北のバカブ神その5(黒い少年と黒い影)
5・黒い少年と黒い影
氷の針葉樹でつくられた深い森の中、その少年は大地を被い尽くす霜柱を蹴散らしながら走っていた。
耳にかかる硬めの黒髪を汗に濡らし、黒い瞳には年不相応の狂気を宿し、浅黒い成長過程の体を薄汚れた薄布の服で包んだ少年は、ぴたりと足を止め、声変わり前の高めの声で啖呵を切った。
「今の俺様は、すこぶる機嫌が悪いんだ。
美女とかわいこちゃん以外は、痛い目にあうぜ」
その姿には似つかわしくない言葉を吐き出し、少年は背中で黒い翼を広げた。
修行の場として数日すごした場所から、食べ物を求めて移動を開始して約十分。
この森に入ってからつきまとう気配に、少年は我慢の限界だった。
「わざと気配を消さないのか、消せないのか知らねぇけどよ、どっちにしろうっとおしいんだよ」
陽炎のように、黒い影が現れた。
それは瞬く間に、黒い甲冑に黒いマント、黒い肌に長い黒髪の男になった。
「ここから先は、死人の国。
命が欲しければ、引き返すがいい」
その声はとても静かで、淡々としていた。
少年を見る黒い瞳には、殺気どころか生気もない。
「食料が底をついてね。
見たところ、ここいらじゃ、食えるものが採れなさそうだな。
悪いけど、まだまだ、この国にとどまるつもりでね」
殺気は感じないが、少年の第六感は『油断するな』と全身に指令を出していた。
「ここから先は、命ある者が入れば、即その灯を消される。
悪い事は言わない・・・」
「死者の国『フレイユ』だっけか?
領地としてはもう入ってるだろう?
何も村を荒らそうってわけじゃないんだ、雪ウサギとかの食料ぐらい、いいだろう?
もちろん、自分で獲るさ」
「今一度言う。
これは警告だ。
引き返えせ」
殺気がないまま、腰の剣が抜かれた。
思っていたより幅も長さもある刃に異様な殺気を感じた。
「ヤダ。
って言ったら?」
「ここで死ね」
瞬間、黒い稲妻が横に走った。
少年は紙一重で後ろに飛びのくと、左右数メートル先まで氷の針葉樹が次々と倒れた。
間髪いれず、横から上から下から次々と次の手が襲ってきた。
そのスピードに、少年は満足しながら背中の翼を使って木々を避け森の上にでた。
足元は氷の針葉樹が月の淡い光をキラキラと反射させていた。
いつの間にか、月が出る時間になっていた。
もうすぐ新月。
少年は姿を消そうとしている月を見つめながら、今まともにやり合い、変に興奮してジャガー病を発症させることだけは避けなければと思った。
今、ジャガー病を発症したら、自分を止める者は誰も居ない。
そう自分に言い聞かせるも、いつも以上に血の疼きを感じていた。
「こりゃ、ま、逃げるが勝ちだな」
その疼きを落ち着かせようと、大きな深呼吸を数回繰り返した。
早々に翼を仕舞おうと、着地点を見定めるため下を向いた瞬間、黒い稲妻が下から襲ってきた。
腹に剣の衝撃波、背中に男の肘を受けて、少年は地面に叩き付けられた。
「・・・って。
油断した」
受身を取りながら大地を転がり、しゃがんだ体制をとると、袖口から仕込みの細身の短刀を二本引き抜き構えた。
同時に、男が上空から急降下して来た。
長剣を短剣の柄で受け流がしながら懐に入り込み、もう一方で喉元を狙ったが、逆に男の頭が襲ってきた。
その攻撃を、腰を捻って回避しながら、足を取りに行った。
瞬間、男の影が唸った。
少年は反射的に回転しながら後方に飛んで構えた。
「おいおいおい、珍しい所に飼ってんだな」
威嚇だけかと様子を見つつ呼吸を整えるが、体があげた悲鳴に肋骨を何本か折ったなと自覚し、短刀を構え直した。
幾度なく黒い稲妻に襲われ、男と剣を交える度に少年の体を流れる血は熱を帯び、自分の流す血の臭いに酔っていった。
