。
田平がやったことみたいなんはあったとしても驚かんよ。
ばってん、そん話の真偽はともかくとして村の木ば切ろうとするんは気持ちのええ話じゃなかね。
あんまりにも酷かったら警察ばよばんといけん。ゆーてもそげんばかもんは放っておいてもばちがあたるもんたい。
それはそれとしてひで坊もよう松村さんば助けてくれたもんじゃ。わしも鼻が高いいうもんばい。そうじゃ、小遣いばやらんとね」
僕は畏まっていつもより一枚多い千円札を有難く貰った。
その後昼ご飯を食べたり、祖父と数時間をすごしてからまた駅に行く事にした。
駅の側に在った例の木の傍を通ると案の定一本の太い枝が切り落とされていた。
祖父にはもう何も言うなと言われていたのであの四人組も知らんふりをして何も見なかった事にして通り過ぎた。
時間が来てついに瘤木駅に珍しい電車が到着したけど、僕にはあまり違いが判らなかったし、何より件の一件であまり良い印象も抱けずスマホで一枚だけ写真を撮って終わった。