p.05 ヤンデレとインクの祟り
放課後、ボクとリンゴはバス停とは逆方向の、歩いて二十分くらいで着く駅に来ていた。約束どおり、父さんの仕事場に向かうためだ。
ついさっき勢いで家に誘ってしまって、妹に変な誤解をされた回想は割愛しておく。それほど重要ではないからだ。
彼女と意外と近所であったことは驚いたけれど。
「こんなとこに駅あったっけ?」
「うん。十年前にはあったよ」
「ふーん、思ったより遠かったね」
券売機から戻って辺りを見回しながら、ボクの隣に座るリンゴ。
「何か飲む?」
「買ってきてくれんの? じゃあ、コーラでお願い」
「リンゴジュースじゃなくて?」
「私を美味しく絞るな!!」
チワワは途端にシェパードに進化した。前にも思ったけど、これが戦闘モードのいわゆる『テラ進化』ってやつだろう。普通じゃないし。
「いや、別にからかってるわけじゃなくて…お似合いかなと」
嘘だけど。
「結局は同じじゃん」
そうだけど。
「世界で一番嫌いな飲み物だよ!」
「マジか」
「名前うんぬんの前に酸味が嫌。とにかく、コーラがいいの!」
チワワに見つめられては凝視なんてできっこない。慌てて後ろを振り向いた直後、地獄へのお告げが聞こえてきた。
《まもなく、二番線ホームに『虹色エクスプレス』が到着します。お乗りのお客様は―》
駅のホームに澄んだ声のアナウンスが流れる中、ボクだけが背後に殺気を感じていたことは言うまでもない。ヤンデレなのかも。
牙を剥くシェパードとは目を合わさず、自販機まで猛ダッシュした。
中は思ったより混んではいなかった。
隣同士で座るのが嫌だったので、入って一番右端に座ることに。
すると、後出しじゃんけんみたいにボクの正面にすまし顔で腰を下ろす彼女。
まぁ、先に乗ったのはボクだからリンゴが後から座るのは自然なんだけど、たくさん席がある中でボクの目の前にいるのが不自然だ。
「どうかした?」
小声だが、明らかに誘われている。
話したければリンゴが隣に来ればいいのに(来た時点で移動するけれど)、そこいるということは彼女はボクの行動からすべてを読み取って、最悪の位置に腰を据えているに違いない。
ボクがチョロイだけかもだけど…隣同士より百倍気まずい。あと、何か知らんけど顔がもうウザイ。
負けを認めよう、毒リンゴ。
プシュ~、ガコ、ガコン。
電車に嗤われた気がした。
「うわっ!」
情けなく立ち上がった直後、動き出した弾みでバランスを崩したボクは見事な壁ドンを披露していた。観客…もとい、乗客が疎らだったことが不幸中の幸い(?)である。
彼女は目を丸くしていたが、ボクの目は血走っていたらしい。体を支えるのに必死だったからだ。
イケメンキャラじゃなくてごめんな。
鼻の先が触れる前に何とか上体を起こす。そのまま彼女の左隣に静かに座ってみせた。
グッジョブ、ジュン!
