少年ニコラスその6(女神達と悪魔とリンゴ)
6・女神たちと悪魔とリンゴ
欠けだした月明かりは抵抗なく窓ガラスに吸い込まれ、窓際に置かれているランプの明かりに溶けこむ。
それは、分厚く纏まった薄い羊皮紙の本と、それを捲る細く長い指を照らしていた。
「もう、よろしいのですか?」
真新しい木造の独特の香の中に、ほのかに甘い香りを感じ取り、クレフは本に視線を落としたまま訪ねた。
「少し、寝過ぎちゃったかもですわ。
タイアードの目の下の隈がいつもより凄くて、驚きましたわ」
クスクス笑いながら、レビアはクレフの横、窓ガラスの前に用意されていた椅子に腰を落ち着かせた。
「そのタイアードは、寝ましたか?」
「この神殿なら、この国で一番安全ですもの。
タイアードの目が覚めるまで、ここにいますと約束しましたら、ようやく寝ていただきましたわ。
いつもはサーシャ殿がいてくれますが、私のフォローで遠出していただいているので、だいぶ渋られましたわ。
今回は、クレフが居てくださいますものね。
お体、もう、よろしくて?」
ジッとクレフの反応を見るも、当のクレフは読書するペースを崩さない。
「久しぶりに、熟睡させて頂きました。
おかげで、読書の時間が削られました」
「ニコラスが覚醒直前で、ニコラスとしての『視界』がなくてよかったですわ。
さすがに、あの惨状はトラウマになってしまいますものね。
まぁ、あれは、全くの想定外とは言いませんが、あそこまでとは、思いませんでしたわ。」
目の前で何事もなく読書をする者は、ほんの数日前、死にかけていた。
喉元を食いちぎられ、薄い肉を貪られ大量の鮮血を飲まれ・・・それでも、回復呪文も復活の呪文もこの者には不必要だった。
「お陰様で、最低な挨拶をされました。
・・・あの狂犬、深夜には帰ってきているようですが、仕事はされているようですよ。
ガイからの報告によりますと、町の結界にほころびが出来ているようです。
そんなに強くはないですが、日没から早朝までに数体のモンスターの侵入が確認されています」
秘密を知られたあの時・・・クレフは瀕死の状態から目覚めた時、青年によって唇に与えられた熱を思い出した。
自分には無い熱を感じたことを思い出し、それを忘れるかのように軽く頭を振った。
「あらあら、新月が続いた影響でしょうか?
あの術も、レオンがはなったものとは思えないのですけれど・・・
私も、まだ本調子ではありませんので、結界の方は、神官たちに頼んでおきますわ。
それまで、私のワンコに頑張ってもらいましょうね。
ああ見えて、仕事熱心ですのよ」
そんなクレフを、レビアは優しい眼差しで見つめていた。
「・・・正直に言います。
先日の、ニコラスの直前、単独での仕事の件です。
温情を掛けないほうが良かったかもしれません。
いやな予感がします」
「あらあら、これから新月に向かうのに、この後があるのはちょっと困りますわ。
その予感、外れませんかしら?」
「いざとなったら、力ずくで邪魔な結界は壊しますし・・・」
番犬と狂犬も居るでしょう。
その言葉を苦々しく飲み込み、ようやく活字から視線を上げた。
「まだまだですが、小さな戦力も増えたでしょう。
噂をすれば・・・」
窓の外から、全身金色の小鳥が窓ガラスを通過してクレフの肩に止まった。
「あら、可愛い召喚獣ですわね」
それはそのままのサイズでニコラスの姿に変わり、クレフに耳打ちした。
「昨日、契約させました。
これぐらいのものでしたら、今のあの子でも負担にはならないでしょうから。
この姿になるのは、あの子が何やら手を加えたようですね。
ニコラスはきちんと姫のお使いを果たしましたよ。
成り行きで、そのままアンナの所で暫くお世話になるそうです」
ご苦労さま。と、小鳥のおでこに軽く唇を寄せると、その姿は5つの林檎になり床に落ちた。
「あら、こんなことまで出来ますの?
