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マッチ売りの少女 晴らし篇


 見慣れた豚小屋みたいな家。

 壁も薄く、寒さを凌げない家。

 幸せとは程遠い、義父にアゴで使われるだけの家。

 義父の振るう暴力の数々で、痛みの沢山詰まった家。


 ふと視線を下ろせば、バスケットの中の一つも売れていないマッチ箱の山。

 お金を稼いで来なかった時、自分がどうなるかは目に見えているセイラの口から大きなため息がこぼれる。


「ただいま」


 薄っぺらい扉を開き、部屋に入るとそこは外と違って暖かかった。

 こんな豚小屋のような家でも人が住むように改築された家だ。かなり小規模だが暖炉くらいある。


「早かったな、全部売れたのか?」


 家の中でぬくぬくとしていた義父には、当然ながらセイラが死にかけたことなど知るよしもない。

 「一つも売れなかった」。殴られるのを覚悟で、セイラがそう告げようとした時だった。

 彼女の視界に飛び込んで来たのは、暖炉に干し草や薪でなく本を投げ込もうとする義父の姿。


「何それ、何してるの」


 義父が投げ込もうとしているのは、セイラの料理本だった。

 勿論、文字の読めない彼女に本は読めない。でも、彼女にとってその本の価値はそこじゃない。


「やめてっ! 返してよっ!」


 祖母がくれた、祖母との思い出が詰まったその本を慌てて義父から取り上げるセイラ。

 まさかと思い、暖炉を見ると中にはメラメラ燃える火の足元に黒焦げの本が幾つも――。


「何怒ってんだよ、悪かったって」


「そんなので済むはずないよ……。

 だってこれはおばあちゃんから貰った大切な……」


 まるで祖母その人のように思い、大切にしてきた本を抱きしめ、セイラは大粒の涙を流した。


「ババアの知り合いから貰っただけで、どうせお前もあのババアも文字なんて読めないんだからいいだろ、別に」


 抱きしめた本をに涙をこぼすセイラを見て呆れたようにため息をつく義父。

 すると彼が立ち上がり向かったのは、セイラが本を取り返すために投げ捨てたバスケットだった。


「おい、こりゃどういうことだ」


 そこで義父の目に映ったのは、一銭も入っていないバスケットと床に飛散した大量のマッチ箱。

 一箱も売らずしてセイラが帰ってきたということは、一目見ただけでも分かった。


「テメェ! 一箱も売ってねえじゃねえか!」


 先ほどの楽天的な態度から一変、鬼のような形相でセイラに迫るや否や、彼女の真っ赤な頰を力いっぱいに殴り飛ばした。


「痛いっ」


 唐突のことに口内を噛んで血を流すセイラだったが、細い両腕は決して本を離さない。


「明日の飯はどうすんだよ! テメェ、俺に死ねっていうのか!」


 十四歳の娘が床に倒れようと、怒り冷めやらない義父の暴行は続いた。

 何度も何度も踏みつけ、ただただ憤怒をぶつけ続ける。


「テメェのお袋もうちの兄貴も死んで、ババアも死んで、転がり込む宛てもないテメェを引き取ってやったのは誰だ! 飯食わせてやってんのは誰だ!」


 腹を思い切り蹴られ、セイラは血を吐く。

 謝ることも、抗うこともせずうずくまる彼女の脳裏を過ったのは、つい先ほど出会った黒い少女だった。


「金さえ積めば、私は誰でも殺す」


 虚ろな目でセイラをまっすぐ見つめていた黒い少女。


「お前の払える額で、その怨みを請け負うよ」


 彼女は抑揚のない淡々とした口調で、そう言っていた。

 もしも本当に、怨みを請け負ってくれるのならば――。

 もしも本当に、殺してくれるのならば――。

 

