p.04 漫画家と主人公
夜十時。
バイトをこなし、ようやく帰宅。
「ただいま」
「お帰り、純兄ぃ」
ちょうど風呂から上がってきたのだろう。両手で濡れた髪を乱暴に拭きながら、Tシャツにジャージ姿の紫乃が脱衣所から出てきた。
「なんか元気ないね。初日から何かあった?」
さすがは妹。勘がいい。
だが、いろいろありすぎてほとんど忘れたし…というか忘れたいし、話すのはやめておこう。
「別に何もないよ」
「ふーん」
心配してくれているのかと思えば、意外に素っ気なかった。変に追及されるよりそっちの方が断然ありがたい。よくできた妹だ。
「ちゃんと髪乾かせよ。寝ぐせつくし、風邪ひくからな」
「分かってるよ。急に何? やっぱ何かあったんでしょ?」
目を細める紫乃。
「だから何もない。ボクは、ただ兄貴として…」
「また出た」
「お化けみたく言うな!」
妹はボクのツッコミを無視して、さらに続ける。
「急に父親ぶるのやめてよね。そういうのホント嫌い。キモイから。使命感みたいなの滲み出さなくていいから。母さんだっているし」
「別にそういうつもりじゃないよ」
不満をぶつけてくる紫乃に、力なく呟く。戦意がないことを表してみた。
「それならいいけど」
髪をクシでとかしながら台所に向かう妹の背中を無言で見送って、ようやく靴を脱ぐ。同時にため息が漏れた。
「何やってんだろ…ボク」
ボクはリンゴが羨ましかった。
だからこそ、目を逸らしてしまったんだと思う。現実を知るボクは、夢を語る彼女を直視できなかった。
父さんの死を引きずって自分とすら上手く向き合っていないボクに、リンゴの純粋な夢を否定する権利はなのだ。
父さんの現実なんて、漫画家の日常なんて経験したこともないのに、すべてを知ったふうに語って醜い自分を重ねてしまった。
「とりあえず、明日会ったら謝ろう」
ベッド上で寝ころびながら、そう決意した。
火曜。
この日発売の漫画誌は知らないので、増刊号の読切を読むことにしている。
五本目の作品を読み終えたところで学校前のバス停に着いた。増刊号を入れているだけあって鞄が普段より重い。
「おはよーっす」
明日は二誌だ。早く明日になってくれ、と天に願いながら友人たちとテキトーに挨拶を交わす。
「おぅ、純。なんか元気なくね? 昨日、何かあった?」
「何もないけど」
女の子を置いて家までダッシュした、なんて言っても変な疑いをかけられるだけなので軽くスルーして終わらすつもりだったんだが、
「純君、昨日はごめんね~!! 私、絶対ひどい事したよね? 家帰って謝らなきゃ、って思ったんだけど…メアドも番号も知らなくてさ。だから、今後のためにも連絡先教えて!!」
神様は願い事なんか一つも聞く気がないらしかった。
「ちょ…蒼井さん」
リンゴが目を腫らし、風を切る勢いでボクに詰め寄ってきた直後に教室の空気が一変したことは言うまでもない。
「『リンゴ』でいいって言ったじゃん!!」
この状況で、火に油を注ぐな! 焼きリンゴにするぞ、コラ!!
―なんてことを言う余裕はなかった。
「とりあえず落ち着いて蒼井さん!」
自分が言える立場ではなかったが、やっとの思いで一言だけ絞り出してから彼女の手を引き、廊下に出た。
人気のないトイレ前にたどり着いたところでその手を放す。
「ちょっと…いきなり何?」
「それは、こっちのセリフだよ!」
怒っているのは顔を見れば分かる。でも、今回ばかりはボクも言い返してやった。
「あんな泣きじゃくった顔で詰め寄られたらビックリするだろ。しかも、クラス中に聞こえる声で、あんなこと言うなよ!」
「ただ謝っただけで、トイレに連れて来られたほうが驚くよ! 手も痛いし!!」
彼女の目には、まだ涙が溜まっていた。
「八つ当たりしないで!」
吐き捨てるように言って、乱暴にボクの手を振り解いた彼女は教室へと歩き出す。
「あっ…」
分かってるんだ、そんなことは。
ボクがしなきゃいけないことを、何で彼女にやらせてるんだ。
リンゴは悪くないのに。彼女は素直なだけなのに。
ボクは、また繰り返すのか?
