余談:断髪
壁ができた直後の小話です。
壁ができた。国が東西に分かたれた。
嘘だと思いつつ、紬は、昨日、彼とまた明日と言って別れた通りへ行った。
無情な赤い壁が立ちはだかる。彼女はそれにそっと手を当てて、押してみた。当然びくともせず、その壁は揺るぎなく立っている。
この壁の向こうには大切な人がいる。紬は壁の東側に、その人は壁の西側に、分かたれてしまった。幼いころからずっと一緒だったから、そのまま大人になって、結婚して、共に老いていくのだろうとぼんやり思っていたのに。
気が付いたら、紬の目からは涙がこぼれていた。右手を壁について、ぽろぽろと涙を流す。
紬の家から彼の――駿の家まで徒歩十分。たった十分の距離が、けれど今ではずっと届かなくて。
何でなのだろう。何でここで分かたれてしまったのだろう。あと少しだけこの壁が東に、あるいは西に寄ってくれてさえいれば、こんなに悲しくて、苦しくて、つらい気持ちをせずに済んだのに。
「駿くん――」
この壁の向こうにいる、大切な人の名前を紡ぐ。決してこの声は届くことはない。
昨日の帰り道、彼は永遠を誓ってくれた。ぎこちない言葉で、けれど万感の想いをこめて、永遠を誓ってくれたのに、今となってはその思い出も空しい。
あんなに温かくて、ほっとできて、安心できる、そんな場所を失ってしまったのだ。今はどんな想いも空しい。
何分か何十分か分からないけれど、紬は壁の脇に佇んでいた。立ちはだかる壁は、本当の高さよりもずっと高く見えた。これを乗り越えることなんてできない。事実上、彼とは国が分かたれてしまったのだから。
生まれて初めて絶望という感情を抱きながら、とぼとぼと紬は家路についた。
この世の全てが失われてしまったような表情をして帰ってきた紬に対して、紬の母は何も言わずにドアを開けてくれた。紬は靴を脱ぐと、そのまま階段を上って自分の部屋に閉じこもってしまう。
彼女の部屋には等身大の鏡があった。ほんの昨日までは、この鏡を見ながら、ちゃんと制服は可愛く着こなせているか、今日の髪型はどうしようか、どうしたら駿が喜んでくれるかと考えながら髪を結い制服に袖を通したものだ。けれど、今はもうその必要はない。だっていちばん見てほしい人がいないのだから。
そのことに気づくと、彼女は衝動的に鏡を拳で叩いていた。けれど、非力な彼女では傷をつけることもできない。
一体自分は何をしているのだろう。鏡を壊したら駿と会えるとでも言うのか。力なく笑いながら、自分が何もできない、ただの小娘である事実を呪った。
しょっちゅう髪型を変えていたのは、どんな髪型がいちばん駿を喜ばせることができるかを知るためだった。けれど、今では伸びた髪を整えるのもうっとうしい。
紬は勉強机の上に置いてある鋏を手に取った。どこにでもあるような安物の鋏だ。鏡を見ながら、ためらいなく髪の毛に鋏を入れた。
ざくざくと、髪の毛が切り離されていく。毛先の整ってない、変な髪型になっていくのを、紬は鏡を通して無感動に見つめていた。
髪は女の命だという。それならば、壁によって半身を切り落とされてしまったら、髪も半分切り落とすしかないじゃない。
切り終るころには、妙にすっきりした気分になった。なんとなく、身体が軽い気分だ。
床にちらばった髪の毛を見ながら、紬は妙な達成感を感じていた。
そうだ。彼に再び会うその日までは髪を長くする必要はない。失った半身を取り戻すまでは、命も半分。いつかきっと会えるはずだから。
彼と誓ったのは永遠だ。そうであれば、必ず彼とは再会できる。彼が東に来てくれるのか、自分が西に行くのかは分からないけれど、想い続ければきっと叶う。
もし、再会した時に、彼には既に他の大切な人がいたら?上等だ。その時は奪い返すまでなのだ。先に彼と永遠を誓ったのはこっちで、だから彼は自分のものなのだから。彼と添い遂げるのは紬でなくてはいけないのだから。
だから、それまでに、自分も彼にまた好きになってもらえるような人間にならなくちゃいけない。
勉強を頑張ろう。もし親の庇護を捨て西に行くのなら、勉強ができなくちゃいけない。勉強をして、好きなものを見つけて、自分だけの何かを手に入れて。そうしたら、きっと、彼と再び会った時、胸を張って自分を主張できる。好きだと言える。
そしたら――お互いがどんな状況だったとしても、きっと駿は振り向いてくれる。手を取って、共に永遠を歩んでくれる。
片翼をもがれた今を楽しむことはきっとできないだろうけど。
それでも、祈るような気持ちで前を向く。