「わた……しの……怨み……」


 怒りで顔を真っ赤にした義父に蹴られ続けるセイラの口から、そんな言葉があふれ出した時だった。

 コンコン、と軽快なノックの音が部屋に転がり込んだ。


「あぁ? 誰だ」


 街の外れにある豚小屋みたいなこの家に、義父とセイラ以外が立ち寄ることなど滅多にない。

 ましてや今は辺りも暗く、寒さも厳しい夜である。

 招いてもいない客人の来訪に、義父は暴行を止めて舌打ちしながら苛立ちを隠そうともせず玄関へ向かった。

 しかし義父の手が扉にのばされようとした瞬間、薄っぺらい木の扉が激しい音とともに蹴破られる。


「ななっ、なんだ!」


 驚きのあまり、腰を抜かして床にしりもちをつく義父。

 彼の視線の先に現れたのは、セイラに毛布と焼き魚を与えた黒い少女。


「うっわぁ、こんな豚小屋にマジで人住んでたんだな」


 それから、黒い少女の後ろからひょっこり顔を出して不敵に笑う赤毛の少女と、


「街に近いのはあるが、こんな豚小屋に金銭的価値はないな。土地も勝手に住み着いてるこいつらの持ち物じゃないとくれば、本格的に価値がない」


 呆れた様子で家の中の様子をうかがうガラの悪い金髪の男。


「なんだテメェら! 人ん家の扉壊しやがって」


 突然押し寄せては、家を嘲笑う三人組を前に義父は立ち上がって殴りかかる。

 ――が、その岩のようにゴツゴツした拳は先頭にいる黒い少女の真っ白な手に阻まれた。


「お前に用はない」


 見た目からは想像もつかない怪力で、逆に義父を壁まで突き飛ばすと黒い少女は部屋の中でうずくまるセイラを見つけ、彼女のもとへ歩み寄る。


「セイラ・アジーナ、答えを聞きに来た」


 自らの名を呼ぶ抑揚のない声に傷だらけの顔を上げるセイラ。


「殺し屋さん」


「お前がこの契約書に血印を押せば、あの男を殺す」


 そう言って黒い少女が懐から取り出したのは、先ほどと同じ内容の文字が羅列した羊皮紙だった。

 今現在、義父によって痛めつけられた体から流れる血で印を押せば、苦しみから解放される。思わずセイラは息をのむ。


「おい! 殺すってなんだ!

 テメェら勝手なこと娘に吹き込むんじゃねえぞ!」


 黒い少女の言葉が聞こえたようで一層大きな声で騒ぎ立てていた義父だが、そんな彼の顔面に赤毛の少女の拳が叩き込まれた。


「うっせぇんだよ、ぶっ殺されてぇのかコラ」


 顔も、手の甲も、とにかく全身に皮膚を縫い合わせたような痕が痛々しく残る赤毛の少女の拳はかなり重かったようで、壁にバウンドした義父の体が床に倒れこむ。


「おいおいクロウ、お前とヘルは何ともないみたいだけど、俺みたいな生身の人間は寒くて死にそうなんだ。早いとこ契約済ましてくれ」


 ガラの悪い金髪の男が身をガタガタ震わせながら、クロウと呼ぶ黒い少女に言い放った。


「だったらテメェもアタシと同じように死体にしてやろうか? アンソニー」


 ケラケラ楽しそうに笑いながら赤毛の少女・ヘルが、自分よりもかなり背の高い金髪の男・アンソニーの肩をポンと叩く。


「惜しいが遠慮しとくよ」


「ケケケ、こっちはテメェにぴったりの臓器用意しといてやるから、いつでも言えよ」


 正気の沙汰とは思えない会話に盛り上がるヘルとアンソニー。

 もう一方で彼らの聞き飽きた話になど耳を貸さないクロウは、目の前で床に這いつくばるセイラを虚ろな瞳で見下ろしていた。


「でも、見ての通りお金はないです」


 豚小屋みたいな家に、物も少ない貧相な室内。

 セイラの言う通り、これら全てを売り払ってもまともな金になどならないだろう。


「世の中の勝者も敗者も……生まれた時点で決まってる……」


 そんなセイラの話にすら耳を貸そうとしないクロウが勝手に語り始めた。


「お前みたいな生まれつきの敗者が、何も失わずに生きられると思うな」


 淡々と口調で語られたのは、セイラの胸を突き刺すような冷酷な言葉の数々。


「――――お前の全てを金に換えろ。

 報酬さえ手に入れば這い上がるチャンスくらいはあげる」


「這い上がる、チャンス」


 セイラがクロウから視線を逸らせば、そこには彼女自身を凝視する憎き義父の姿があった。

 祖母が死んでから約二年間。義父に引き取られてからの苦しみしかなかった日々。


(分かってる、何かを変えないと私はずっとこのままだ……)


 胸のあたりでグッと拳を握った後、セイラの手がゆっくりと契約書に伸びる。


(生まれてからずっと貧乏だった、私はやっぱり殺し屋さんのいう生まれつきの敗者だった)


 怯えるように震えた小さな手が、遂に契約書を掴んだ。


(だけどそれでもよかった……。

 お父さんとお母さんのことはあんまり覚えてないけど、おばあちゃんと暮らしてた幸せな毎日が続けばそれだけでよかったのに!)