凄いですわね。
アンナのところに問題でもありまして?」
「ニコラスの他に、身元不明の男がいます。
その者に不信感を抱いたのはニコラスです」
「身元不明ですか・・・この国の者ではないのです?」
「本人曰く、ジャガー病を発症した恋人から夢中で逃げてこの国にたどり着いたとか。
南以外を山で囲まれたこの国ですからね。
入り口の門番が見落としたか、西か東の山を超えたか・・・何にしろ、怪しい林檎を城下町で売り歩いていたようです。
この二ヶ月程はアンナの元で、子ども達に勉強を教えているようです。
ニコラスも誘われ、断る理由もないので、勉強に通っています」
林檎を窓辺に並べると、
センスはありますね。
と、呟いた。
その声は、どこか嬉しそうにレビアの耳に届いた。
「二ヶ月前・・・アンナから、報告はありませんでしたわねぇ・・・
ニコラスでしたら、貴方が監視するより自然ですものね。
小さな戦力と言いつつも、しっかり頼りにしてますのね」
嬉しそうに微笑むレビアをチラリと横目に、
買いかぶり過ぎです。
と、呟いて立ち上がり、窓の外の月を見上げた。
「狂犬なのか鳥なのか・・・
あの大きな鳥は、ずいぶんと夜目も効くようですね」
「躾がなっていないのですわ。
だから、すぐに勝手にお散歩に行ってしまうんですの」
「確かに。
加えて、心配性でもあるようですね。
タイアードとの約束、違えないよう、お願いしますよ」
そう言うと、クレフは指を鳴らして姿を消した。
「心配性なところは、お互い様ですわね。
ここほど安全な場所はありませんわ。
あなた達が居てくれるのですもの。
大人しく、お留守番していますわ」
レビアは窓を開けると、欠け始めた月を見上げて優しく歌いだした。
月は、分厚い雲に隠されていた。
夜の闇から身を守ってくれるものはなく、影すら見えない城下町は、そのせいかいつもより静まり返っていた。
その静寂を破ったのは、小さなどこにでもある民家だった。
人間の悲鳴とは違った奇妙な声だった。
間もなくして、似たような声があちらこちらから聞こえ始め、そのうち、人間の悲鳴と日中でも耳にしない喧騒が城下町を包んだ。
獣のような咆哮、人間の悲鳴、漂い始める血と死臭・・・それは老若男女問わず加害者にも被害者にもなった。
「っち、手が足りねぇ」
闇を纏った青年は、数分前まで人間だったモノの胸を、そのたくましい腕で容赦なく貫き燃やしていった。
燃えるモノを背に、襲われそうになった者の顔に鼻を近づけた。
「お前は違うな」
そう言うと、背にある大きな翼を動かし、空へと姿を消した。
そして、次の人間だったモノの胸を貫き燃やす。
「北星の女神が導くままに」
そして、襲われそうになった者から独特の匂いを感じ取ると、その被害者の胸も容赦なく貫いた。
まだ人間の姿であっても、大切な人が人たちが目の前に居ても。
その場にいる全ての者の匂いを嗅いだ。
時として、幼い子供の前で親を、親の前で子どもを、その場に居た全員を・・・
闇を纏った青年は、そうして城下町を一掃した後、一軒の大きめな家の裏庭に入り、中央にある葉の落ちた大きな木に止まった。
その家は他の家より部屋数が多く、また窓が多かった。
「変わりはありませんよ」
高ぶった気持ちを落ち着かせながら、カーテンのかかった一つ一つの窓を見る青年の横に、黒いマントに身を包んだ細身の影が立って報告をした。
「マークという男、これと言った怪しい動きはありません。
ニコラス君はしっかりと召喚獣を使って、クレフさんに報告と相談をしているようです。
まぁ、クレフさんも心配なようで、監視用に召喚獣をつけているようですが、ニコラス君は気がついていないようですね。
あと、結界の綻びについては、クレフさんに報告済みです」
「・・・今夜だけで二十人だ。
発病が十五人。
感染が五人。
その前は、発病だけで三人。
あの男の存在が報告されてからだ。
町中に入って来たモンスターはついでで何とか出来るが、外までは手が回らねぇ」
機嫌の悪さを隠すことはなかったが、その視線は冷静だった。
一つ一つの窓を見る。
一階から三階・・・
端から端・・・
視界の隅でカーテンに映る影が少しでも揺らぐと、直ぐに視線が向いた。
「サーシャ様は、まだ戻られていません。
姫様が起きられたようですが、まだ不完全とのことですので、今度の新月もサーシャ様はそのままだと思いますよ。
報告ですと、クレフさんもマークさんを注視しているようです」
二度も同じ地獄を見せるのか・・・
闇を纏った青年はそう苦々しく呟くと、幹に体を預けて目をつぶった。
「ガイ、今夜はお前が神殿に戻れ。
で、明日の早朝にマークの言う隣村に行って来い」
「仰せのままに。
ああ、戻られたら、身を清めてくださいよ」
そう言い残し、ガイは姿を消した。
「終わったら、愛想なしの美人にでも背中を流してもらうさ」
フン、と鼻を鳴らし、大きなあくびをした。




