p.11 ご褒美と特訓
たぶん、リンゴはどこまでも本気で真っ直ぐなんだと思う。それ故に暴走しがちというか、一般的に女子高生がクラスメイトの男子に言わないであろうことを言ってしまうのだ。
加えてボクがバイトに向かった後、リンゴは紫乃が帰って来るまで家に居座り、二人はさらに親睦を深めたらしい。
そして、早くも約束の日を迎えた翌日、ボクたちは再び叔父さんの仕事場に来ていた。
リビングの時計の秒針が嫌に耳に響く。
「ねぇ、さっきから顔怖いんだけど」
いつもより低く、棘のあるリンゴの声にハッとする。それと同時に、この現実が現実であることを再確認してしまう。ボクは今、上半身裸で女子の前に立っている。
この状況を何も知らない母親が目撃したら、どう思うだろう――なんてことが脳裏を過ぎったけど、頭を振って速効で掻き消した。
「もっとリラックスしていいのに」
「できないよ! むしろ、何でリンゴは我が家に溶け込んでるの?」
「だって、近所だし」
「いや、答えになってないから」
向き合っていても、リンゴは全然動じてない。半裸とはいえ、一対一でこっちは緊張するんだけど。
「脱いでもらってて失礼だけど、純くんって痩せてるね。筋肉ないし」
ノートから目を離したリンゴが背伸びしをながら、何でもないことのように言う。
「失礼、って思うなら言わないでほしいんだけど」
普通に傷つくから。
「身長いくつ?」
「百六十九」
「体重は?」
「五十六」
「ちゃんとご飯食べてる?」
「それなりに食べてるけど、体質だと思う。なんで睨むの?」
「いや、百五十八センチ/四十八キロの私が平均的なのに、何故か悔しくて」
「勝手に不貞腐れるのやめて、早く描いてくれない?」
目の中の光が消えてた。
「私さ、周りより筋肉質ですぐ体に出ちゃうだよね。あと一~二キロは絞りたいんだけどさ」
リンゴには珍しく、小さなため息が漏れる。
「そんなに気にすること?」
「そりゃそうでしょ」
「それより『体重とか普通にバラすんだ』って思った」
「別に隠すことでもないじゃん。友達に聞かれたら何でも答えるのが私のスタンスだよ。純くんには、特に協力してもらってるわけだし、聞きたいことあったらいつでも言ってね!」
頬杖をやめて、まっすぐとボクを見据えたリンゴが柔かな微笑みを見せた。
「まだ、何も聞いてないけどね」
「純くんに体重とか聞く度胸ないと思って」
悪戯っぽく笑ってから、リンゴはようやく机に目を落した。
全然可愛くない。
それから、しばらくリンゴは喋らなくなった。これで落ち着ける。
そして、自分の恰好を見て改めて思う。こんなことで彼女のサポートになっているのだろうか?
そもそも、ボクが裸にならなくても資料はあるのにそれだけじゃ描けない、ってリンゴは言うけど、それ以前の問題だ。彼女をどうサポートしてあげるのが最善か?
絵の上達はアドバイスだけでどうにかなるものじゃないと思う。そのカギは、ひたすら描くこと。忍耐力が必要だ。
「純くんさ、自分がモデルって意識ある? 何考えてるのか知らないけど、あんま表情は変えないでよね。絵に影響するから」
誰のために悩んでると思ってるんだ。偉そうに。
「まだ、アタリ取れてないよね? 口より手を動かせよ」
生意気を言う奴には容赦しない。
軽く睨んでからリンゴは、再びペンを走らせる。不思議とその視線にも慣れてくるもんだ。
チラチラ見られながらも、さっきより明らかにペースは速い。今度こそ本当に集中しているみたいだ。
「描けた!」
二十分後、彼女が見せてくれたのはボクの絵。
眼が死んでる。
髪が少ない。
そんな些細なことは百歩譲って許そう。
「どうかな?」
ようやく描けたという達成感に満ちた表情で、こちらの反応を窺ってくる。
反応しづらい空気の中、手渡されたイラストを眺める。
バランスを取ろうと意識していることは読み取れるが、間接の位置が変だったり、体のパーツがあり得ない方向を向いていたりした、あと、目が病んでて怖い。
「これって、ボク?」
「そだよ」
即答だった。
「描き直し」
この今の状態では絵の上達に相当時間が必要だ。
「具体的に言ってくれないと判んないよ」
「全部だよ」
「だから、どこが?」
「体のバランスは多少良くなったけど、体のパーツが整ってない。画力は今はいいとして、基礎を叩き込もう。ネットで描き方の記事とか動画とかたくさんあるから」
リンゴはいつの間にか下を向いていた。ショックを隠しきれないのか、返事すら返ってこない。すごく怒ってる可能性もある。
「あのさ」
リンゴの感情を探っていると、不満をぶつけてきた。すごいしかめっ面で、体の周囲に黒い靄を纏った一コマを連想させる。
「前から思ってたけど、純くんってアドバイスはくれるけどさ、なんっにも形に残してくんないよね? このままだと私、毎回振り出しに戻って成長しないよ」
「堂々と開き直るのやめろ!」
「だから、何て言うか言葉だけじゃなくて図解とか実際の絵でもっと分かるように説明してほしいな。そういうのって絵が描ける人の得意分野だと思うから」
「だからボクは見守るだけって言ったろ?」
「それって、宝の持ち腐れじゃん」
違う。
ボクは、もう描けないんだ。三年のブランクは大きすぎる。
反論しようにも、リンゴは止まってくれない。
「それか、上手く描けたら私の似顔絵をご褒美として純くんが描いてくれてもいいんだよ? もっと私にやる気を出させて」
「何で上から目線なの? もう、その顔やめて?」
ボクがイエスと言うまで動かない――そんな硬い意思を感じる態度にボクも対抗してみたかったけど、半裸の痩せ型の男には何の威圧感もないことに気がついた。結局は時間の無駄だ。
「それくらいのことはしてほしいな」
もう、反論する気にもなれなかった。
「分かったよ。ただし、似顔絵は一作目が脱稿したらのご褒美ってことで」
しばらく考えてからボクが告げると、
「条件呑んだら、絶対に描いてくれるよね?」
彼女の周囲から悍ましい雰囲気が消えた直後に鋭い牙が見えた。ボクの幻覚だろうか?