 彼女の中で何か吹っ切れたのだろう。セイラはクロウの手から契約書を奪い取り、口から流れる血を指が真っ赤になるまでつけた。

 契約書に血印を押せば、契約は無事成立。セイラの怨みの矛先である義父は殺され、彼女に最後のチャンスが与えられる。


「何してやがる、冗談じゃねえぞ! 誰が育ててやったと思ってんだ!

 俺が引き取らなきゃ、テメェは二年前に野垂れ死んでたってことを忘れんなぁ!」


 無論、そんなことを義父が許すはずもなく薄い壁を突き破らんとする勢いで怒号をあげた。


「黙れっ! 私を育ててくれたのはおばあちゃんだ!

 お前は私とおばあちゃんの大切なものを燃やしたろくでなしだ!」


 セイラを止めようと立ち上がろうとした義父の頭を、アンソニーのブーツの厚底が踏みつける。


「大人しくしてなよ、契約の有無を決めるのは依頼者自身だ。他人の入れ知恵や圧力に邪魔なんかさせない」


「どけ! テメェらどうせ人殺ししかできねぇようなクズ共だろうが! 騎士団に突き出してやる!」


 怒りのあまり、頭に血を登らせた義父と彼を踏みつけるアンソニー。それから不敵に笑うヘルの視線の先で、セイラの血まみれの指が契約書に印を押した。

 契約成立を手の届く距離で見届けたクロウは、ゆっくり契約書から指を離すセイラだけをジッと見つめながら淡々と口を動かす。


「そいつの身包み剥いで外に出せ」


 冷たく言い放たれたその指示にアンソニーもヘルも「りょーかい」と頷くや否や、抵抗する義父の服を一枚残らず剥ぎ取り、力尽くで家の外に連れ出した。

 「やめてくれ」、「助けてくれ」。そんな叫びと共に連れ出される義父を見送り、部屋の中に残ったのは床に膝をつくセイラと彼女の目の前に立つクロウのたった二人。

 義父の怒鳴り声で騒がしかった室内も、先ほどまでが嘘のように静まり返ってしまっていた。


「行くよ」


 ようやく一息ついていたセイラから契約書を受け取ったクロウが、すぐにセイラの髪を掴んで家の外まで軽い体を強引に引きずる。


「ちょ、ちょっと待って」


 抵抗しようとしてみるも義父を突き飛ばした怪力に、ろくな食事もとっていないセイラがかなうはずもないし、投げかけた言葉には例のごとく耳を貸してくれない。

 クロウに引きずられるがまま破壊された玄関を出たセイラ。

 彼女の目に飛び込んできたのは、帰ってくるときはなかったはずの地面に打ち込まれた木の柱にロープで縛られた義父の醜い姿。


「テメェ、覚えてろよ! 恩を仇で返しやがって!」


 威勢よく放った義父の声も寒さに震えている。

 着こんでいても震えるような寒さだ、全裸で雪の降りしきる外に縛り付けられて寒くないはずがない。


「覚えてろよ何も、テメェにゃ後も先もねぇんだよ!」


 そういって脇でスコップを持っていたヘルが、スコップの皿いっぱいにのせた雪を義父の肌にぶつける。


「冷たっ!」


 もう一発、今度は逆側からアンソニーがスコップにのせた雪をぶつけた。


「アハハハハハ、愉快すぎて寒さも吹っ飛ぶよ」


 鼻水もよだれも次第に凍てついていき、極限の寒さの中で唇を真っ青に染める義父。

 彼の醜い姿がこの上ないほど愉快だったのだろう、脇から雪をぶつけるアンソニーとヘルは彼が声を上げる度に笑い転げていた。


「二年間、私を育ててくれた義理の父がこんな姿になってるのを見て、あの二人と同じように愉快な気持ちになってしまう私は人でなしなんでしょうか」


 「ざまあみろ」。今にも口から飛び出してきそうな言葉を抑え込み、家の前で立ち上がったセイラはクロウに問いかける。

 しかしクロウは答える素振りすら見せず、セイラの腕を掴んで停めてあった馬車の中に彼女を叩き込む。


「痛っ、あのこれは」

 

