ソフィア、結婚しよう
アルト・マルヴァレフトは若いころ、貴族のパトロンがつき、オペラ歌手俳優として成功していた。
だがいまは見る影もなく ―― 路上で酒と不摂生でしわがれた声で歌い、わずかばかりの金を恵んでもらう生活を送っている。
今日も哀れに歌い、空き缶には少しばかりの金。
夕刻を過ぎているので、そろそろ見切り品を買うために撤収しなくてはと、それを手に取ろうと腰を屈めたとき、外灯の明かりを遮り自分に影が覆い被さった。
アルトが顔を上げると、軍人が見下ろしていた。
「ひっ……」
軍人のアイスブルーの瞳は冷たく、顔の造形は若き日のアルトなど比べ物にならないほど整っている ―― その男にアルトには覚えがあった。
ロスカネフ王国ナンバーワンと名高くいまだ現役の主役男性歌手と、現役時代は妖精の歌姫と謳われた舞台女優の息子・フェルディナント・ヴェルナー。
若いころ両親に劇場につれてこられていた将来を嘱望されていた美少年が、音楽の道に進まなかったことはアルトも知っていた。
フェルディナント・ヴェルナーは無言で、コインを包んだ一万フォルトス紙幣をアルトの足下に放り投げ、
「ヴェルナー中佐。タクシー馬車を見つけました」
「そうか」
副官に呼ばれ無言で立ち去る。
ほんの一言だが、声の張りや深み、そして響きどれをとっても超一流の声で、アルトではいまどころか、むかしでも全く勝負にならない。
アルトはむかしを知っている人間の蔑みをつかむ。アルトがそれを投げるような素振りができる時期はとうに過ぎて ―― コインを包んだ一万フォルトス紙幣を握りしめ、ポケットに手を突っ込み歩き出した。
**********
伯爵家のソフィアは貴族令嬢らしく幼いころから婚約が決まっていた。
相手はテサジーク侯爵家の嫡男フランシス。
テサジーク侯爵家にはフランシス以外の男児はいないので、侯爵家を継ぐことが確実 ―― それ以外は特になにも持ち合わせていない、中肉中背で女性の目を引くような鮮やかな色味を持ち合わせておらず、顔だちも至って普通。華やかさはないが地味ですらない、特徴らしい特徴のない平凡な男だった。
対するソフィアは愛らしい顔だちの娘で、性格は奔放。お洒落と観劇を好み、貴族の女性らしく恋を楽しみ、格好良い男を好んだ。
ソフィアはオペラ歌手のアルト・マルヴァレフトを贔屓にしている。
マルヴァレフトはオペラ歌手としては一流にはなれないが、見た目はまあまあ整っており、ソフィアの好みに合致していた。
ソフィアはマルヴァレフトを呼び、ふわりとした上辺の会話を楽しみ、口づけを楽しむ。
部屋に控えているのはソフィアの乳母だけで、この乳母はソフィアの命令には絶対に従い、部屋での出来事は決して漏らさなかった。
「結婚しよう、ソフィア」
フランシスに結婚を申し入れられたのはソフィアが十八歳のとき。
「わざわざ結婚しようだなんて言わなくても結婚してあげるわよ」
もともとソフィアが十八歳になったら式を挙げることが決まっていたので、ソフィアはつまらないことを言わないでと ――
侯爵家伝来の指輪を渡された。
「わたしルビーのほうが好き」
「そうかい。でも侯爵家の花嫁に渡すのは、その指輪って決まってるから」
フランシスが困ったようにそう言った。
ソフィアの指にはめられているのはシンプルなトパーズの指輪で、彼女の趣味ではなかった。
フランシスとの結婚が近づいてもソフィアはマルヴァレフトと会うのを止めることはなく、むしろ一層火遊びが激しくなった。
「ソフィアはマルヴァレフトがお気に入りなの?」
「そうよ? なにか文句でもあるの」
「ないよ。ただ聞いただけさ」
「そう。あなたは誰が気に入っているの、フランシス」
「それはもちろんヴェルナーだよ。ロスカネフを代表する主役男性歌手だからね」
「そう。あなたらしい、面白みのない答えね」
「そうかなぁ」
二人でオペラ鑑賞をし ―― 舞台のマルヴァレフトが二人にしか分からない愛の合図をソフィアへと送る。
公演後ソフィアはフランシスと共にマルヴァレフトの控え室へと足を伸ばし、
「ちょっとヴェルナーと話をしてくるから」
マルヴァレフトのもとにソフィアを残し、フランシスは主役男性歌手のヴェルナーのもとへ。
「あれがお嬢さまの旦那か」
