p.13 愛と怒りの力
保健室に入ると、湿度のある生温かい空気が運ぶ消毒液の臭いがボクたちを出迎えてくれた。
その臭いを和らげるかのように追って、微かな柑橘系に近い甘い香りが漂う室内には、生徒が使う机と椅子があり、その奥に先生の作業机が置かれている。作業机を挟んだ右側には三つのベッドが並ぶ。
薬品や処置に必要な消耗品は、その向かいの背の高い大きな棚に収められている。
ベッドに寝かせる必要性はなさそうだから、近くの椅子に座らせておこう。本当に肩を貸す必要があったのか未だに疑問なんだけど。
「湿布探すから、ちょっと待ってて」
気を取り直して棚に向かう。
ガラス戸を引いて、雑に収納された棚のから湿布を探す。
見た目からは想像できないけど、柏木先生は相当大雑把な性格らしい。保健室なのにこれでいいか――と不安になってしまう。
「湿布あった?」
「うん」
急かすような声に振り返って、リンゴの隣に腰を下ろした。
「まだ痛む?」
「うん。ジンジンする」
それを示すように右手の甲を摩るリンゴ。
確かに赤く、僅かながら腫れあがっている。下手すれば骨まで折れていたのだから、当然と言えば当然で不幸中の幸いだろう。彼女は普段から無理をする傾向があると思う。
確かに、リンゴはボクに比べて体力も筋力も遥かにあるけど、それを過信しすぎている。黒部に勝つためとはいえ、仮に手を怪我してしまったら彼女の夢が遠くだけ。
描けなくなれば、ボクといる理由もなくなって虚しさだけが残る。
彼女の足を引っ張っているように思えて、それは凄く後味が悪い。
「貼るよ」
差し出された手にゆっくりと湿布を貼る。
「痛っ…」
顔を歪める彼女を見て、ボクはゆっくりと口を開いた。
「やっぱり断ろう」
「何で?」
短く、不安そうな声に一瞬、たじろいでしまった。
「それってさ、私がこんな無茶したから?」
「うん、漫画家目指すなら手は商売道具だから」
「ごめん」
分かり易く落ち込むリンゴは初めて見た気がする。自分でも怪我をするなんて思ってなかったのだろう。
「それに、正直に話せば黒部だって分かってくれると思う」
ボクの提案にリンゴは首を横に振った。
そのまま手を握られ、強く訴えかけるような瞳で彼女は続ける。
「たぶん無理だよ。話し合いで解決なんてできない。騙したな、とか言って逆上したら何されるか分かんないよ!」
必死なのが十分伝わってきて余計に困る。
柔道選手に瓦割りを挑む――これなら勝てる可能性はあるけど、ボクの当日のコンディションと運に頼るしかない。つまり、勝算はかなり低いということになる。
でも、こんなに真剣な顔をされたらボクも引けない。
その時、脳裏に最悪な映像が流れてボクは掻き消すように頭を振った。
ボクは、あの時に決めたんだ。
自分の傍にいてくれる人を二度と悲しませないって。
だから、リンゴは泣かせない。
「分かった。やるれるだけやってみるよ!」
泣かれたら面倒だし、何より今までの努力を無駄にしたくないから。
「ありがとう!」
自然と握り返した手が、そのまま彼女の胸元まで引き寄せられる。
ほぼゼロ距離。満面の笑みの破壊力にボクは固まることしかできなかった。みっともなく口を半開きにしながら。
「私のこと好き?」
「全然」
唐突な甘い囁きから逃げることはできず、やっと呼吸の仕方を思い出したボクにはこれが精一杯だった。
瓦割りは、空手部の新入部員勧誘時に披露されるパフォーマンス。
対等に戦えるであろう舞台を用意してくれたことに感謝すると同時に、ナメられていることは、いくらボクでも癪に障る。仕方ないとも思うけど。
数分後に訪れる未来を想像すると頭痛がする。
そんな中、律儀に放課後の体育館に来たボクを褒めてほしい。
リンゴは、ボクより少し遅れて入ってきた。
目が合うと、
「頑張ってね!」
そう笑顔を返してくれるけど、緊張を隠すための作り笑いに見えた。思い返せば、朝から元気がなかった気がする。
スカートの裾を内側に折り曲げて、リンゴが床にゆっくりと腰を下ろした。
二人だけの体育館は静かで、自分が小さくなったみたいに、室内が見ている空間より広く感じる。
そして、ボクの周囲はゆっくりと漆黒に包まれた。
錯覚か現実か、何も分からないままボクは独りになった。
ボクとリンゴの關係ってなんだろう?
このままでいいのか?
リンゴは、ボクのことをどう思ってるんだろう?
黒部との過去に触れていいのか?
むしろ、今がそれを訊くチャンスか?
