少年ニコラスその10(記憶とリンゴ)
10・記憶とリンゴ
マーク・ビンセントは、教師だった。
アルジェニアの近隣の国にある小さな村で、子ども達に勉強を教えていた。
その村では昔から、教会で子ども達が学んでいた。
教室は小さな教会の一室。
生徒は村の子供たちで十数人。
年齢もバラバラだったので、教えることも色々あった。
雨や雪の日は室内で。
森に近い教会だったので、天気が良ければ外での課外授業が常だった。
森の中や川など、私も自然の中で色んなことを学んだ。
「マーク先生、そっち行った!」
「カール、もっともっと!追い立てて!」
教会の裏に流れる小川には小さな魚やカニが沢山いて、子供たちはよく川に入って魚を採ったりしていた。
「追い立てるのはいいが、小さな子に気をつけて。
ああ、ジュディス、その花は汁を触るとカブれるから、根っこごと積んだほうがいい。
ジミー、それ以上進むと、君の身長だと流れに足を持っていかれちゃうからストップだ」
マークはズボンの裾をまくりあげ、子供たちと一緒に小川に入り、一緒に魚を採りながら子供たちの動向を見守っていた。
冬の足音が聞こえ始めている時期の水は、運動後で足だけといっても冷たかった。
それでも、弱々しい太陽の温もりを浴びながら、子供たちは夢中で魚を採ったり小川を覗いたり、周囲を観察していた。
「やっぱり!
お昼の時間になっても、誰一人帰って来ないから来てみればこれだもの。
一日半分の林檎は病気知らずって言っても、こんな時期に長時間の水遊びはやめて欲しいの。
それともマーク先生、私の仕事を増やすつもり?」
小川の縁に、癖のある赤髪を一本の三つ編みにした小柄な看護師が立って、呆れた声を出した。
村唯一の病院に勤める彼女は、マークと共に教会で勉強した幼馴染でもあった。
「やあ、キャロル。
君も一緒にどうだい?」
濃い茶色のつぶらな瞳に映るマークは悪びれる様子もなく、逆に小川の中へと誘ってきた。
「遠慮します。
・・・って言わなきゃいけないんだろうけれど」
そう行って、キャロルは薄く紅を引いた小さな唇の口角を上げ、白いスカートと白いエプロンの裾を両腕でまくり上げ、躊躇することなく小川に飛び込んだ。
「あ!
キャロル、お魚が逃げちゃう!!」
「その倍のスピードで追いかけなさいな」
子ども達の責める声も、キョロルは明るく笑い飛ばした。
「ほら!
ほら!!」
裾を持ったまま、キャロルは激しく小川の中を踊った。
その度に水しぶきが高く上がり、マークの視界に映る全てのものが輝いた。
冬の前の空気や風景、水遊びする子ども達、無邪気に踊るキャロル。
全てがキラキラと輝いていた・・・
「「・・・せい
・・・先生
・・・マーク先生」」
視界が混ざった。
映った全てのものが油絵の絵の具の様にグニャリと軟体化し、それらは渦を巻いて混ざり合った。
「・・・ああ
・・・カリフ君か」
激しく体を揺さぶられ、大きな声で名前を呼ばれ、視界が再構築されると、目の前にいる者をしっかりと認識した。
背を預けている建物の木の冷たさと、腰を落としている土の湿気が蘇ってきた。
「先生、顔色があまり良くないけれど、具合悪い?
薬、持ってこようか?」
重い頭を少し動かして辺りを見回すと、大きな樹の下で、子ども達がそれぞれにマークに出された課題をやっていた。
それを見て、ここが孤児院だと、さっきのは白昼夢だったと納得した。
「ああ、ごめんね。
大丈夫だよ、ありがとう。
さっきの問題は出来たかな?」
力なく笑うマークに、カリフは腰から下げている布の袋から、色とりどりの飴の入った瓶を取り出した。
「先生、何色が好き?」
「・・・赤かな」
「はい、あげる」
瓶の中に残っていた赤い飴は、最後の一個だった。
「ありがとう」
マークが飴を口の中に入れたのを見て、カリフは横に腰を落ち着かせた。
「・・・ここにいる皆は、一緒だよ。
皆、今でもたまに夢に見る。
今の先生みたいに、日中でも見る。
世界が変わる前の『あの頃』を。
・・・マックス達みたいに小さい子は、記憶に無いだろうけどね。
思うんだ。
オレ達は親の温もりを覚えてる。
いい思い出だけじゃないけれど、愛されていた記憶がある。
それが奪われた瞬間の記憶も・・・
小さな子たちは、愛された記憶はないけれど、奪われた瞬間の記憶もないんだ。
でも、中にはキルラみたいに愛された記憶があって、奪われた記憶はない子もいる。
・・・違うか。
眠っていたり出かけてその瞬間に立ち会っていなくても、奪われたことに変わりはないよね。
何の前触れもなくもう会えなくなるんだから・・・
ちゃんとした理由も説明も、小さければ小さな子程ごまかされる。
・・・どれが幸せかな?」
カリフは小さな黄色い飴を瓶から取り出し、口の中に入れた。
途端にレモンの酸味が鼻から抜け、甘酸っぱい味が口の中いっぱいに広がった。
「姫様が毎月くれるこの飴さ、ちゃんと一人に一瓶あるだろ?
