南のバカブ神その14(レイの戦い)
14・レイの戦い
ニコラスの頭に響いたココットの声は、だんだんと収まっていった。
気づかぬうちにかいた冷や汗をぬぐいながら、ニコラスは立ち上がった。
そして、自分の目を疑った。
目の前に広がる光景に、体が硬直した。
どうして自分がここに、アルルの部屋に居るのか、ニコラスは分からなかった。
けれど、目の前の惨状、鼻を突く生臭い臭いが夢幻ではないことを教えてくれた。
そんなニコラスの足元に、毛並みを血だらけにしたココットが転がり着き、ズボンの裾を伝ってニコラスの胸元に潜り込んだ。
床は結界に使われていた水晶や月光石の破片が散らばり、血と脂で黒く塗り潰され、そこに数人の侍女たちが沈んでいた。
部屋を占めるリング状のベッドは、幾重にも下がった薄い衣が無残に引き裂かれ、床の血を吸ったシーツの裾は鮮やかに染められていた。
その上に、必死に抵抗するアルルを肩に担いだチィムが立っていた。
悲しくも、その抵抗はチィムには蚊が止ったぐらいの感覚だろう。
頭や肩や胸を叩かれても、チィムはビクともせず、その視線の先には、侍女頭であるガイの母・レイがいた。
その姿は見るも無惨で、自分の血で染まった体を立たせているのがやっとの様子だった。
「アルル様を・・・
はなせ・・・」
「レイ・・・
ダメ、動かないで」
アルルの声は涙に濡れ、掠れていた。
弱弱しく頭を振り、肉付きの悪い腕を懸命に伸ばす。
レイは右腕を垂らしたまま、左手で短刀を構えた。
呼吸は荒く、体を揺らしていた。
その姿を見て、ニコラスはレイの体が動かないのだと分かった。
「この娘を護る結界もなくなった今、止まることは出来ない」
ベッドの周りの結界は血で消され、結界石に使われていた月光石も粉々に砕けていた。
「もう、結果は分かりきっている。
無駄に命を落とすな」
「我が命は主のもの
主のために燃え尽くすまで!」
レイの眼力は衰えていない。
ガイに良く似た糸目でチィムを見据えると、構えていた短剣を投げた。
間髪入れず、次の短剣が数本一気に投げられた。
その姿を見て、ニコラスはガイの話を思い出した。
『母は、幼い頃からレダ様の右腕だったんです。
レダ様の死を目の前で黙って見ているしかなかった母にとって、アルル様は総てなんです。
僕?淋しくはありませんでしたよ。
淋しさより、自分の無力さに腹が立ちました。
主人であるアレルさんの助けが出来ない、弱い自分に・・・』
きっと、思いは同じなんだとニコラスは思った。
どんなに傷ついても、命を捨てても、護りたい存在なんだと。
「無駄だ」
短剣の雨がチィムのマントで薙ぎ払われると、同時に今度は幾本もの矢の雨が放たれた。
レイの右腕には一回で五本の矢が発射出来る小型化されたボウガンが、いつの間にか装着されていた。
ニコラスの目にはどう見ても、その右腕は動きそうにないのに、次の矢が放たれた。
その矢がマントで弾かれた瞬間、ニコラスの体が動きチィムに切り掛かった。
ニコラスは、取り返したかった。
「加勢に入る度胸がついたのか」
全体重を乗せた一撃は軽く剣で振り払われ、ニコラスは血溜まりの中に転がされるも、直ぐに体制を整えた。
ちょうど、レイが左横に居た。
「もう・・・やめ・・・」
全身で呼吸をしながら、アルルはニコラスの方へ手を伸ばした。
その手は震え、愛らしい顔は苦しみか悲しみか、酷く歪んでいた。
「時間がないな」
そんなアルルを見て、チィムはマントを翻して姿を消した。
「・・・アルルさん」
「会場へ・・・」
呆然と立ち尽くすニコラスの肩を掴み、レイはポツリとこぼした。
そして、胸元から出した小瓶の蓋を歯で開けると、中身を辺りにぶちまけた。
「きっと、会場に現れる。
あそこに一番人が集まっているから・・・」
小さな紙で袖を擦ると、小さな火が灯った。
それを足元に落とすと、撒かれた液体に蛇の様に点火し、直ぐに周囲に広がり始めた。
「レイさん、何を・・・」
「レダ様は、私達に自分の役割を話してくれた。
自分が何の為に、何をする為に産まれてきたのかを。
けれど、それ以外は何も・・・
この世界がどうなっているのか、どうなるのか、あの方は観えたはず。
けれど、誰にも言わずに旅だってしまった。」
炎は穢れた部屋を飲み込んでいく。
「あなたは自分で自分を見つけたのでしょう?
誰に言われたわけでなく、自分で決めたのでしょう?
迷っていい、立ち止まっていい、後ろをふりかえっていい、後悔していい・・・
その後に、次の一歩を踏み出せば、それでいい」
レイは左手でニコラスの背中を押した。
瞬間、二人の間に炎の壁が出来た。
「この部屋は役目を終えた。
ジャガー病の痕跡は、焼却する決まりよ。
早く、会場へ行きなさい。
私には、まだしなければいけないことがある」
「レイさん!」
「ニコ、言うことを聞こう。
ここに居ても、オレっちにもニコにも、何もできないよ。
アレルでもタイアードでも、会場に居る誰でもいいから気配を探して。
気配を見つけたら、そこに行きたいと願うんだ」
ニコラスの胸元で薬草を食べ、回復したココットが顔を出した。
それは、クレフに教わった瞬間移動の魔術の方法だった。
ココットに促され、ニコラスは後ろ髪を引かれる思いでアレルの気配を探した。