いや、安心させる言葉をかけるべきか?
自分の声が畳み掛けてくる。今はどれを考えたって、どうしようもないのに。
「来てくれて安心しましたよ、ヒョロ長先輩!」
体育館にいきなり響いた野太い声にハッとする。
吊り目モヒカンに丸刈りゴリラ、太っちょリーゼント。
振り返ると、以前にも遭遇した絵に描いたような不良三人組がボクに向かって歩いてきていた。
もう、怯まない
「ボクの名前は白木だ。ヒョロ長先輩じゃない」
「お? やる気はあるみたいっすね。いい顔してるじゃないっすか?」
余裕の笑みから零れる白い歯はやっぱりムカつくけど、相手のペースに呑まれないよう、できる限りの不敵な笑みを返す。
「ほんじゃ、早速やりましょーや。ルールは予告通り、三回戦で二人同時にやって、瓦をより多く割った方が勝ちってことで。記録はアオちゃんよろしく」
「アニキなら余裕っすね!」
「とっとと、幸せ掴んじゃいましょう」
「バカヤロー! そんなガツガツしてたら、アオちゃんが引くだろーが」
「早くやろうよ」
リンゴの事情とか関係なく、黒部に一泡向かせると静かに誓って拳を握る。
用意された瓦の元に向かう際、不安そうなリンゴと目が合って、その場で互いの拳を突き合わせた。
言葉はいらない。
大事なのは結果だ。
一回戦――瓦三枚。
気持よく割れた音はしたけど、隣の黒部の快音に掻き消される。やっぱり、圧倒的にパワーが違う。
「白木―三枚、黒部―三枚。両者クリア」
大事なのは次の五枚。
全神経を集中させて瓦に視線を落とす。
絶対負けない!
「なかなかやるじゃないっすか。先輩」
「勝負するからには負けないよ」
五分五分で迎える最後の十枚
不思議だ。
勝てる気なんてしないけど、全身が高揚してる。愉しい。
「へあああああああああ!!!」
瓦めがけて、全力の拳を振り下ろす。
全身全霊をかけて。
――バリーン!!
風を切る音がした直後、瓦の割れる爽快な破裂音が響く。
咄嗟に振り返った視界に、瓦礫と化した瓦が静かにブルーシートの上に散る様を捉えた。スローモーションに映るそれは、ボクの心情を表しているようだった。
手応えはあったが、彼とは明らかに勢いがない。
「白木―七枚、黒部―十枚。合計枚数、十五対十八で黒部くんの勝ち」
驚いた表情を見せてから、リンゴが静かに告げる。
負けて初めて悔しさが込み上げてきた。そんなに意識していなかったけど、ボクの中にこの勝負に対しての重みがこんなにもあったことを痛感する。
リンゴから目を逸らし、ボクにできることは拳を固く握りしめることだけだった。
「俺の勝ちだな!」
イヒヒ、と下品な笑いを漏らしながら黒部が彼女に近づいていく。
「約束どおり俺と付き合ってもらうぜ、リンちゃん」
「待てよ。リンゴの気持ちも聞かないとダメでしょ?」
勝手に体が動いてた。
「は? そういうルールだったっしょ? 先輩、この期に及んでみっともないっすよ? 彼女取られるのが悔しいからって」
行く手を阻んだボクに対して、苦笑を浮かべる黒部。
そうじゃない。
リンゴはボクのカノジョじゃないし、彼女が黒部と付き合いたいのであれば心から応援したい。
だからこそ今、リンゴの気持をが聞きたいんだ。それが一番大事だから。
「放してもらえますか?」
ここは引けない。彼女のためにも、ボクのためにも。
「アオちゃんは、俺と付き合ってくれるよな?」
彼の投げかけた問いの答えを聞きたいから。
「付き合う気なんて毛頭ない」
即答だった。
「えっ?」
僕への抵抗をやめ、咄嗟に彼が聞き返す。
「勘違いさせたなら、幼稚園の頃のことはごめんなさい。でも、今も私は黒部くんとは付き合う気なんてないよ」
答えは分かった。
「嘘だよね!?」
黒部の心からの悲鳴が漏れる。
押さえていた手が強引に振りほどかれていた。
「放せ! アオちゃんは俺のモンだ!!」
「押えましたぜ、アニキ!」
声に促されて向き直ると、舎弟気取りの仲間の一人がリンゴを肩に担いで逃げ去ろうとしていた。
「アオちゃんは任せたぜ」
「下ろしてよ! ちゃんと断ったのに何でこんなことするの!?」
普段のリンゴならこんな失態はしないんだろうけど、迫ってきた黒部の仲間に動揺したんだと思う。
「約束を破ったリンちゃんがいけないんだよ」
こんなの卑怯だ。
呆れた物言いに体が一気に熱くなり、