「えっ?」
違う。
ボクは、もう友達を傷つけたくない。
「昨日はごめん、リンゴ」
気づいた時には、その後を追って彼女の手を握り締めていた。
もう、あの頃には戻りたくない。
「死んだ父さんのこと思い出してさ。リンゴに見られたくなかったんだ。だって、見たくないだろ…男の情けない顏なんて」
「バカ!」
瞬間、すぐ近くで乾いた音が響いた。
驚いたボクは、それが頬の痛みであることに気づく前に彼女を振り返っていた。
「痛っ!」
「カッコつけなくていいから、ちゃんと言ってよ。じゃなきゃ、分かんない!」
リンゴは、もう泣いていなかった。その代わりに表情を引きつらせ、さっきより明らかに強く怒っているのが分かった。
「やっぱ、私が悪いじゃん!」
「そんなことないよ。ボクが自暴自棄なだけ」
こんなにも真っ直ぐな彼女を見ていると、一人で空回りしている自分が子供に思えた。ボクは本当に馬鹿だ。
深呼吸とも溜息とも言いようがない少しの間を空けた後、彼女の目を見てボクは伝えた。
「言っても分んないだろうけど、ボクの父さんは漫画家の『シロサブ』なんだ。デビュー作のギャグ漫画がヒットしただけの一発屋。でも、だからって自殺したなんて思ってない。ボクは憧れだった父さんの死をきっかけに画を描くのをやめた」
「えっ、純君のお父さんてシロサブ先生なの?」
「知ってんの? ギャグ漫画『ベジタブルマン』の作者で、本名は白木三郎」
「えぇぇぇぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!?」
「ちょっ、うるさい!!」
冗談抜きで鼓膜が破けるかと思った。
「知ってるも何も、大ファンだもん!! コミックスも全巻持ってるし、アニメも観てたよ!」
また、唾が飛んできた。
でも、父さんのことを知ってるのなら話は早い。
「今日の放課後、時間あったらボクの家に来ないか? 父さんの仕事場に連れてってやるよ」
「それって、まさか…」
リンゴの目はいつの間にかその輝きを取り戻していた。
ボクは、もう逸らさない。
「昨日のお詫びっていうか…正直、まだ画を描く気にはならないけど応援するよ、キミの夢を」
「ホントに!?」
「うん。だから、何かあったらいつでも…うおっ!?」
体がいきなり浮いた気がした。すぐ近くにあったのは彼女の顔。
ふわりと甘い匂いがする。
「ありがとっ、純君!!」
それは、主人公である幼馴染との久々の再会を喜ぶ漫画のヒロインそのものだった。
「ちょっ…おま」
リンゴは思い切りボクに抱きついてきた。それも、アメリカ人も驚くくらいのかなりの力で。
友達でも恋人でもないこのボクに、だ。
「一回落ち着けって!」
これがなかなか離れようとしないのだ。何を噛みしめているのだろうか?
そして、主人公というのはこういう場面になるといつも―
「何やってんだ? お前ら。仲がいいのは結構だが、もうホームルーム始めるぞ」
誰かに見つかって、白い目を向けられるのがオチである。担任の山村がトイレから出てきたところだった。
「先生、これは違うんです!!」
担任は聞く耳を持たない。心なしか、ボク達の前を通り過ぎていく彼の足取りが、いつもより弾んでいるように見える。思い込みであると本気で願いたい。
「さぁ、行こっ! みんな待ってるよ」
笑顔で手を差し出すリンゴを見て、これが夢だと確信した。
そうだ、こんな展開があってたまるか。
何故、さっきまで抱きついていたのにボクの前にいる?
こんなのは、おかしすぎる。
何故なら、それはボクの役目だからだ。
これが漫画だとしても、現実だとしても、手を差し伸べるのは主人公であるボクじゃなきゃいけないんだ。
「……」
今は、このカオスな状況をベタで塗り潰してしまいたい気分である。