南のバカブ神その16(二つの鍵、二つ目)
16・二つの鍵、二つ目
空気が変わった。
足元から頭へと、風が螺旋状に吹き上げていく。
ニコラスは胸の苦しさを覚えた。
「サーシャ殿の結界が消えてしまった」
兵士はニコラスの手を握りなおし、剣を構えなおした。
黒い霧がたちこみ始め、そこら辺で倒れていた男達が姿を変え始めた。
人間ではない、異業の姿へと。
「来ちゃったね」
兵士の絶望的な呟きが、ニコラスの耳に届いた。
悪の神。
しかし、姿がなかった。
あの街では、見るものによってその姿は違えども、『姿』はあった。
気配を探る二人に、姿を変えた人達が襲い掛かった。
視界も悪い、呼吸もままならない。
ニコラスは幾度も剣を振るい、召喚獣を召喚して応戦するも、進んでいるのか分からなかった。
自分が何処にいるのか、足元すらあやふやな中で、背中を護って戦ってくれている兵士の存在は、この上なく頼もしかった。
「ちんたらやってんじゃねぇ!」
聞き慣れた恫喝と共に、熱風を帯びた大きな青龍刀がニコラスの回りを一掃した。
その熱風で、ニコラスは喉が焼けそうになった。
「ご無事で何よりです」
「アレルさん!
ガイさん!」
二人の姿を見て、ニコラスは安堵した。
「・・・いつも通り、汚れていますね」
二人とも、特にアレルはだいぶ暴れていたようで、顔は返り血で赤黒く染まっていた。
いつもと変わらない格好に、ニコラスは頬を緩めた。
いや、珍しく、二人ともずいぶんと幅広の青龍刀を手にしていた。
「神の力を使えば楽だろう」
「それが、駄目なんです。
何度がやろうとしたんですが、上手く行かなくて」
「ここでは、アレルさんの力が強いですからね。
クレフさんが居れば、力の均等が取れるんですが・・・」
ニコラスの周囲に、ガイが風の結界を張った。
呼吸が随分楽になり、ニコラスは礼を言った。
「それより、大変なんです!」
「分かってるよ」
声は落ち着いていた。
しかし、アレルの怒りは大気を振るわせた。
視線は真っ直ぐ、ただただ真っ直ぐ前を見ていた。
ニコラスには、淀んだ霧しか見えない。
「母やアルル様の事は知っています。
母の使い魔が知らせてくれました。
自分の役割は、心得ていますよ」
そう言って、ガイに一指し指を唇に当てられ、ニコラスは何も言えなくなった。
「僕達の役割は、こちらです」
ガイが風を身に纏い、アレルと同じ方向を見つめた。
「返せよ」
静かな怒り。
声を荒げることなく、一点を睨みつけるアレル。
ガイの風は淀んだ霧を拡散し始めた。
シャン・・・
シャンシャン・・・
釈杖の音と共に、一箇所の紅黒い空気が渦を巻きはじめた。
ニコラスの心がざわついた。
ニコラス達の前に、沸々と闇が生まれた。
闇はマントを翻す音とともに消え、チィムが現れた。
その腕にぐったりとしたアルルを抱いて。
「返せ」
静かな口調だが、その怒りは周りの熱を上げた。
闇に抱かれるアルルは意識が無く、荒い呼吸音が聞こえた。
まだ、生きてる。
まだ、ニコラスは諦めていなかった。
「返せよ」
アレルが一歩踏み出す。
その背中を、深紅の炎が昇る。
まるで、翼のようだと、ニコラスは思った。
チィムの隣に、シンが姿を現した。
「ジャガーの瞳は返してもらいました。
次は・・・」
シンがアルルの腕を取り、チィムの腕の中から引きずりだした。
小さな体が、片腕を吊られ宙に浮く。
「キサマっ!!」
瞬間、ニコラス達は動いた。
しかし、チィムの鋭い剣先が襲ってきた。
同時に、三つの頭を持つ犬・冥界の番犬ケルベロスが現れ、ニコラス達に向かって牙を剥いた。
「北星の女神は導きの星。
この幼き魂が、姉上のかけた封印の一つ」
「お・・・兄様・・・
ガイ・・・
助けて・・・」
アルルの意識が戻ったものの、愛らしい顔が土色に染まり、キラキラ輝いていた黒い瞳は瞼に隠れ、ほとんど見えない。
色の抜けた唇は激しく奮え、小さな体が音を立てていびつに揺れ始めた。
「月の結界も、月の女神の加護もない。
ゆったりと流れていた時は、元の速度で動き出す。
『変化』は、すぐですね」
月の女神の加護。
レビアを攫った一番の目的だった。
「うおおおー!」
アレルが切り込んだ。
その後ろから、ガイが援護のクナイを雨のように放ち、同時に動いてケルベロスの注意を引き付けた。
ケルベロスは闇の番犬。
その体の動きは自在で、長い尾がアレルを襲った。
ニコラスはその尾を切り付けるが、直ぐに何度も再生した。
手ごたえの無い体は膨張し、その個々の頭はガイ、兵士、ニコラスと牙を剥いた。
「ああああ・・・!!!!!!」
アルルの悲鳴と、ビキビキと樹が割れるような音が嫌に耳についた。
闇の牙から身を翻した瞬間、ニコラスの視界にアルルの姿が飛び込んできた。
白いドレスの裾から覗くのは、紅い鳥の足。
袖が裂け剥き出しになった細い腕は、純白の翼に変わり、黒髪から覗く首には細かな白い羽が生えはじめていた。
・・・ビースト化・・・
ニコラスの視界が揺れた。
誰かに突き飛ばされた。
慌てて体を起こすと、アレルの背中があった。
その先に、チィムの体が見えて、ニコラスは反射的に剣を投げた。
それはチィムの脇腹に刺さり、怯んだ隙にアレルがその奥へと手を伸ばした。