零その5(聖なる場所の汚れ)
5・聖なる場所の汚れ
少年は短期間で多くの町や村を訪れたが、こんなにも綺麗な空気を吸ったことはなかった。
呼吸をするたびに、体内のドス黒く染まった細胞が綺麗になっていく感じがした。
実際、ここに来るために、少年は頭の先から足の指先まで綺麗に洗われ、聖水で清められ、洋服やマントといった身につけているもの一切合切を、無理やり新調された。
青龍刀も砥がれ、聖水で清められた。
ここは、汚れを嫌う場所なんだよ。
そう、ココットは少年に言った。
特殊な結界で守られているこの場所は、『週末』に飲み込まれることなく、その空間を週末前と変わらず維持していた。
バカブ神である大木を麓に抱く、アルジェニアの最北端の山。
山に入ったつもりでも、選ばれし者以外は、いつの間にか城下町の何処かを歩いている。
一部の選ばれし者だけが、この空間にたどり着ける。
青々と生い茂る大小の木々に、色取り取りの花々や多くの薬草。
その中心にある小さな家と、隣にある泉。
ここに来るのは初めてだったが、少年は自分が探していた場所だと直ぐに分かった。
そんな少年の気持ちが分かったのか、ニコラスは優しく少年の背中を押した。
ニコラスに背中を押された少年は、それがスタートの合図のようにドアを乱暴に開けて、チリひとつ落ちていない廊下を歩いた。
気持ちは走っているのに、体はゆっくりゆっくりと噛み締めるように、この家を懐かしむようにゆっくりと動いた。
少年は、入ってすぐのキッチンで足を止めた。
後ろにいたニコラスがスルリとキッチンに立つと、椅子の背にかけていたエプロンを身に着け、何やら慣れた手つきで作り始めた。
その姿を、少年は懐かしいと感じていた。
掃除の行き届いたキッチンは、大きな出窓から入る陽の光で明るく、とても暖かかった。
不意に、鼻先を美味しそうな匂いが掠めたが、すぐに気のせいだと分かった。
「すぐに用意できるよ」
・・・すぐに作りますね・・・
ココットの言葉が、少年の中ではニコラスの言葉に変換された。
ニコラスが何時も俺に言うセリフだ。
そういえば、ニコラスの声をまだ聞いていないはずなのに、どんな声かわかるなんて、不思議だ・・・
少年はそう思いながら、次の部屋へと進んだ。
「ここはニコラスの部屋。
研究所の部屋と変わんないだろ?
研究所に置いてある文献とかのオリジナルが沢山あるから、あんま触んないほうがいいよ」
ここに来る前、着替え等で使った部屋が、確かにこんな感じだった。
窓際に置かれた質素なベッドと机。
それを囲む多くの書物。
どこか懐かしくあり、少年の口元は綻んでいた。
ただそれは、少年自身は気がついていない。
「ここは・・・
まぁ、アンタなら、いいのか」
次のドアの前で、ココットは小さくつぶやいた。
ココットは頭を無造作に掻き、少年の肩をポンポンと軽く叩いて、キッチンへと戻っていった。
一人になった少年は、目の前のドアの質感を懐かしむように数回撫でてから、静かに開けた。
少し甘い香りが風に乗って、少年を包んだ。
その一瞬の香りに一気に胸が締め付けられ、瞑った左目から涙が一筋溢れた。
「・・・あ」
そんな自分の気持や涙に戸惑いながらも、いままで探してきたものへの気持ちがどんどん大きくなっていくのが分かった。
悲しみとも怒りとも違う感情・・・
それは、『今』は抱いたことのない感情だった。
戸惑いながらも、少年は走った。
気持ちが涙となって次から次へと溢れ出し、自分ではどうすればいいのかも分からず、少年は地下室のドアを荒々しく開けた。
目の前に現れた長い階段を転がるように駆け下り、幾重にも封印呪文を施されたドアに勢い良く手をかけた。
それはなんの抵抗もなく、すんなりと開いた。
ドアの中は、書物で埋め尽くされていた。
部屋は魔力で空間が歪められ、何処に壁があるか分らないほど広い。
その空間を見渡す限り大きな棚が、等間隔で幾つも置かれ、その全部に隙間なく書物が詰まっていた。
そして、そこに入らないものは、床に積み重ねられ、幾つもの大小様々な山が作られ、魔力によって繋がれた外の太陽光がそれらを照らしていた。
足元の本はお構いなしに、少年は進んで行った。
進んでいくにつれ、所々に銀に輝く糸らしき束が蜘蛛の巣の様に張り巡らされていることに気が付いた。
触ってみると、サラサラと絹のような感触だった。
さらに糸で輝く本の森を少年が進んでいくと、部屋の真ん中に銀色に輝く大きな繭があった。
「見つけた」
少年がつぶやくのと同時に、すっと、繭の前に半透明の人物が現れた。
癖のない長い銀髪は床まで伸びて繭や糸束の一部になっていた。
ゆったりとした白の魔法衣で包んだ体はその上からでも分かるほど細く、衣から出ている肌はどこまでも白く、小さな唇は薄っすらと赤い。
「あなたのものです」
ゆっくりと開けられた紫の瞳は真っ直ぐに少年を見つめ、春風のように少年に覆い被さると、瞑った左目に優しく口付けをした。
「うああああ・・・」
実態のない甘い口付けは、少年の左目に激痛を与えた。
「さあ、私を殺しなさい」
左目は血の涙を流し、初めて開いた瞳は燃えるような紅に輝いていた。
そこに飛び込んできたものは、今にも泣きそうな瞳で微笑んでいる女神の顔だった。
実態のない細い両手で浅黒い顔を包み、お互いの唇を重ねた。
「分かってるよ」
少年が抱きしめると、女神は風のように消えた。
そして、目の前の繭が静かに解き始めた。