月の女神アル・メティスその4(空間)
4・空間
ニコラスは落ち着けなかった。
自分が居る空間が、どこを見ても高そうな調度品ばかりで、触れる気も起きないが
壊してしまったらどうしよう・・・
姫様やタイアードさんや師匠は、このお城の中に居ても違和感ないけれど、僕なんて場違いもいいところだし・・・
このタイアードさんと同じ正装も、落ち着かない。
と、気が気ではなかった。
それはトイレでも変わらなかった。
むしろ、余りにも高価そうなそれに、用をたしてしまっていいものか悩み、限界がきていた。
「ボウズ、漏れちまうぞ」
そんなニコラスの背中を、大きな手が軽く叩いた。
「え、あ、はい」
「ここは用を足す場所だ。
そんな険しい顔をする場所じゃないぞ。
リラックスする場所だ。
それとも何か?
でっかい方か?
あんま力むと切れるぞ」
ニコラスの隣に立った男は、大きな声で笑いながら用を足し始めた。
「おら、スッキリするぞ」
促され、ニコラスもようやくスッキリすることができた。
「んな所、綺麗に越したことはないが、ここまで来ると無駄だな」
ニコラスより先に金の手洗い場で手を洗った男は、その濡れた浅黒い手をニコラスに向けて笑いかけた。
「悪いな、ボウズ。
拭くもん貸してくれ」
大柄とまではいかないが、黒髪短髪のがっしりとした体つきのその男は、太めの眉の下の黒い瞳を軽く垂らし、大きめな唇の下に、綺麗に刈り込んだ髭を生やしていた。
その存在に押されるまま、ニコラスはハンカチを出した。
「レビアちゃん、相当怒ってただろう?
あの子も真面目だからな。
おじさんみたいに、適当に流せば楽なのによ。
まぁ、人の上に立つってのは大変なんだ。
助けてやってな」
確かに、ニコラスが見るレビアは、いつも落ち着きニコニコしていて、ジャガー病の研究や国への気苦労は微塵も見えなかったので、驚いていた。
「それとな、普段大人しい子程、怒った時は怖いんだ。
そういう時は、あんまり逆らわず、ハイハイって話聞いとくのが利口だ。
ま、あの子怒らせて無事だった奴、俺は知らないけどな」
ありがとよ。
とハンカチを返され、ニコラスは慌てて口を開いた。
「あ、貴方は・・・」
「あ、俺とここで会ったの内緒な。
レビアちゃんに怒られちゃうから。
あと、駄犬を地下で散歩させてるみたいだが、まぁ、何かあったら招待客はおじさんが面倒見とくからって、レビアちゃんに言付け頼んだら、俺の事バレちまうか・・・
まぁ、そこいらはボウズに任せるわ」
ニカッと笑って、男はさっさと姿を消してしまった。
「誰?
でも・・・」
「アレルみたいなオッサンだな。
アレルの事も知ってるみたいだし」
男を追いかけ直ぐに廊下に出たが、行き交う数人の中にその姿は見当たらなかった。
ココットはニコラスの胸元から出ると、右肩に座った。
「身なりはしっかりしていたね」
「それじゃあ、アレルは・・・
まぁ、いつも汚いか」
部屋に戻ろうと、ニコラスは歩き始めた。
「ふふ。
アレルさん、いつもボロボロの格好で来るから、家にアレルさんの洋服一式用意したんだけど、それを師匠の部屋にしまうと怒るんだよ」
「そりゃぁ、怒るだろ」
「でもアレルさん、いつも師匠の部屋に潜り込むから。
シルキーさんも、アレルさん専用の薬は師匠の部屋においているし。
師匠だって、何だかんだ言ってても、アレルさんの手当してるし。
それにね、この前のアレルさんの怪我、結構ひどかったでしょ?
あの日も師匠がずっと一人で看病してたんだけど、明け方換えの水を持って行ったとき見ちゃったんだ。
すっごく優しい顔でアレルさんを見てたんだよ。
ちょうど、アレルさんの具合も落ち着いたから、師匠も安心したんだろうけれど・・・
あんな師匠の顔、僕は見たことがなかったな」
「起きてるアレルに対しては、いつも怒ってるけどな」
「そうだね。
でも、師匠がまっすぐ視線を向けるの、アレルさんだけなんだよね」
「そうか?
ニコの事も、ちゃんと見てるぞ。
優しそうな目だよ」
「ホント?
それが本当なら、嬉しいな。
たまに視線を感じるな~と思って振り返っても、師匠はいつも本を読んでいるから。
・・・って、ここはどこだろう?
どこで間違えちゃったのかな?」
ココットとの話に夢中になりすぎて、気がついた時には見覚えの無い場所に出ていた。
一見、中庭に見えるここは、正面に大きな噴水が勢い良く水を吹き出した形のまま凍りついていた。
足元は今までの毛足の長い赤の絨毯ではなく、白い石畳だった。
よく見ると、石畳も凍っていた。
周りを見渡しても、正面の噴水以外、白い壁しか見えなかった。
「・・・これ、結界の外かな?
中かな?
すごく寒い・・・
あれ?」
来た道を戻ろうと振り向くと、今まで通っていた廊下がグニャグニャと歪んで見えた。
それとは別に、視界の端に人影らしきものを捕らえたが、それはすぐに消えた。
「今までの所が結界内だとしたら、師匠や姫さんは気づいてたんじゃないか?
それに、結界って言うより、空間がねじられてる感じだな」
「・・・うん。
そうだね、師匠や姫様は何も言わなかったから、あっちは正常なんだろうね。
・・・空間がねじられていても、一応はつながっているのかな?」
それは瞬きのごとく瞬間だったので、ニコラスは気のせいだろうと思った。
「いまオレっち達が立っている場所が、姫さんたちと同じ空間だとは限らないなぁ」
「・・・そうか、『道』をねじってくっつけているかもしれないのか。
どこに出るか分からないか」
ココットの言うとおり、よく見ていると視界の先は不明瞭で、今まで自分が歩いてきた道かどうかも自信が無くなった。
引き返しても、元の場所に出られる保証が無い。
「さ、どうする?
時空間魔法で姫さんの城に戻るか?
上手く行けるか分からないけれどな」
「うん、それは最終手段にするよ。
とりあえず・・・」
ニコラスは慣れた手つきで小さく空を切り、呪文の詠唱に入った。
「君なら、道が分かるよね。
案内してくれるかな?」
ニコラスの召喚した白い半透明で小さい蝶は、ゆっくりとねじれた空間を進み始めた。
「あれ、なんだ?」
「時空間魔法を使っている時に見つけたんだ。
最近は負担なく移動出来るようになったじゃない?
そうしたら、ほんの瞬きぐらいの瞬間なんだけれど、あの子達がいっぱい居るのが分かったんだ。
それで師匠の書庫から数冊借りて時空間呪文を研究して、召喚契約してみたんだ。
ココット、時空間移動苦手だから、いつも胸元に隠れてるでしょ?」
「うん、苦手。
だから、戻れたら起こして」
素早く胸元に戻ったココットを服の上から撫でて、ニコラスは蝶の後を歩き始めた。