オレ達は『あの頃』を思い出すと、必ずこれを舐めるんだ。
美味しいもの食べると、安心するからさ。
先生も、貰えばいいのに」
「僕は、大人だからね。
・・・君は、強いね」
そう言って、マークはぎゅっとカリフを抱きしめた。
「強くなんかないさ。
大人だって、飴ぐらいなめるでしょ」
家族を失ったカリフにとって、抱きしめてくれる大人の温もりは嬉しかった。
ただ、性格なのか、あまり感情を表には出さない。
「君は強いよ。
この間、キルラを助けてくれたじゃないか。
ちゃんと見つけて、連れ帰ってくれた」
「あれは・・・」
自分一人の力じゃない。
ニコラスと、あの男が居た。
カリフはその言葉を飲み込んだ。
「カリフ君は、大人になったら何になりたい?」
マークは甘酸っぱい林檎の味を堪能しながら、小さくなり始めた飴を口の中で転がした。
「・・・大人になったら?」
「そう。
僕は、教会で色々な事を学んで、年下の子たちに自分の身に付いた事を教えてあげた時、その子たちの瞳の輝きがとても美しくて、初めて得た知識の感動に頬を染めて興奮する様が眩しくて、教師を選んだんだ。
カリフ君は、そんな風に思った事は?」
「まだ、思った事は無いよ。
今までの思い出を引きずって、今を生きるのに精一杯で。
・・・でも、ここに居る皆は兄弟だから、兄弟は守りたい。
ニコラスの様に家事が得意じゃないし、薬や植物に詳しくもない。
きっとニコラスなら、先生みたいに思えるんだろうけれど・・・
オレは、これから考える」
ニコラスは、ちょっとした体調不良や怪我なら、孤児院にある常備薬や自生している薬草や料理で対応していた。
キルラが人狼に襲われていた時も、剣を構えて戦っていた。
それを見て、カリフは前を向かないと皆を守れないと思った。
「素敵なお兄ちゃんだ。
いっぱい、学びなさい」
そんなカリフの気持ちを察してか、マークは優しくカリフの頭を撫でた。
「マーク先生、カリフ君」
建物の角、二人の影になる所で出るタイミングを失っていたニコラスが、聞いてない風に勤めて呑気な声で二人の名前を呼んで姿を現した。
エプロン姿で乾いた洗濯物を抱え、ニコニコと笑っているニコラスが、キャロルと重なり、マークは大きく頭を振った。
「今日は新月で、暗くなり始めたらいつもより視界が悪いから、もう中に入りなさいってアンナさんが」
・・・新月。
そうだ、あの日も新月だった。
ニコラスの言葉に、マークの視界が歪んだ。
体中がゾワゾワと落ち着きがなくなり、呼吸が荒くなってきた。
「キャロル、今夜のスープには玉葱をたっぷり入れよう。
子ども達が採った魚は、塩漬けにしておこう。
ああ、デザートの林檎はコンポートにしようか?」
「マーク先生!」
両腕を捕まれ、恋人のように話しかけられたニコラスは、驚いて洗濯物を落としてしまった。
カリフはそんなマークの顔を思いっきり叩いた。
「・・・ああ、僕は何を・・・」
左の鼻腔から一筋の血を流し、マークは我に返った。
口の中に広がる甘みに、鉄臭さが加わった。
「先生、少し寝たほうがいい」
「ああ・・・すまない。
そうだな・・・
そうさせてもらうよ、キャロル」
カリフに促され、マークはヨロヨロと立ち上がると、建物の壁をつたいながら姿を消した。
「随分、冷静なんだね」
まだドキドキしている心臓を落ち着かせながら、ニコラスは落としてしまった洗濯物を拾いながら、カリフに言った。
それを手伝いながら、カリフは悲しそうに笑った。
「ニコラスは幸せだった頃を、家族がいた頃を思い出さない?」
思い出す。
思い出して、帰りたくなる。
「マーク先生だけが特別じゃないさ。
先生、最近具合が良くないから、昔の記憶と今が混ざっちゃうんじゃないかな?」
そう言うと、カリフは拾った洗濯物をニコラスに渡して、大きな樹の下で勉強している子ども達に、中に入るように声をかけ始めた。
「なぁ、ニコラス・・・
姫さんトコに帰ったほうがいいんじゃないか?
あの黒いのも、もうここには来るなって、言ってたじゃんか」
胸元からヒョッコリと顔を出したココットが、部屋へと帰って行く子供達を見ながら、心配そうに声を掛けた。
「うん・・・
でも、ここの皆が心配で・・・
姫様も、クレフさんも止めなかったし」
自分の気持の置き場が、イマイチ分からない。
レビア達が自分を受け入れてくれているのは分かる。
けれど、ここの子供達の輪の中に自分も入って、生活をしたらどうなるんだろう。
そんな気持ちもあった。
「とりあえず、マークさんを部屋まで連れて行ってあげなきゃ」
言うと、ニコラスは部屋に帰ろうとしている子ども達に洗濯物を頼み、体をくの字に曲げヨロヨロと建物の壁を伝うマークに駆け寄った。
力なく下げられた右腕を自分の首に回しながら声をかける。
「マークさん薬を飲んだほうがいいです。
子ども達も心配しています」
「薬・・・
ああ、ここに・・・」
ニコラスに言われ、低迷し始めた意識の中、マークは胸元から薬の入った小袋を取り出そうとしたが、手に力が入らないのか落としてしまった。
「ニコ、飲ますか?」
落ちた小袋の中から、ココットが小さな手で薬らしき錠剤を取り出した。
「・・・それ」
鈍い青緑の錠剤に、ニコラスは見覚えがあった。
教会で、患者に頻繁に与えていた薬だった。