「お前を娼館に売り飛ばす、報酬はその金で貰う」


「娼館? まさか私の全てをお金にって、娼婦になれってことなんですか!」


 顔を真っ青にしたセイラの叫びに、クロウは黙って頷いた。


「そんなの話が違います!」


 確かに「全てを金に換える」とは聞いたが、娼館に売られるという発想がなかったんだろう。

 慌てて馬車を降りようとするが、クロウの拳が彼女をさらに馬車の奥へ蹴り飛ばす。


「うぅ」


 義父よりも強い力で蹴飛ばされ、容易く飛ばされた華奢な全身を襲う痛みに、セイラは悶えた。

 だが、彼女の口から漏れる声を踏み潰すようにクロウの背後から声が響く。


「冗談じゃねえ! そいつは俺の娘だ! そいつを売った金は俺のもんだ!」


 青白い唇を一生懸命動かして怒鳴る義父の声を耳に入れたセイラの頭を戦慄が走った。


「そいつは若いし、兄貴の嫁に似て顔も上出来だ! 金になる!」


 何故、自分の生活もままならなかった義父がセイラを引き取ったのか。

 きっとそれは最後の良心に違いないとセイラは信じていた。いや、信じたかった。


「女になるまで待ってたんだよ! 俺が先にそいつを売るって決めてたんだよ!」


 セイラの中に微かに残っていた希望すら淡く消え去り、同行の開ききった彼女の口がじんわりと開き始める。


「……して」


 娘を売った金は親である自分のものだと、必死に主張する義父の声にかき消されてしまったセイラの声。

 だがそんな穢れた言葉にも、降り続く雪にも、決して消すことのできないセイラの怨みの炎が高々と火柱を立てる。


「私はどうなったっていい! お願い、そいつを……そのクズを殺してぇ!」


 覚悟を決めたセイラの雄たけびが、義父の声をかき消した。


「分かってる、契約は絶対に果たす」


 そう言うとクロウは腰にぶら下げていた鞘から剣を抜き取った。

 クロウの手に引かれ、黒い鞘の中から姿を現したのは、血液のそれを遥かに凌駕する深い紅色の刃。


 木の柱に縛り付けた義父のもとへ眉一つ動かさないまま歩み寄るクロウ。

 手に握られた剣の刃の表面を、月明かりに照らされた光沢が艶めかしくうごめく。

 一歩、また一歩と歩み寄ってくるその様を義父の目から見れば、クロウの姿はまさに恐怖そのもの。


 怯えからか、寒さからか、ガタガタ震える彼の首に紅色の刃が突き付けられた。


「やめろ、やめてくれ」


 最も恐ろしいのは、人間の命乞いを聞きながら刃を首にジワジワ食い込ませていく精神力。

 頑丈なのか、それとも壊れているのか。

 どちらにせや異常な精神の持ち主、クロウの握る剣の刃が動きを止めることはない。


「助けてっ、なんでもするから」


 凄まじい切れ味の刃は肉を引き裂き、出血量も痛みも段々増していく。

 喉も刃に潰され、声の出せなくなった義父はただただ激痛に足を全身をジタバタさせた。

 その姿すら、クロウの脇にいる二人にとっては笑い話の種なんだろう。

 二人はニヤニヤしながら、苦しむ義父をただただ見つめていた。


 ジワジワと痛みを浴びせながら進んでいた刃は、遂に最後の皮膚一枚を切り裂く。

 肉体とのつながりを全て失った義父の首は雪の降り積もる地面に落ち、セイラに凝視されながら彼は絶命した。


「ざまあみろ、あはは……あはははははっ!」


 理性を失い、大きな笑い声をあげるセイラ。

 彼女の乗る荷台の扉は音を立てて閉ざされ、夜空の下に汚れた笑い声をまき散らしながらセイラを乗せた馬車は娼館へ旅立った。


 *


 その後のことは想像に難くない。

 娼婦となったセイラは様々な男に抱かれ、体を穢され続けた。


「おう、テメェいつかのマッチ売りじゃねえか」


 一年ぶりに会うクロウを前に言葉を失っていたセイラの背をポンと叩き、嬉しそうにはしゃいだのはヘル。


「実はあの娼館の下宿先に行ったらもぬけの殻でよ、聞けば少し前に騎士団に摘発されて潰れたっていうじゃねえか」