マルヴァレフトは完全に馬鹿にしたように言う。
「そうよ。面白みのない男なの。未来の侯爵じゃなかったら結婚なんてしないわ」
ソフィアも同じように夫となる未来の侯爵を小馬鹿にする。
「でもあんな冴えない男なら、浮気をしてもバレないんじゃないか」
「きっと気付かないわ」
二人は抱き合い口づけをかわす。
主役男性歌手のところから戻ってきたフランシスは、二人の熱い抱擁には気付かず、
「帰ろうか」
ソフィアをエスコートして会場をあとにした。
ソフィアはそんな婚約者のことを扇子で顔を隠し嘲笑った。
フランシスは大胆になる二人の逢瀬に気付かず ―― 奔放で軽率で我が儘なソフィアは結婚前に一線を越えマルヴァレフトに抱かれた。
「夫一人しか知らないなんて、つまらないわ」
ベッドの上で乳母に髪を梳かせながら、ソフィアは可愛らしい唇をとがらせ、そんなことを言う。
マルヴァレフトは侯爵夫人になる貴族令嬢の体を最初に開くことができて満足していた。
「旦那も可哀想に」
「結婚してあげるんだからいいでしょ」
「でも本当に処女じゃないってバレないのかね?」
「大丈夫よ。あの人鈍いから」
ソフィアとマルヴァレフトの大胆な逢瀬にフランシスは気付かず ―― 伯爵令嬢ソフィアと侯爵嫡男フランシスは式を挙げた。
着飾っても冴えないフランシスのことをソフィアはやや軽蔑を含んだ眼差しで眺めた。
夫となったフランシスとの初夜はとても退屈で眠気を催すもので、気付けば朝になっていた。
初夜を終えた朝、ソフィアをみつめるフランシスはとても気弱そうで、なんとも頼りない男だとソフィアは思った。
アルドバルド子爵邸の使用人は皆どこか抜けていて、ソフィアとマルヴァレフトの逢瀬を察知できそうな鋭さを持ったものは誰もいなかった。
ただ、
「お嬢さま、この邸はなにかおかしい気がいたします」
乳母は使用人を含めて、邸のどこかがおかしいとソフィアに進言した。
「主人のフランシスに似て間抜けなんでしょう」
「きっとそうだな。間男が夫人の部屋に忍び込んでいるのに気付かないやつばかりだからな」
マルヴァレフトは大胆にもソフィアの部屋に忍び込み、悪趣味にも夫婦の寝室で行為に及んだ。
そのうちソフィアは父親がどちらか分からない子を妊娠した。
「ありがとう、ソフィア」
妻の浮気を知らない夫のフランシスは、妊娠したソフィアに感謝し、体を大事にするよう労いの言葉をかける。
どこまでも愚鈍な男ねとソフィアは馬鹿にし ―― 息子を出産する。その子はイェルハルドと名付けられた。
イェルハルドは白っぽい金髪と灰色の瞳。
「わたしに似たみたいだね」
「そうね」
フランシスもマルヴァレフトも白っぽい金髪で灰色の瞳だったので、父親がどちらかは分からなかったが、ソフィアは密かにマルヴァレフトが父親だと思っていた。
ソフィアはイェルハルドを可愛がって育てたが、
「イェルハルド? イェルハルド!」
イェルハルドは五歳の秋に庭の噴水に落ちて死亡する。
冷たくなった我が子を抱きしめ、ソフィアは嘆き悲しんだ ―― その翌日のことだった。
「……誰?」
邸に一人の子供が現れた。白っぽい金髪に灰色の瞳の少年。
「イェルハルドだよ、ソフィア」
フランシスは少年の肩に手を置きにっこりと笑った。
「なにを言って……いるの? イェルハルドは昨日!」
ソフィアは遺体が安置されているはずの邸の礼拝堂へと駆け込んだ。
そこには大小二つの棺が並べられていた。
大きな棺は昨日まではなかったもので、ぴっちりと棺が閉じられており、小さい棺の蓋は開けられ、ソフィアのイェルハルドが冷たい骸をさらしている。
鷹揚な足音がソフィアを追ってきたが、
「どうしたんだい? ソフィア」
「イェルハルドはここに! その子は?!」
「イェルハルドだよ」
フランシスはソフィアの問いに答えてはくれなかった。
礼拝堂の通路に崩れ落ちたソフィアに、フランシスがいつも通り無害で面白みのない笑みを向ける。
「とりあえず朝食にしよう。ソフィアと一緒に朝食を取るのは四年ぶりになるね」
ソフィアは夫がなにを言っているのか、まったく理解できなかった。
呆けたように床に崩れおちていたソフィアに背を向けフランシスは礼拝堂を出ていった。
入れ違いに入って来た男たちがソフィアの両腕を掴み、無理矢理立たせる。