男は、少年より遥かに強かった。
少年の攻撃をやすやすと流し、的確に切り込んでいく。
息のひとつも乱すことなく。
少年は、最初に受けた一発だけは出血しなかった。
が、他の攻撃で出血はしたが、頭に血が昇らずに冷静になれるからいいと思えるぐらいの傷だった。
しかし、気を緩めた瞬間、ジャガー病を発症する覚悟はあった。
「そろそろ諦めたらどうだ。
今引き返すなら、命は取るまい」
言われて、少年は思い出した。
そもそもの目的を、戦いに夢中になりすぎて忘れていた。
「余裕な発言だな。
あんたさ、強いな。
一ヶ月後でいいから、また手合わせしてくんない?」
少年が闘気を消して地面に座り込むと、男も構えを解いた。
「未来はない」
「暗いなぁ~。
未来なんて、数秒後だって未来だっちゅうの」
軽口を叩いた少年の視線が何かを捕らえた。
男の遥か後ろから、豆粒のように小さく走って来るのが確認できた。
その人物は何かに追われているのか、随分後ろを気にしている様子だった。
それが自分のよく知った人物だと認識できたのはすぐだったが、男にも気づかれてしまった。
「子供」
振り返り、向かってくる人物を確認した瞬間、手にしていた剣が大鎌に変わった。
「ちょい待ち!」
少年は素早く男の前に回り込み、大鎌を構える手を押さえ込んだ。
剥き出しで湯気を放つ首周りを、周囲の氷の針葉樹より冷たい冷気が漂った。
一気に汗が引き、代わりに鳥肌が立った。
「あの子供は城下街から出てきた。
命なき者の匂いが染み付いているのが、ここからでも分かる。
何人たりとも、命ある者の出入り、ましてや命なき者との接触は、許される事ではない」
自分が行こうとしていた場所から来たということだと、少年は理解した。
「だからって、殺すのか!」
「一度あそこに入ったからには、出ることは許されない。
正き姿にて、戻すのだ」
少年は初めて男と目を合わせた。
そこには、怒りでも喜びでもない黒い哀しみがあった。
「ニコ、そのまま走れ!」
近くまで迫ったその人影に、少年は怒鳴り声を上げた。
「えっ?」
怒鳴られた人物、ニコラスからは少年が確認できないので、見知らぬ後姿の男から子供の声で怒鳴られ躊躇して足を止めてしまった。
「ニコ、走れ!」
しかし、再度怒鳴られ、尻を叩かれた馬のように走り出した。
「逃がさん」
二人の横を走り抜けたニコラスを追ったのは、男の影だった。
地獄の底から響かせているかのような低い唸り声をあげながら、その影は三つの頭を持った一頭の犬となった。
男の鎌を上から逃げた少年は、今にも噛み付かれそうになっているニコラスを抱き上げ、そのまま飛んだ。
「・・・もしかして、アレルさんですか?
その姿は?
どうしてここに?
その薄着、寒くないですか?」
自分を抱え飛ぶ、自分とたいして年端の変わらない少年の身体的特徴を見て、ニコラスは自分を助けた少年が誰だか理解した。
「んなことは後だ!
なんか召喚しろ!」
少年にも限界が来ていた。
ここで発病するわけにはいかないと自分に言い聞かせ、力を最小限にセーブしているため、あまり高くは飛べなかった。
そんな二人を、後ろからは鎌の波動が襲ってきた。
氷の森林伐採が激しく、下は影の犬が各頭を振り乱しながら走っていた。
「さっきからやっているんですが、結界が邪魔しているみたいで上手くいかないんです」
「なら走れ。
まっすぐ前だけ見て走れ!」
言うが早いか少年はニコラスを前方に放り投げ、仕込み刀で追ってきた影をその場に縛りつけ、その後ろに下り立つと、あの男が追いついた。
「無駄なことを」
「諦めが悪いのが、俺様の長所でね」
少年はニヤリと笑い両手に炎を灯し、男はゆっくりと鎌を構えなおした。