零その7(『お帰りなさい』)
7・『お帰りなさい』
この家の女主人はシルキーという名の妖精で、この家の管理を完璧にしていた。
それは『終末』前からであり、『終末』後も変わらなく継続されていた。
誰も帰らない永い時も、再び現れたニコラスが時折帰って来る今も、前と変わらず甲斐甲斐しく管理をしていた。
そんなシルキーは、誰とも会話を交わさない。
しかし、この家に住んでいる者たちは、彼女の微妙な表情の変化で言いたいことを汲み取っていた。
だから、いつものように肩を並べ料理をするニコラスには、シルキーが喜んでいるのが手に取るように分かっていた。
「もっと作らないと、足りないですね。
いつもは、僕とココットの分だけですけれど、今日は皆さんが集まりましたし、何よりあの人が居ますから」
ニコラスの心も弾んでいた。
言いたいことも聞きたいことも沢山あったが、どんな言葉よりも真っ先にかけたい言葉があった。
そのタイミングを待っているうちに、未だにあの少年に声を掛けられないでいた。
気持ちばかり先走りそうで、ニコラスは料理に精を出していた。
「あー・・・」
不意に、すぐ近くに置いたベビーベットから、可愛らしい声がした。
「ここに居ますよ」
慌てて手を洗い、ベビーベットを覗き込む。
生まれたばかりなのに、その黒曜石のような瞳はパッチリと開かれ、ニコラスがうつると小さな小さな両手を広げた。
「自分より先に、僕が抱っこしたって知ったら、暫く口聞いてくれないですかね?
ね、アルルさん」
両腕で優しく抱き、サラサラの黒い産毛を愛おしく撫でながら、ニコラスは赤ん坊に話しかけた。
「貴女のお兄さんは、最期まで無茶ばかりしていたんですよ。
無茶ばかりして・・・」
自分を見つめる黒曜石の瞳に、あの時の記憶が鮮明に思い出された。
『終末』、ジャガー神が復活した時、気を失い目覚めた時にはその男の左目は失われていた。後日、クレフから受け継いだ『レダの書』を見て、ニコラスは真相を知った。
モンスターにくれてやったと、その男は言っていた。
が、本当は魔力が切れ掛かっていたクレフに、まだ神の力が残っているから魔力の足しにしろと、男自ら左目をくり抜きクレフに口移しで飲み込ませていた。
「今度は、僕が守る番です」
あの人やアルルさんより先に生まれてきたのも、前世の記憶が全てあるのも、今度は守る番だから。
ずっと、色々なことを見届けて伝えて来たから、今度は大切な人たちを守りぬくんだ。
ニコラスは溢れる思いを唇に乗せて、そっと白い頬に口付けをした。
次の瞬間、キッチンのドアが悲鳴を上げて開いた。
「・・・腹へった」
キッチンのドアを乱暴に足で蹴り開けた犯人は、足の動きとは裏腹に、両腕は白い布に包まれた何かを大事そうに抱えながら、不機嫌そうに言い放った。
硬めの黒い髪に、凶悪なまでの黒い右目と燃える紅い左目。
その視線が、大事そうに抱えている腕の中に落ちた。
「なぁ・・・
オレもだけど、コイツ、なに食えっかな?」
ニコラスはアルルを抱いたまま、ゆっくりと少年に歩み寄り、その腕の中を覗いた。
白い布に包まれて抱かれていたのは、銀に輝く髪と、青紫色の瞳を持つ赤ん坊だった。
その白い頬に、暖かな水滴が落ちた。
「・・・なさい
・・・お帰りなさい、アレルさん。
・・・お帰りなさい
・・・お帰りなさい、アレルさん。
おはようございます、師匠」
腕の中のアルルを抱きしめ、真っ直ぐに少年を見つめたニコラスは、溢れ出す涙をそのままに、万遍の笑みで二人に声をかけた。
「た・・・
ただいま」
ニコラスのあまりの号泣に戸惑いながら、少年は返事をした。
そして、直ぐにキッチンの椅子に腰を掛けると、大きな声で言い放った。
「飯!」
「はい!!」
その声に弾かれるように、ニコラスは泣きながらもアルルをシルキーに預け、料理を再開した。
そんな二人の声は外まで聞こえ、ガイとレビアとココットは、顔を見合わせてほほ笑んだ。
風が吹き、テーブルの隅に置かれた古い本を開いた。
紙が茶色く変色し、インクも擦れているページが次々と捲られ、落ち着いたページは見開きで、挿絵があった。
それは、十数人の幼い子供から中年ぐらいの男女が、笑顔で食卓を囲んでいる絵で、隅にはアブビルトとサインが入っていた。
終