普段であれば手を放すよう命じるソフィアだが、そんな余力はなかった。
朝食の席につかされたが、目の前の料理を口に運ぶことはできず、ただ料理が下げられるのを見ているだけのソフィアに、フランシスはいつも通り面白くもない話題で話しかけてくる。
返事がなくてもフランシスは気にせず、イェルハルドも何ごともなかったかのように。
悪夢のような朝食が終わり部屋に戻ったソフィアは、
「ばあや? ばあや」
いつも部屋に控えている乳母がいないことに気付いた。
「どこなの? ばあや!」
叫びながら自らの部屋を捜し、ばあやに与えていた部屋のドアをも開ける。
「いかがなさいました? 奥さま」
部屋には若い女性の使用人。
「ねえ? ばあやは?!」
「どちらさまのことでしょうか?」
使用人は心から「知らない」と ―― そこからソフィアの生活が一変したかというと、そうではなかった。
礼拝堂の大小二つの棺はいつのまにかなくなり、ソフィアは変わらず「子爵夫人」と呼ばれて過ごす。
なにがあったのか、理解できないまま日々を過ごし、いつも通りフランシスと共にオペラを鑑賞していると、主役男性歌手にはなれない万年脇役のマルヴァレフトが、舞台からソフィアへ二人にしか分からない愛のサインを送ってくる。
「マルヴァレフトに会いに行くんでしょう」
「……え、ええ……」
フランシスはいつものようにソフィアを誘い楽屋の控え室へ。マルヴァレフトの才能は大したことはないが、ソフィアというパトロンのおかげで、才能に見合わない好待遇を受け個別の控え室まで与えられていた。
「わたしはヴェルナーのところへ行ってくるから」
いつもと変わらずフランシスは控え室を出て、ソフィアとマルヴァレフトを二人きりにする。
部屋を出て行くフランシスを見送り振り返ったソフィアの目の前に、
「…………っ!」
マルヴァレフトの舞台衣装をまとったフランシスがいた。
「どうしたの? ソフィア」
マルヴァレフトの衣装をまとったフランシスだったはずの人間が、目の前で全く知らない人になりソフィアの名を呼んだ ―― その瞬間、ソフィアの中にあった乳母とマルヴァレフトとイェルハルドが砕け散った。
「見ていたかい、イェルハルド。人間を壊すのに暴力なんて要らないんだよ。まあソフィアは脆すぎるけどね」
フランシスとおぼしき人間が話しかけた先にいたのは、家にいるはずのイェルハルド。
「あ……あ……あなた」
「なんだい? ソフィア」
「どうしてこんな……ことをするの」
「こんなことって、どういうこと?」
「あなた、わたしを幸せにするって! だから結婚しようって」
首を傾げたフランシス、イェルハルドは「それはない」と目を閉じて首を横に振る。
「なにを言っているんだい? ソフィア。わたしは結婚しようとは言ったけれど、幸せにするなんて言ってないよ。よく思い出してごらん、ソフィア」
諭すように語りかけるフランシスのようななにかは、やはり無害な笑顔で埋没してしまうかのような声で、洗練さのない仕草のままだった。
「だいたいわたし、人に向かって幸せにするなんて言ったことないし。思ったこともないよ。わたしは思わないことは、言えないタイプだからさ」
「嘘ばっかり」
「なに? イェルハルド」
「いいえ」
父子の会話を眺めながら、ソフィアは十八歳のあの日、たしかに「結婚しよう」とは言われたが「幸せにする」など一言も言われていないことを思い出す。
「ところでソフィア、君は幸せになりたかったの? なら事前に言ってくれないと。わたしと一緒にいて幸せになれるはずないじゃない」
無害で気弱そうに笑う平凡で、妻の浮気にも気付かない冴えない愚鈍な夫とは、一体誰のことだったのか ―― ソフィアにはもう分からなかった。
**********
駐在武官の任を終えて帰国したフェルディナント・ヴェルナー中佐は、王弟直属の部下となった。
「無事帰国、おめでとう。フェル」
帰国したヴェルナーは久しぶりに同期のキースと再会したのは、中央司令部の会議室の一つ。
「よお、アデル。で、俺はなんでここに呼ばれたのかな」
ソファーに腕を組んで座っているキース大佐は、
「まあ……見れば分かる」
「ああ?」
「口で説明のしようがない。いや説明はできるが、見た方が早い」
彼には珍しくもったいぶったような口調で、そう説明した。
