p.03 家族と夢
しゃがんで覗き込んでくるその姿は、愛くるしい表情でご主人様を心配するチワワを連想させる。
「そんなに痛くなかったでしょ? 純君って男のくせに弱っちーいんだね」
連想させただけで、愛くるしさなんて最初からなかったのだ。これが現実。
「それ、完全に差別だから。誰だって、鳩尾に強打をくらったらしゃがみこむでしょ…しかも鞄の角って最悪だよ」
恨みがましく言いながら、腹に手を当てたまま立ち上がる。
「私の話、聞いてくれる?」
悪びれる様子もなく続ける彼女。
「その前に、その画返して」
「協力してくれるならね」
「話は聞くから返せ」
「嫌だ」
「いや、それボクのだし…何でその画に拘るの?」
「だから、言ったじゃん。私、純君の画に惚れたって。あっ、純君には惚れてないから安心して」
「そんな心配してないよ。朝から放課後までストーカーしてくる女の子に告白されても、警察呼ぶだけだから。そちらこそご安心を」
「人を犯罪者みたく言うな!」
怒った顔が面白いので続けてみる。
「じゃ、金魚のフンでいいのかな?」
「仮にも『女の子』って思ってんならフンとか言うな!! 純君なんて一生、彼女できないね。いや、ホント絶対だこれ」
「仮でいいんだ」
素直な子の言うことは聞いておこう。
「うん、分かった。忠告ありがとう、女の子(仮)さん」
「それ以上からかったら、この画をネットにばら撒くぞ!」
前言撤回。
彼女は紛れもない犯罪者だ―その声音でボクは確信した。
「お話をどうぞ」
振り向かずにそう言って、ボクは再び歩き出す。
彼女の隣は歩きたくない。殴られるし、話が長いから。
あと、とにかくバイトに遅れそうなのだ。
「ねぇ、私の話聞く気ある?」
「聞いてるよ」
「絶対聞いてないよね? じゃあ、私の質問に答えてよ」
「だから、その画のモデルはボクの彼女じゃないし、ボクには彼女がいない。朝も話したじゃん」
「ほら、やっぱり聞いてない」
「えっ?」
彼女の足音が大きくなる。
「私は、純君の理想のタイプを聞いたの…この画みたいな文学少女か、スポーツ万能な子か、それとも、色気たっぷりのオトナ女子か」
「『いろけ』から離れて…それにオトナ女子って、そういう意味じゃないと思うよ」
「そうなの?」
「そう。『オトナ女子』ってのは、若さと落ち着きを兼ね備えた女性のこと。お前とは真逆ってことだ。ついでに言うと、リンゴはタイプじゃない」
「それ、さっき聞いた。だいたい、告白もしてないのに何で私フラれたの?」
「大事なことだから二回言った。もう、ストーカーされたくないし」
「だから、ストーカーしてたんじゃないってば! 結局、はぐらかすし…」
「それより、聞いてほしい話って何?」
正面にコンビニの見える交差点で立ち止まって話題を変える。
「そうだよ! それなんだけど、純君って漫画好きだよね? 今日発売の『ホップ』バスの中で読んでたし」
隣に立ったリンゴが聞いてきた。
「あぁ、漫画は結構読むよ。少年誌は全部、成年誌は気になるのだけ」
「やっぱり。私も少年漫画はかなり読むよ! というか、そればっか。『ホップ』、『メカジン』に『マンデー』、『マスター』、『ガッサン』とか。成年誌はたま~に読むくらいだけど、コミックアプリもいっぱい入れてる」
これが証拠だ、とばかりにスマホの画面を見せるリンゴ。そこには確かに十を超えるコミックアプリが並んでいる。
「リンゴってインドア?」
「別にそういうわけじゃないけど、運動するより漫画読む方が好き。お兄ちゃんたちの影響でね、昔から家に少年誌とかコミックスがたくさん置いてあんの。三人もいるから部屋の中はネカフェ状態だよ」
「兄妹多いな」
「うん。お兄ちゃんたちそれぞれに好きなジャンルがあって、バトルファンタジーとギャグとアダルト専門って感じかな」
「アダルト専門のお兄さんいるんだ」
「うん、二十歳の。それを読むのはいいけど…全然気にしないし。ただ、その時の顔が超キモイんだよね~」
ボクも紫乃が乙ゲーに興じる姿は見たくないかも。
「男子って、やっぱ胸の大きな女の子が好きなの?」
「はっ?」
信号の点滅を確認してから、とっさに振り向いてしまった。
「やっぱ、それ重視なわけ?」
「ボクは、そんなの気にしないよ。要は中身。心だからね」
平静を装って淀みなく返したつもりだが、
「うっわ…最後の引くわ~。せめて、女子の好きなとこ言ってよ」
そう言って一瞥された。
その時の表情は何とも言い難い。返す言葉が見つからなかった。
居心地の悪さを感じつつ、先を歩く。
「それでさ、純君の将来の夢って何?」
行きかう人々の中で、声だけが届く。
「教師」
「え~、あんなに画描くの上手なのに漫画家じゃないの?」
漫画家。
その言葉を聞いた瞬間、足が止まった。
「なれっこないよ、そんなの」
自分でも驚くほど無感情に返す。あまり口を動かした覚えがない。
「えっ? 聞こえない。なんて言った?」
悪寒がする。
周りの音は聞こえず、その景色は黒に塗りつぶされていた。
脳裏を駆ける不鮮明なセピアの画。
耳の奥で幾人もの噎び泣く声がする。
時折、子供の甲高い声が響く。
ボクはこの光景を知っていた。
「ねぇ、どうしたの? 急に立ち止っちゃって…赤になっちゃうよ?」
肩に感触を覚えて、その声に振り向く。
「顔色、なんか変じゃない?」
「気のせいだよ」
悟られないように伏し目がちに答える。
「そう?」
「うん」
「じゃあ、さっきの話だけど…私の漫画家になる夢に協力してくれないかな? 少年誌で連載したいの! それでね、いずれは…」
「漫画家になんてなれないって言ったろ?! リンゴは本当の世界を知らないんだ! 父さんのこと思い出させるんじゃねぇよ!!」
耐えきれなかった。
「えっ? ちょっ…純君!!」
吐き捨てて、走る、走る、走る、走る走る走る走る走る走る。
気づけば、家の前に立っていた。
隣にリンゴはいない。
「父さん…」
何度も忘れようとした。
忘れたつもりだった。
眼の奥が熱くなる。
――二年前、ボクの父さんは死んだ。床にうつ伏せのまま、目の前に転がったGペンに手を伸ばすようにして。
漫画家・シロサブ。
享年四十三。
最期の時まで運命に抗いながら、一人の漫画家は逝った。