「ちゃんと今の全力で描くよ」
「分かった。これで交渉成立。約束がまた約束が一つ増えたね。期待してるよ」
折れるのは、いつだってボク。
リンゴの夢は応援したいけど、これって甘やかしすぎじゃないか?
「んで、もう一個お願いなんだけど…実際に体触ってみていい?」
「は?」
頭に浮かんだ憶測は一瞬で消え去り、脳から指令を受ける前に発した声に体が自然と硬直を始めた。本能が目の前にいる人物を[危険]と断定したのだ。
「変態」
よって、この発言は正しい。
「いや、別に変な意味はないから」
「じゃあ、どういう意味だよ!」
もう嫌だ。帰りたい。
「少し質感を確かめたいだけだから!」
「それって、今のお前に本当に必要なことか!?」
「何言ってんの? 必要だから頼んでるんじゃん!」
「ただ、触りたいだけだろ!」
「そんなんじゃないし」
「なら、こっち来るな!」
自然と本棚が迫ってくる。
「そんな逃げないで。ちょっとだけだってば! 変なことはしないから」
何でそれをあえて言うの?
「止まってよ!」
そう言いながら、リンゴの歩みは止まらない。
振り返って、改めて後ろを確認すると残り三メートルくらい。もう逃げ場がない。一方的な願いに屈したくはない。
「もう! 大人しくしてよ…協力してくれる、って言ったよね?」
「誰も『変態の相手をする』とは言ってないから」
「変態じゃなし、女の子に失礼って思わないの!?」
「たった今、襲われてるのにそれが過ぎるわけあるか!」
リンゴの右手がボクの肩に伸びる。
「やめろって!」
後ろに体を逸らし、迫りくる手をそのまま払う。
その手が再び向かってきたので、着地してからしっかり手首を捉えた。
「何でこんなことするの?」
「それはボクの台詞だ!」
現状、ボディがガラ空きだ。押されっぱなしは納得がいかない。
「リンゴがその気ならいいよね?」
刹那――渾身の左ストレートを彼女の腹めがけて放った。あくまで正当防衛だ。
「遅いね」
なn!?
声になる前に、ボクの拳はリンゴの左手に収まっていた。そこに集中線をイメージする隙などなく、あっさりと利き手じゃないほうに封じられる始末。そのまま押し相撲が始まる。
「いい加減、諦めろ!」
「諦めるのはそっちだよ!」
子供っぽい、という自覚はあるけど、今更引けない。
互いの両手を組み合ったまま、力比べは続いた。
拮抗していたバトルが動いたのは、ボクの両手に汗が滲み出した頃。
「いざ、押して参る!」
武士みたいな台詞を言いながら、力ずくで押してきたのだ。
「うおっ!?」
予想以上の圧に情けない声が出る。五歩も下がってしまった。
本棚があることを思い出して、体を反転させようと重心を傾けても彼女は石のように動かない。
戦闘力を上げるしかないようだ。
「うおぉぉぉぉぉ!!」
あの惑星の戦闘民族に力を借りるつもりで叫ぶ。
「ぐっ!」
不思議と力が湧いて押し返せた。髪色に変化はないけど。
顔を歪ませるリンゴを見て自然と口角が上がる。
「――!」
今思えば、この時に畳み掛けたことが失敗だった。
ゴトッ!
足を掛けようと前に出たボクはそれをいとも容易く払われ、そのまま踏まれた挙句に押し倒されて完敗。
気がついた時にはリンゴの顔が目の前にあった。かなり近い。
「観念した?」
少し息を切らしたリンゴの問いに、ボクは答えなかった。
「ねぇ、ずっと恋人つなぎしてるの気づいてた?」
「知らない」
いや、分かってた。
それも自然と視線は手元にあった。
それより、今はリンゴの顔を直視できなかったのだ。
控え目に紅潮した顔としっとりした髪を見て色っぽいと思ってしまったから。不覚にも。
それからすぐに、自分の胸に掌の感触を覚えた。
ゆっくりと動いている。
「何やって…」
確認しようとしたけど、さらにリンゴが近づいてきて言葉に詰まってしまった。反射的に目を瞑る。
「もう逃げちゃダメだよ? あとで黒部くんに勝つための特訓には付き合うからさ」
耳元で囁かれてゾワッとした。そこだけが徐々に熱くなっていく。
胸に手を置くのは、やめてほしい。鼓動が鳴っているのがバレるから。鳴り止まないから。
というか、なんだこの状況?
何の特訓これ?
起き上がってからも訳が分からないまま、時は過ぎていく。
叔父さんの仕事場から頃には、リンゴのアタリ取りは何故か完璧になっていた。それだけだけど。