「リンゴを放せ!」
静かな怒りと共に、気づけば拳を出していた。
「おぶべっ!」
見事に顔面を捉え、黒部が吹き飛んでいく。
爽快だった。
「「アニキィ!!」」
驚いた舎弟二人が驚いて駆け寄ってきたが、
「痛いって、蒼井さん!?」
太っちょリーゼントは、リンゴに髪を引っ張られて辿り着けない様子。
その間に、鼻血を拭いながら巨漢が経ち上がる。
「これくらいで騒ぐんじゃんぇよ、バカヤロー」
余裕だ、と言わんばかりの臨戦態勢。
「純くん、ファイト~!」
どよめく空気を打ち破るようなリンゴの声援を合図にボクは駆け出した。
今こそ。彼女との特訓の成果を発揮する時だ。体格差を巧く利用すればダメージは減らせる。
「俺は負けねぇ!」
組まれたら勝機はない。
袖を掴もうと迫りくる彼を躱して懐に潜り込む。リンゴに比べれば動きは遅い。
「柔道家相手にボクサー気取りかよ!」
渾身のパンチを放つも、
「もう効かねぇよ!」
手を掴まれ、無理やり組まされる形になる。そこからは一瞬で、
「おらあぁ!!」
呆気なく宙を舞ったボクには、何が起こったのか分からなかった。
「純くん!」
床に叩きつけられて数秒後、リンゴの悲鳴で意識を取り戻す。
自力で拘束を逃れた彼女が、駆け寄ってきているのが分かった。
「来ちゃダメだ!」
立ち上がりなら手を突き出して、やっと出せたのは予想以上のかすれ声。
「背中に激痛が走り、視界が揺らぐ。黒部を睨むのが精一杯だった。
「まだ、やります?」
「当たり前だ。まだまだこれからだろ?」
「死亡フラグにしか聞こえませんね?」
そうかもしれない。笑いたければ好きなだけ笑え。
「ヒローごっご仕舞いにしましょう」
それでも、今確かなことは――
「見るからに悪党の君を斃してからね」
リンゴ守ってやれるのはボクだけだ。
「まだお元気そうで何よりです」
ここまで挑発すれば、最後は殴り合い。これを狙ってたんだ。
先手必勝!
「ぐあ! クソがっ!」
「おぶっ!」
冷静になって躱せ。まだ視えるはずだ。
重心を低くしてパンチに重みを。
「あがはっ!」
イメージ通りに入ったけど、黒部の眼は死んでいなかった。
「くたばれ、おらああっ!」
相打ちにあって探り合う。
次の一手で決める――!
そう決意した直後、ボクは吹き飛ばされた。
「危ないっ!」
リンゴの叫び声がしたと共に、包み込まれるような感触があった。
「バカ! こんな無茶までしなくていいよっ!」
泣きそうな声に驚いて目を開けると、リンゴの腕の中だった。まさに死亡フラグみたいに。
「やれるだけやる、って言ったからね」
「全然カッコよくないから」
知ってる。
それでも、戦いたかった。守らなくちゃいけなと思ったんだ。
「助かったよ、リンゴ。もう離れて」
フラフラと立ち上がった黒部に気づいて、起き上がろうとしたボクを止めたのは、
「純くんはじっとしてて」
さっきまでとは表情を一変させて、真っ直ぐに黒部を見つめるリンゴだった。
「お願いだから、私たちには二度と近づかないで!」
「そんな…俺のほうが、ずっと前からアオちゃんのこと好きなのに。何で俺を避けるの?」
直球な言葉に動揺を隠せない黒部。
「先輩のどこが好きなんだよ?」
リンゴの返答を待たずに捲し立てる。
そして、リンゴはボクを振り返った後、はっきりと言葉を丁寧に選ぶように語りだした。
「純くんは、どんな私も受け止めてくれる。優しすぎて困るくらい何事にも全力で私にいろんなモノをくれるんだよ。私が、どれだけそれに応えようとしても敵わないことを知ってるのに。だから“好き”じゃ足りないんだよ」
そこで言葉を切って、再び彼女から出た言葉をボクは一生言える気がしない。
「私は、純くんを愛してるの」
心臓が止まった気がした。
いや、一秒くらい止まった。
「えっ?」
微かな息を漏らした黒部は固まっていた。
やがて、岩が崩れるかのように力なく膝を折る。
何よりも彼に効いた攻撃
この勝負を決したのはボクでも黒部でもなく、守らなければいけないはずのリンゴの言葉だった。
「情けないなボクは…」
疲労と痛みで薄れゆく意識の中、彼女が顔を近づけてくるのが見えた。
「お疲れ様」
その後、柔かな感触を覚えた直後に目の前は暗転した。
勝利の女神の微笑みを瞼に映しながら。