「ん?」
少しして王弟のガイドリクスと副官の一人オースルンド曹長と、アルドバルド子爵が会議室へとやってきた。
「信頼に値し、能力に不足はないとキースから推薦を受けたので」
ガイドリクスはそう言い、アルドバルド子爵を紹介した。
「このアルドバルド子爵フランシスというのは」
「殿下、お言葉を遮って失礼ですが、これと小官はむかし、劇場で会ったことがあります。お前下手なオペラ歌手に何度か成りすました、下手くそな一般人だろう」
ヴェルナーの威嚇するような笑いに、
「うん、そうだよ。凄いなあ。君のお父さんだって気付かなかったのに。ほんと、勿体ない才能だね」
「それはどうも」
「でも、これはどうかな?」
アルドバルド子爵はヴェルナーの父親になった。
「なっ!」
顔の作りが変わったわけではない。
「久しぶりでも分かるもんなんだ」
声も別人だがヴェルナーの目の前にいるのは、ヴェルナーの父親にしか見えない ―― ヴェルナーは一通り説明を受け、キースと共に独身寮に戻った。
「目の当たりにすると、怖ろしいもんだな」
アルドバルド子爵とテサジーク侯爵家について一通りの説明を受けたヴェルナーは”やれやれ”と言った表情で、備え付けのベッドに腰を下ろし、食堂から持ってきたコーヒーを口へと運ぶ。
「俺は初めて見た時は、あまりの気色悪さに、思わず殴りかかったがな」
「気持ちは分かる」
「ところでフェル。アルト・マルヴァレフトというのは?」
「三十年以上前にデビューした、三流に近い二流どころのオペラ歌手だ。顔はまあまあ良くて、どこぞの伯爵令嬢が気に入りパトロンになったそうだ。そのおかげで役にはありつけていたらしい。俺が物心ついた頃もまだその伯爵令嬢、その頃はもう結婚していて子爵夫人だが、その女が継続してパトロンで、まあそれなりに。実力はないが、劇場にとってパトロンは大事だからな」
「なるほど。今はどうなったんだ?」
「さあなあ。俺が劇場に出入りしていたのは、十代前半までだ。新聞を賑わすような才能があったわけでもないから、いまどうしているのかは分からん。アデルが気になるのなら、調べてみるが」
「頼む」
「頼むといえば、俺もアデルに頼みたいことがある」
「なんだ?」
「来年の人事なんだが、女王の護衛にしたい女性士官がいるのだが、それが庶民で……」
後日ヴェルナーが知り合いの劇場関係者に尋ねたところ、アルト・マルヴァレフトは二十年ほど前にパトロンを失いそのまま仕事も失い、オペラ歌手を引退し ―― もともと貴族令嬢のパトロンがいるのを鼻にかけ、豪遊していたので好かれておらず、困窮してからも誰も手を差し伸べず。
「いまは物乞いみたいなことをしているそうだ。手下が裏四区のあたりで、さえずっているのを見かけるといっていた」
「そうか」
「お前がド三流歌手のことなんぞ聞いてくるとは珍しいな。どうした?」
劇場の支配人の息子はそのまま支配人になる。 ―― 親の仕事を継ぐのがとうぜんといった時代、才能があったのに親の仕事を継がなかったヴェルナーはかなりの変わり者だったが、同時に同世代からは憧れられてもいた。
代替わりしている劇場の支配人室に足を運んだヴェルナーは、顔見知りの現支配人に外国のオペラ事情を語り、入手したレコードなどを渡して話題を振った。
「ああ。王弟殿下付きになったんで、貴族将校とも頻繁に会うようになってな。その一人がアルドバルド子爵だったんで、ふと思い出した。そうじゃなけりゃあ、あんなド三流歌手のことなんか聞かねえよ」
「そういうことか。子爵夫人はド三流歌手のパトロンだったもんな。そりゃあ思い出すなあ」
「子爵夫人は元気なのか?」
「元気だぞ。元気な子を四人も産んだので、もう責務も果たしたとばかりに、昔とかわらず遊び歩いているし、うちの劇場にもよく来る。まああの旦那なら、なんでも許してくれるだろうしな」
「……そうだな。そう見えるな」
若干裏社会にも通じている劇場支配人が、そう判断してしまうくらい、アルドバルド子爵は無害な男に見える。
「ま、これからもご贔屓にお願いいたします、国軍中佐どの」
「ああ」
昔話を終えたヴェルナーは、改装された王室専用室の聞こえを確認するなどの仕事を終え、支配人に見送られ劇場をあとにした。




