リバーサイド・アドレッセンス
突然だけれど、ここでクイズ。
3色のライトが横に並ぶ信号機の、向かって一番右端の色は、青である。
マルか、バツか。
即答できるひとってのは、なかなかいないもので、大抵が記憶を手繰りよせようとして、意外にも、鮮明に覚えられていないことに気がつく。
毎日見ているのに。いやというほど、見ているのに。なぜ。
簡単な話。
興味が、無いからだ。
*
「こういうのって、マジにあるんだー……」
思わず声が出た。
一昨日までの降雨が置いていった水溜まりに、見慣れた靴下が1足。全体に泥水が行き渡るよう、丁寧にとっぷり浸っている。
嫌がらせじゃん、これ。
中指と親指でそれをつまみ上げ、くるりと後ろを振り返る。
グラウンドを追い出された弱小部のおれらが、毎日放課後に使っている河川敷のサッカーコート。砂も芝も、川面も、鉄橋も。灰紫色に沈みかけている夕景のなか、もう近くには誰も残っていなかった。
まあ、そうだろうなとは、思う。
考えてみれば練習後のジャグ当番を急遽押しつけられたのが、既に予兆だった気もする。鉄橋の向こう側の水道まで行って帰ってくるあいだに、荷物を漁り、着替えから靴下を引っ張り出し、ここにドボンとするなんて、簡単な話だ。
「あれ」
つーことは。
「犯人、あいつじゃね」
爽やかに、人懐っこく、おれに当番頼んできたあいつ。申し訳なさそうに、明日はやるからと頭を下げたあいつ。おれが戻ってきたときには既に帰ってしまっていたあいつ。
我らがイレブンのキャプテンにして、大黒柱。
古河龍之介。
まじか。
「消臭スプレー買って帰ろ」
汗臭い裸足のまま履いたローファーをかぽかぽ鳴らし、ひとりごちた。
そうして初めて、おれは、古河の姿形がはっきりと思い出せないことに気がついたのだった。
どんな顔してたっけ。あいつ。
他人に恨まれるような生き方はしてこなかったつもりだ。
『遠見将貴』は、運動部の花形サッカー部に籍を置いていながら、いまひとつ、学校生活に彩りが不足しているような男でーー自分で言うと虚しい気もするがーー事実、部活動ではレギュラーとベンチを行ったり来たり、勉強では定期試験を赤点スレスレで乗り切ったり切らなかったり。そんなものだ。
「キャップの機嫌損ねるようなことしたっけな」
していない。おそらく。
試合で大活躍というわけにはいかないが、目立ったミスもしていないし、連携プレーだって及第点でこなしている。
クラスも、違う。
爽快スポーツマンで、明るく楽しい人気者のあいつ。つまるところ、一匹狼よろしく集団からはぐれ気味のおれとは、まるで違う場所に住んでいるのだ。古河という、男は。
一体、何を考えているのか。
「うわあーあ」
水溜まりがすっかり干上がった次の日は、ローファーがくずかごにぶち込まれていた。
後輩がちらほら残ってはいたが、目撃情報を求めるのも面倒だった。それに、高校生になってまで現行犯で誰かに見つかるようなヘマはしないだろう。と、思う。
誰のものか分からないジュースの飲み残しで汚れたそれを、両手にひとつずつぶら下げ、靴下でアスファルトを踏みながら家まで歩いた。平らに見える道路が、意外にもイガイガと足裏に刺さるのが痛くて面白くて、ついつい口元がゆるんだ。
笑っていたような気がする。さっぱりと。マサ、昨日はさんきゅー。助かった。そっちの当番のとき代わるから。などと。今日も古河は終始かっこいいやつだった。たぶん。
おれはといえば、日がな、近くにいた人間と適当な世間話をして、安直にCDを貸す約束をして、凡俗に練習メニューをこなしていた。
だから。おお、特に用事もなかったし。持ちつ持たれつってことで。だとか。気の利かない定型文を吐いたんだった。確か。
なんというか、滑稽だ。
果たして、ノーリアクションを決め込んでいたら、驚くべきことに向こうから踏み入ってきた。
部活が午前中で終わる土曜日、家に向かって河川敷の土手を早足に歩いていたおれを、古河が捕まえにきたのだ。練習後に私物が移動する現象が始まって、6日目のことだった。
「マサ、最近元気なくね」
全然いつも通りだろ。
口に出そうになって、慌てて飲み込んだ。相手の思惑を汲み取って話を先に進めるのが、大人の対応ってやつだ。
隣を歩きながら神妙な面持ちの古河の盗み見る。横顔のずっと向こうに、パステルカラーの家々がずらりと並んでいる。派手だなあ。目立つなあ。
「マサ」
「ん、あ。元気ないように、見えんの」
「見える。どした? なんか悩み事? 俺でよけりゃ相談乗るよー、なんつって」
