分断
中学一年生だった時には全く知らなかった。
大人も、きっと子供が知る必要がないと考えていたに違いない。
中学生にもなれば子供じゃないと主張する。けれど、大人は、だから子供なんだよと取り合わない。
だから、彼らは何も知らなかった。
あの壁が分断するまでは。
「駿くん」
きゃらきゃらと笑いながら声をかけてきた少女に、彼は目を会わせなかった。何となく、気恥かしくて、目を合わせることができない。
「紬はいつも元気そうだな」
紬はにこにこ笑いながら駿の手を取る。彼女の手は小さくてほっそりしていて、温かい。
「誰かに見られていたらどうするんだ」
そう言いながら駿は振り払うことはせず、軽く握り返した。
紬は嬉しそうに笑いながら、駿の横に並んだ。
紬は少し長い髪の毛の結び方をしょっちゅう変えている。昨日は確か櫛を通しただけの何も結ばない髪型だった。けれど、今日はポニーテールに結っていて、彼女が歩くたびに髪の房が小さく揺れた。
しょっちゅう髪型を変えるようになったのは、付き合い始めてからだ。一度、何でか理由を訊いたことがあったが、彼女は頬を紅潮させて、「秘密」と答えただけだった。
「駿くんはこの前の中間どうだった?私ね、今日は数学と英語が帰ってきたよ」
「俺のクラスは国語と理科だな。どっちもまずまずって感じかな」
「駿くんのまずまずは私の超できたって感じなんだよなぁ」
はぁ、とため息をつくと、しかし紬はすぐにけろりとした表情で尋ねた。
「で、何点だったの?」」
「国語が九十八点、理科は九十四点」
ほー、と紬は感心したように息を吐いた。
「思ってた以上にすごい」
「で、お前はいくつだったんだ?」
「数学が四十三点、英語は六十七点」
「……思ってた以上にひどい」
紬はつないでいた手を乱暴に振りほどいて、駿から顔を背けた。心なしか、頬が膨らんでいるようだ。
「駿くんと違って頭のできがわるいですからねー」
「そこらへん昔から変わってないよな」
「ひどい!」
紬は軽く駿の肩を殴った。それに対して、駿はいたずらっぽい笑みを浮かべているだけだった。
「いいの、私は勉強できなくても。養ってくれるでしょ?」
「ばっ……」
紬の大胆な言葉に、駿は顔を真っ赤にした。そして、彼女から目を話すと、心なしか俯き加減になる。
駿の反応に、紬はしばらく目をきょとんとしていたが、やがて自分が言った言葉の意味が分かったらしく、駿と同じように頬を紅潮させていた。
「あの、えと……」
「お前はこれ以上喋るな」
あまり長くない前髪をひっぱりながら駿はぶっきらぼうに言った。
考えなしに喋るから、こういう恥ずかしいことになるのだ。馬鹿だなぁ、と思ったけれど、それを口に出さないのは、紬を怒らせたくないからだった。それに、そういったところも可愛らしく思えてしまうのは、きっと惚れた者の弱みということだろう。
「うん……」
紬は両手でスクールバッグを持ちながら俯いていた。駿からは、彼女の真っ赤になった耳が見えた。
こういったことで、いちいち恥ずかしがって、目も合わせられなくなるような娘だから愛おしいのだ。
「……まぁ、お前とは昔からずっと一緒だったからな。これからもずっと一緒だろ」
駿はそっぽを向いたままで、あまり大きくない声だった。
「……ずっと?」
紬は顔を上げる。
「ああ」
「私がおばさんになっても?おばあちゃんになっても?」
「そうだな。どっちかが死ぬまで、そしてどっちともが死んだ後も一緒だ。ずっとずっと、永遠に一緒だ。共に、永遠を戴こう」
何というか、劇の科白みたいになってしまって、ほんの少しだけ駿は恥ずかしかった。けれど、それ以上に紬への想いでいっぱいいっぱいだった。言葉にすると嘘みたいで、けれど、言葉にしないと伝わらない。たとえ、嘘みたいな言葉でも、きっと紬には届くはずだ。なぜなら、これが駿の本当だったから。
「……そっか」
紬は駿の方を見ずに、それでも右手は何かを探し求めるように宙をさまよった。駿はそれをちらりと見ると、左手で捕まえた。
「えへ……」
ぎゅっと握った手からは温くて心地よいものが感じられた。
「また明日」
いつも別れる大通りのところで、紬はめいっぱい右手を振った。
「ああ、また明日」
彼は軽く手を上げて、少しだけ名残惜しそうに視線を残しながら、大通りを渡った。
また明日、という約束が果たされないことを、このとき二人は知らなかった。
寝て、起きて、駿はベッドから身を起こすと、いつもの通り、階下の居間に顔を出す。
居間では呆然としてテレビを見ている両親の姿があった。この時間まで父親が家にいるのは珍しい。いつもはもっと早く家を出ているはずだった。
「どうした?」
「これ……」
母親が指差していたのはテレビだった。朝のこの時間帯はいつもニュースをつけていて、この日もニュースをやっていた。
リポーターの人がマイクを持って何かをまくしたてている。その人がいるのは赤い壁のすぐ横だった。
あまりにも早口で興奮していて、リポーターが何を言っているのか寝起きで少々ぼけている駿にはよくは聞き取れない。
カメラの視界が転じた。少し広い視野からその壁を移そうとしているようだった。
「これは……」
駿は言葉を失う。見慣れた風景だった。
昨日、いや、いつも学校の帰り道に紬と別れる道に、高くて延々と続く赤い壁が横たわっていた。
「……我が国は東西に分断されたのです!ご存知の通り、政府は二つに分裂していました!その結果がこれです!」
テレビから出てくる言葉を音声として捉えながら、駿はがくっと膝をついた。
また明日。紬とのそんな約束は果たされないことが分かった。