p.01 朝
いつもと変わらない朝。
眠い目を乱暴に擦って起き上がり、窓の外を見る。もう、これ以上は動けない。誰かボクに油を注してくれ。
「純兄ィ、学校始まっちゃうよ! テーブルに食パンと牛乳置いてるから、さっさと食べて出てってね」
「分かったよ、ありがと。気をつけて行って来いよ」
「うん、純兄ィもね。今日から高三なんだから、しっかりね!」
「今日から中一のお嬢様も頑張れな」
ったく、相変わらずの世話焼きだ。
「行ってきま~す!」
玄関のドアが閉まったら、朝のウォーミングアップ終了。少しのやりとりだが、制服に袖を通した時、なんだか腕が軽かった。
着替えてリビングに行くと、四人掛けのテーブルの右端に平たい皿が一枚。こんがりと焼かれたトーストが二枚入っていた。
その横には、マグカップに入った牛乳が置かれている。
「食パンにはコーヒーだろ」
妹には悪いが、誰にともなく独りごちる。こんな時にSNSがあれば便利なのだが、残念ながらボクはガラケー派だった。
もっと我儘を言えるのなら、ボクは牛乳には―
ふと、時計が目に入った。瞬間、息苦しさを覚える。
「ブハッ!」
牛乳が飲んだ勢いそのままに、美しい弧を描きながらリバースする。咳き込みながら、もう一度正面を見ても針の位置に変化はない。これが現実だ。
現在の時刻は、七時四三分。
「紫乃、あとは任せた!」
無責任だと自分を呪いつつ、しかしながら妹を信頼しているからこそ、こうして放置プレーができるのだーと、自分に言い聞かせる。
ボクは絶対、チームプレーを重んじるスポーツなんかには参加しないほうがいいタイプの人間だと思う。
いや、むしろ逆かも?
どうでもいいことを考えながら、歯磨きと制服に牛乳の臭いが染みついていないかのチェックを済ませ、急いでバス停に向かう。鍵は、しっかり閉めておいた。そこだけは自信がある。
あとは、全速力で走るのみ。
近くのコンビニで漫画誌を買って、家から二つ目の交差点を曲がる。ここまで五分。残るは、一キロの直線コース。余裕だ。
結局、最新号を読み始めたのはバスに乗ってからだった。バス停に着いて、漫画と一緒に買ったペットボトルの水を一口飲んだところで、次の便が来たからだ。前言は撤回しよう。
ボクが通っているのは都立紅葉高校。
都心から人里離れた山奥にあるため、バスで一時間もかかる。この辺りは自然が豊か、というのが売りだが窓の外なんて一切見ない。漫画を読んでいる時だけが至福のひと時だからだ。
途中、右の席で二十歳くらいのガングロの女性が人目も気にせず、堂々とアイラインをひいているのが見えたが、見なかったことにしよう。その顔で睨まれたら正直怖い。
僕は再び自分の世界へ入り込む。
プシュ~。
ドアの開閉音でボクは現実に引き戻された。いつ聞いても情けない音である。通勤・通学中の憂鬱な人達の背中を押そうという気は少しもないらしい。
「また始まるのか」
読みかけの漫画誌を鞄に入れ、凝り固まった身体を無理やり伸ばして立ち上がる。ポキポキッと二回くらい関節が鳴ったが、この瞬間が案外気持ちが良い。
人通りが少なくなったのを見計らって歩き始めた直後―
「痛っ!」
右肩に強い衝撃を受けた。
「周り見て歩けよ」
ガタイの良い四十歳くらいの男が、吐き捨てるようにそう言ってバスを降りていった。
それはこっちのセリフだ。
だいたい、そっちが走ってきたのが悪いんだ。ボクは全然悪くない。
ドアで頭ぶつければいいのに!
僕は彼の背中をしばらく睨みつけてから、床に落ちた教科書やノートを急いで拾い集める。
拾い残しがないか確認し、バスを降りた。
ようやく、通いなれた校舎に辿り着いたのはそれから五分後のことだった。
久々に友達に会えるのは嬉しい。
だが、始業式明けの化学は地獄だ。
やる気なくシューズを床に放った時、右隣から聞きなれない声が聞こえてきた。
「ねぇ、ねぇ。この画って君が描いたんだよねぇ!! えっと~…【シーラ純】くん、で合ってるかな??」
それを聞いた瞬間、息が詰まった。
振り向くと、綺麗な蒼い髪を一つに結った女子が好奇な眼差しでこちらを見ていた。着ている制服はウチのものだ。
そんな彼女が興奮気味に指差していたのは、一枚のルーズリーフに描かれた画。
それに気づいた途端一気に血の気が引いて、首筋を冷たいモノが伝っていくのが分かった。
「あ…あのっ!」
「これね、バスん中で拾ったの。この画のモデルは、ひょっとして君の彼女だったりする?」
だったりしない。
だから、そんなに眩しい眼でボクを見ないでくれ。融けそうで生きた心地がしない。今、ボクはどんな顔で彼女を見つめているのだろうか?
「私の名前は、蒼井 林檎。『リンちゃん』か『アオ』でいいよ! あっ、『アオリンゴ』はNGね。私、今日からこの学校に転校してきたの。これから、よろしくね!!」
いつもと変わらない朝から始まったこの日、ボクの高校生活最後の日々は彼女によって鮮やかに彩られることになるのだが、それはまだ先の話である。
今は頭の中が真っ白だ。