少年ニコラスその1(男の願い)
アルジェニアは友好的な国だった。
三方を山に囲まれた小さな国は、少しの集落や村と、少しの町しかなく、特化した国産品はない。しかし、国民が生活に困窮することもなかった。
王も王妃も戦いを好まず、対話で諸国と歩み寄り友好を築き、それは数々の信仰をも許すことに繋がり、多くの信仰が集まった。
この国の姫君もまた、戦いを好まぬ性質だった。
穏やかな顔つきの初老の男は、仕える国の使者として姫君の前に赴いたはずだった。
「満足にお使いも出来ないのですか?
好々爺を入れ物にするとは小賢しい」
伏せがちな薄紫の瞳に映るのは、目の前の初老の男ではなく、そこに覆い被さっている、半透明で、人間のものとは思えないほどに醜く歪んだ顔をした男だった。
その初老の男は、覆い被さっている半透明の男共々、豊かな月色の髪を持つ愛くるしい姫の前で、いとも簡単に魔力で四肢の自由を奪われ、弁解の余地も断末魔すら許されず、凍らされ砕かれ、長い年月を丁寧に磨き上げられた木の床に、その破片すら落ちることはなかった。
「喧嘩は、相手を見て売ることですね」
薄紫の瞳は破片すら映さず、長い銀糸の髪を揺らして闇に紛れた。
1・男の願い
日が落ちて、どれぐらいの時間が経ったのだろう。
山に入った時は、まだ夕日があった。
感覚では、山は抜けたぐらいか・・・
視界が悪いし、口の中が血なまぐさくて、呼吸が上手くできずに辛い。
足は重いが、何とか動く。
ああ、すごく寒いと思ったら、外套を羽織るのを忘れていた。
寒さで凍えるのと、出血で意識がなくなるのと、どっちが早いだろう?
「ささやかな願いだったんだ・・・
世界を救いたいとか、難病を治す薬を開発したいとか・・・
そんな大それた事は考えたこともなかった。
ただ、君とこれからも肩を並べて、暮れていく夕日を見ていたかった。
ただ、変わらない毎日を過ごしたかった・・・」
足元や指先といった端末の感覚がない。
体中を襲う痛みだけが、生きていることを実感させている。
・・・皆も、こんなに痛かったのか?
こんなにも恐ろしい思いを抱いたまま・・・
「・・・死んでいったのか・・・」
もう、足が動かない。
もう、体が動かない。
君と、幼い子ども達が僕を呼ぶ声が聞こえる。
「僕も、もうすぐ逝くから」
背中に樹の、お尻や脚のところどころに草の感触が感じられた。
「こんなことになるなら、勉強ばかりじゃなく、もう少し体を鍛えておくべきだったな。
・・・本を読むだけでなく、戦う術を学んでおくんだった
・・・もう、遅いか」
いや、闘う術を学んでいたとして、僕は戦えただろうか?
結末は、変わらないのではないだろうか?
「・・・君を失いたくない」
手の感覚が鈍く、激しく震えていた。
ようやく胸元から取り出したロケット型のペンダントを開けようとしても、ぬるぬると血で滑り力も入らず手から滑り降りてしまった。
胸元に押し付けるように、ペンダントを握りしめる。
「君と、変わらぬ日々を過ごせると思ったんだ・・・
それが・・・
当たり前にできるものだと、疑わなかったんだ。
あの瞬間までは・・・」
ぎゅっとつぶった瞼の裏に浮かび上がったのは、変わり果てた君の姿。
人間と獣の間の姿で理性を失い、獣の本能のまま襲いかかってきた君の姿。
違う。
違う、違う、違う・・・
こんな姿を思い出したいんじゃない。
「君を・・・失いたくなかったんだ・・・
子どもたちに、世界を教えたかった・・・
夢物語に思われても良い、今住んでいる小さな町が全てではないと、あの子達に教えてあげてかった・・・」
このままじゃ、本当に君を失ってしまう。
早く、早く君の姿を、僕の大好きな君の笑顔を思い出さなければ・・・。
焦っても、記憶の中の君は化け物のままで、ペンダントも開かず、視界はどんどんと焦点が合わなくなってきた。
「神様・・・なぜ僕なのでしょうか?
・・・なぜ、彼女なのでしょうか?
・・・なぜ、僕たちはささやかな夢を
・・・叶えることが出来ないのでしょうか?」
もう、祈ることしかできない。
毎日の朝晩の祈りと同じく、神の存在を信じて祈った。
「助けてください。
・・・僕は、彼女を失いたくない・・・」
荒かった呼吸が段々と落ち着き、ペンダントを握る手が力なく落ちた。
もう、僕の瞳は何も移すことはなかった。
そんな僕に、それは囁きかけた。
「私ガ助ケヨウ。
ソンナニ生キタイノカ?」
囁きの意味を理解できなかった。
ただの音にしか感じなかった。
「い・・き・・た・・・・・・・い?」
微かに、唇が動いただけだった。
それでも、僕に囁いたモノにとっては十分だったようだ。
闇が、僕を包み込んだ
「デハ、私ノ手足トナレ。
私ガオ前ノ神トナロウ」
僕はただ、君を失いたくなかっただけなんだ。
君を・・・