月の女神アル・メティスその5(変体)
5・変体
毛足が長い絨毯も、柔らかすぎる椅子も、レビアにとっては休まるものではなかった。
むしろ体を飲み込まれていくようで、両脇に立つタイアードやクレフの様に立ち上がりたかった。
しかし、自分の正面に座った男の前では、少しの弱みも見せたくなく、平然を崩さなかった。
「さっきも言ったけど、うちの研究所、貸すよ?」
「そのお話は、お断りしたはずですわ?」
レビアの視界に、スーラ王は人間の姿で映らなくなった。
醜い肉の塊が座り、人間の言葉を発していた。
その両脇に立つ男たちもどことなく不穏な空気を纏っていた。
レビアは気分どころか、思考もどんよりと暗くなっていくのに気がついた。
自分の中の負の感情が頭をもたげ、ゆっくりと広がっていく。
それはまるで、あの町にいるかのようだ。
「国としてではなく、個人として動いているなら、尚更立て直すのに金がかかるだろう?」
「研究は、わが国だけで行っている物ではありません。
研究城がなくても、やれることは沢山ありますし、各国の研究結果は、定期集会で研究者全てに行き渡りますわ。
それは、情報を共有することで無駄な時間と無駄な犠牲を出さないためですの。
自己の利益に走るものは、それなりの結果になりますわ。」
「その言い方じゃあ、まるでうちが研究結果を独り占めしたいみたいだな」
レビアは気持ちがざわつくのが解った。
神経が逆撫でされたかのように、落ち着かなかった。
「気分を害されたのなら、失礼しました。
けれども、わざわざ他の皆様と放れた場所でのお声かけ、しかも先程お断りしたはずのお話、勘ぐられても致し方ないと思いませんか?」
「ふん。
可愛い顔をしているくせに。
まぁ、あれだろ?
この研究はあんたが絶対権力なんだろ?
あんたの意にそぐわない者は、あんたの国が飼ってる狂犬に皆食われちまうか、人体実験されちまう訳だ」
「狂犬ですか」
フッと笑った瞬間、レビアの鼻先を森林の爽やかな香りがかすめた。
その香りを吸い込む様に深呼吸をすると、気づかないうちに乱れていた呼吸が正常に戻った。
すると、スーラ王が人間としてレビアの視界に映った。
「そのお話が耳に入っているのでしたら、お気を付けくださいな。
なにせ『狂犬』ですので、気づかぬうちに首輪を引きちぎり飛び出してしまうことも多々ありますの」
時間ですから参りましょう。
そう、いつもの調子で言うと、レビアは席を立った。
「実は、うちも飼い始めたんだ『狂犬』を」
スーラ王は座ったまま、顔を歪めて笑った。
「それも、何頭も。
まぁ、飼い始めたばかりで躾がまだまだでな。
お隣のあんたの国に迷惑をかけてしまうかもしれないなぁ・・・
だから、こうして内々に『躾』の仕方を聴きにきたんだよ」
「残念ですわ。
私、『躾』は得意ではありませんの」
ニッコリと微笑むと、レビアは足を進めた。
「お前は自分の国がどうなってもいいんだな!」
スーラ王が声を荒らげ、何かを飲み込んだ。
そして、体中の肉を揺らして立ち上がった瞬間、大地が大きく揺らぎ、爆音が鳴り響いた。
瞬間、タイアードはレビアを抱きしめ、自分のマントで包み込む。
クレフは短い詠唱のあと指で目の前を切ると、空間が裂けてニコラスが姿を現した。
「・・・やっぱり、空気が違うや」
足元が大きく揺れ爆音が鳴り響く中、ニコラスは深呼吸した。
「よく、異空間の中で耐えられましたね」
タイアードが傍まで来たのを確認して、クレフは結界を張った。
「召喚獣に案内してもらって、あとちょっとで戻れると思ったら、師匠がストップって手で合図したので・・・
ビックリしました。
皆さんの姿もお話も聞こえていたので、何とか我慢できましたけど、圧迫感と言うか、精神的にキツイですね。
異空間の一箇所に留まるのは」
クレフの結界の外で、アタフタしているスーラ王と側近の二人を見ながら、ニコラスは一応腰の剣を抜いて構えた。
「な、なんだこの揺れに爆発音は!」
「私、申しましたわ。
『躾』は得意ではありませんの、と」
慌てて体勢を整えようとするスーラ王に、レビアは極上の笑顔で答えた。
外気の温度がみるみる上がっていくのが分かった。
ニコラスは装備の下で、うっすらと汗をかき始めていた。
「お前か。
お前の仕業か!」
「狂犬ですので」
「これで終わったと思うなよ。
ジャガー病研究の全てが自分の物だと思うなよ」
スーラ王の顔が醜くゆがんだ瞬間、その体が大きく痙攣を始めた。
それを視覚で確認すると同時に、足元が爆音とともに崩れた。
ポッカリと開いた足元は、紅く熱くニコラスたちを待ち構えていた。
瞬時にクレフが指を鳴らすと、青白く輝く龍が現れ四人を包み込んだ。
「今日も派手ですね、アレルさん」
「馬鹿の一つ覚えですよ。
まぁ、それでも効果はあるようですが」
無事に着地しても、召喚獣の龍は消えることなく四人を包み込んでいた。
ニコラスはその龍の青白く透けた同体越しに、あたりを見渡した。
炎の影で黒い何かが踊っていた。
その存在を消滅するまで炎に翻弄され、断末魔さえあげることを許されない・・・
ニコラスにはそれが何であったのか、よく分かっていた。
発症したら燃やすしかない・・・
この炎が全てを浄化してくれていると、ニコラスは分かっていた。
「そんなに厳しい採点ですと、またいじけちゃいますわ、あのワンちゃん。
あら、まだやる気がおありのようですわね」
のほほんとしたレビアの声をたどって視界を動かすと、スーラ王の衣服を身に着けた異形のモノが唸り声を上げていた。
姿形の原型はなく、異様に目立つ赤黒い口からだらしなく唾液をたらし、目は何とか確認できるぐらいの小ささだった。
「ご希望は?」
クレフの問いかけに、レビアは柔らかく微笑み、春風のように答えた。
その言葉があまりにも表情や声とはかけ離れたもので、ニコラスは背筋に冷たいものを感じた。