「何、今の顏www」
結果、メッチャ笑われたけど。
電車に揺られて三十分。
二駅過ぎたほぼ正面に見えるマンションビルの三階が父さんの仕事場だ。
「お邪魔します」
間取りは2LDK。
家に仕事を持ち込まない主義の父さんは、週刊連載が始まると仕事場に泊まり込みで作業していた。当時、アシさんが多い時は五人も寝泊りしていたので、家族四人で暮らすスペースは十分にある。
アシさんとは『アシスタント』の略で、大抵の連載作家には作画諸々を手伝う人たちが平均で四~五人はいると聞く。
仕事場は、担当編集さんが探してくれる。
「いいよ、そこが作業部屋」
「わぁ~~!!」
玄関正面のドアを開けたリンゴが感嘆の声を上げた。
「ねぇ、ここにある漫画って全部資料用?」
部屋に入って左側にあるのが父さんの席。
そこから正面に、左右三つずつ机が向かい合わせに並んでいる。ここがアシさんたちの作業デスク。父さんから見て全員の顔が見渡せる配置だ。
「あぁ、キャラデザを模索してた時期もあったみたいだから、資料にも使ってたとは思うけど…大方、知り合いの作家さんから貰ったのと、自分の趣味で揃えてると思う」
ドアを開けて正面、アシさんたちの席を挟んで一番奥にあるのが、壁の幅ピッタリの鉄製フレームの本棚。高さもあって五段なので、軽く千冊は超えている。
「ふ~ん、なんか漫画喫茶みたい」
確かに、そう見えなくもない。
ちなみに、入って右側にはテレビが置いてある。
「ところで、リンゴって漫画のこ…」
「純君、レアものハッケ~ン!!」
本棚を眺めていた彼女がボクの言葉には耳も貸さず、一冊を取り出して眼前に突き出す。
「これ、これだよ、純君!!」
「何が?」
コイツってホント近いよね。
「あなた、大先生の息子なのに知らないの? この『ベジタブルマン10 アニメDVD&描き下ろしデザイン〈キャベンツ〉ストラップ付き限定版』のレア度!!」
「いや、何で近所のおばちゃん口調になってんの!?」
「アニメでは、〈チキン大王〉にからくも勝利して野菜たちの未来は護られてのハッピーエンドだったけど…限定版は、もしも、その前の戦いで〈ポーク王子〉の子供〈ミンチ坊や〉に精神支配されていたら、っていうパラレルワールドが描かれててね」
「それ、あげるよ」
「え?」
「そこまで知ってんの、ボクの周りでリンゴだけだと思う」
「でも、発売即売り切れだったよね?」
「メッチャ人気あるって作品でもなかったし、そもそも数量限定だったからね。出版社側も驚いたらしい。あと何冊か見本あるから欲しいならやるよ」
「ありがとう」
「正直、父さんの作品は好きじゃなかったけど…ここまで熱弁されると嬉しいよ」
「大ファンだって言ったじゃん」
リンゴが大好きな『ベジタブルマン』については、あとでゆっくり聞くとして、そろそろ本題に入ろう。
「それでさ、リンゴって…」
「ねぇ、あそこの席座っていい?」
「いいけど」
リンゴさん、話聞く気ないよね?
「ノートに下書きしてきたから、ペン入れしたいの」
「描いたことあるんだ」
なら話早いや。
「先にネーム見せて」
Gペンに手を伸ばそうとするリンゴに促す。
「ああ、設計図ってやつなら頭ん中」
マジか。
どうやら、ボクの早とちりだったらしい。
「執筆の手順くらい知ってるよ。でも私、ネームって描く意味ないと思う。だって、頭にしっかりイメージができてれば良くない?」
「いったん落ち着こう、リンゴ。道具使ったことないよね?」
「初めて見たけど、使ってみなきゃ分んないっしょ。百聞は一見にしかずだよ」
いや、使い方違うと思う。
道具を目の前にして変なスイッチが入った様子の彼女。
もう、嫌な予感しかしない。
「なら、まずは原稿用紙に…」
「純君、もう遅いよ。インクがブラウスに付いたちゃった」
「マジ? てか、まだだって!」
ガタン!
「インクって、どうしたら落とせる?」
「勢いよく立ったらヤバいって!!」
「あっ!」
やっぱりな。
床にぶちまけた―と思った。
「『インクは死んでも零すな』って誰かが言ってた」
凄い体勢でリンゴがキャッチ。一瞬、バレリーナに見えた。
「何その迷言!?」
「純君、このあとシャワー借りるね」
「まだ、諦めるな! ボクが取りにいくまで」
原稿用紙で手が塞がってるから。
「もう無理」
バッシャ~!!!!
床には古い家に現れるという、まっくろころすけが仰向けのまま目をぱちくりさせていた。
このあとにラブコメ展開を期待しても無駄だ、ということを先に断言しておこう。