 嬉々とするヘルはまるで友人のようにセイラの肩を組み、ベラベラ唾を飛ばしながら話す。


「テメェもそん時に逃げ延びたクチだろ? よかったじゃねえか、今何やってんだ?」


「今はその、料理長に拾ってもらって食堂で料理番の見習いを」


「おお、良かったじゃねえか婆さんもきっと喜んでるぜ」


「なんでそれを」


 突拍子もなく出てきたヘルの言葉にセイラは思わず驚いた。

 祖母と暮らしているとき、料理上手な祖母のようになりたいと口癖のように言っていたのは事実なのだが、殺し屋がそれを知っているはずない。

 そう思っていたセイラから一旦離れたヘルが、口もとをニヤつかせながら本を差し出した。


「ほら、こいつは落書きがあって売り物になんなかったから返してやるよ」


「この本……」


 セイラをさらに驚かせたのは、ヘルの取り出したその本。

 忘れもしないその拍子は、クロウ達が家に押し掛けてきた時に義父から取り上げて抱きかかえていた、祖母との思い出が詰まったあの本だったのだ。

 思わぬ贈り物に、ヘルから本を受け取ったセイラの顔がほころぶ。


「他の本も全部料理本だったぜ、婆さんも料理好きだったんだろ?」


「はい、凄く料理上手で……いつも私には料理が上手なお嫁さんになってほしいって言ってくれてて……」


「生きててよかったろ?」


 ヘルのその言葉にセイラは本を抱きながら深く頷いた。


「これを渡しにわざわざ?」


「それだけじゃねえよ」


 すると今度は、さっきからジッとセイラを見つめていたクロウが中身がパンパンに詰まった袋を差し出す。


「これは?」


 クロウから受け取った袋の中身を見てみると、そこには袋いっぱいの銅貨。中には銀貨も三枚四枚ほど見えた。


「お前、思ったより値段ついたから……お釣り」


 手に持っていたマッチ箱もセイラの手に乗せ、クロウは彼女を横切って歩き去る。

 

「ありがとう、ございます」


 振り向いて軽く頭を下げてはみるが、もうクロウの視界にセイラの姿は微塵も映っていない。


「また相談がありゃ、アタシら“歪み天秤の会”が聞いてやるよ。そんじゃあ達者でな」


「ありがとうございます」


 そう言ってヘルもクロウの背を追うように歩き出した。

 セイラにとってクロウとの出会いは、嫌な思い出の部類に入る。


 彼女と出会ってしまったばかりに、セイラの理性は一度崩壊してしまった。

 彼女と出会ってしまったばかりに、セイラの処女は肉欲にまみれた汚い男どもに奪われた。

 だけど彼女と出会わなければ、セイラは雪の降る街の中で醜く死んでしまっていた。


(あの人は関わってはいけない悪人、あの人と出会ってしまったばかりに私は全てを奪わた)


 クロウ達から受け取った本と金とマッチ箱を抱えるセイラの両腕が少し力む。


(でも私は…………生きてる)


 人々が行き交う街の中に姿を溶かした二人の悪人に、セイラは深々と頭を下げた。


 *


 ――――三年前。

 一人の老婆は、温かい暖炉の前で知人の老婆に言った。


「この本にね、文字を書いてほしいんだ」


 すると知人の老婆は快く頷く。


「いいよいいよ、でもお前さんもお孫さんも文字なんか読めないだろう」


「うちのセイラちゃんは利口な子だからねぇ、私には読めないけどいつかきっと文字も読んでくれるよ」


「それで、なんて書いてほしいんだい?」


 羽根筆の先に黒いインクをつけた老婆が、文字を書いてほしいと頼んだ老婆に問いかけながら本の一番最初の何も書かれていないページを開いた。



「セイラちゃんへ、あなたが料理上手なお嫁さんになって優しい旦那さんと幸せに暮らすのを、おばあちゃんは心から祈ってます」



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