茶化すように語尾を軽く跳ねさせた言い方からは、悪意のにおいがちっともしてこない。役者になれる、このクオリティ。
「さすがキャップ。ベンチメンバーへの気遣いもできるイイ男」
「だろ? もっと褒めて」
「かっこいー」
「心こもってねーし!」
あはは。笑って、おれの左肩にげんこつを押しつける古河。
嫌がらせをしているのがこいつだという疑念を持っていなければ、まごうことなくイイ男だ。愛想が良くて、トークもうまい。気も回せるし、目だって届く。そのわりに、適度に馬鹿っぽくて嫌味がないから、それで誰からも好かれている。
そんな古河のことを、初めて知り合ったあの日から、気持ちが悪いと思っているおれは、きっと、性格がねじ曲がっているんだろう。
物事をななめに見る癖が、中学2年の頃から抜けきらない。人気者には絶対に裏があると、不信感を勝手に抱いては距離を取った。悪癖と呼べるのだろう、世間からすれば。
「じゃなくて、マサ、これ結構真面目な話」
「んー」
声音を変えて、古河が一歩、寄ってきた。同じくらいの幅で一歩、遠ざかってみる。
もう一歩、詰めてこられたので諦めた。
「悩み事ねえ……最近体重増えないことくらいしかないわ」
「マサ」
「いやほんとに。もうちょっとスタミナ欲しいじゃん。けどおれ、あんま食べないからさ」
なぜか、『実は悩み事があるものの友達を心配させまいと誤魔化す強がりな少年』の図になった。青春ドラマなら、ここで問い詰められたおれが最終的に本来の悩みを吐露するわけだが、生憎とその予定はない。
「おれ、元々テンション低めだから。普通に元気」
「ほんとか?」
「んー」
こっくり。頷くと、古河はどうも納得のいかないような顔をして、おれを睨んだ。眉間にしわを寄せ、唇を尖らせ、じっとりと視線を押しつけてくる。
それに気がつかないふりをして、僅かに歩みを早めた。古河は遅れずについてくる。
あっれ。と、思った。
目に映したばかりの古河の顔が、やっぱり、思い出せない。
不機嫌そうではあった。それは、分かっている。なのに、思い出せない。ぼんやりと、輪郭だけが脳裏に残っている。
あっれえ。
早足のまま、沈黙が続いた。
ちりちり、りりん。ベルを鳴らした自転車に追い越され、土手のふもとにいた子どもたちがこちらを見上げた。
おれと古河のあいだに言葉は無く、それでも絶えず何かの音が耳に流れ込んできては隣の男の存在を薄めていくから、徐々に近づく鉄橋の上を電車が走り抜けたその瞬間に、古河が、消えてくれるような、気がして。
来い、電車。
はやく、はやく。
うるさく騒ぎ立てて、おれのそばから、こいつを、追い払ってくれ。
むくむく膨らむ古河の存在感が、おれのことを責めるんだ。それで胃がきりきり痛むから、なんとかして治めたいわけで、晩御飯、好物のとんかつを美味しく食べたい、おれの心持ちを分かってくれ。
市街地から電車が頭を覗かせる。あっという間に鉄橋へ、滑るように、素早く。
たたん、たたん、たたん。
他のすべてを押し潰すほどの音を轟かせて、はやく、はやく、走っていく。
「将貴!」
古河の声は、耳に鋭く響いた。
鮮烈に、突き刺さる。
それなのに、おれは、おまえの顔が見えないよ。
やめろ。やめてくれ。
「将貴は、俺のこと……嫌いだったりするでしょ」
電車は、いなくなってしまった。
いやに静まり返った河川敷、土手の上。数歩後ろで古河は、エナメルバッグの肩掛けを握りまっすぐにおれを見ている。
おれ、どんな顔してんのかな。
「すきでもきらいでもないよ」
古河の両の目だけが、揺らいで不鮮明な顔の真ん中で、ぎらぎらと、燃えている。
おれには、熱すぎる、くらいに。
「じゃあな」
冷めてんなー、と。よく言われる。自覚もある。
仲間内でワッと盛り上がったとき、ひとりだけ、ついていかないせいで、どうしても固定のメンバーとつるむという行動がとれずにいる。
理由は明確で、されど改善しろと言われたからできるものではなく。
ぼっち、と嘲笑われるほど孤独でもないので、放っている。
果たして、日曜日を挟み、嫌がらせ被害1週間達成記念日。
「これ地味に困るやつだ」
ベルトが失くなった。
犯人も1日間の休みに色々考えたらしい。今度は物品が、移動ではなく隠匿された。
「歩きづっらい」
足を動かすたび、エナメルバッグが尻にぼすんぼすん当たり、そのせいで制服のズボンがずり下がる。
立ち止まり、引き上げ、歩いて、また立ち止まり、引き上げ、歩く。
相当、面倒くさい。
悪戦苦闘しながらの家路は、しかし、さらなる障害物に阻まれた。
はじめは、気がつかなかった。夕闇に同化した鉄橋の影のなか。息を殺すように佇んでいたからだ。
「マサ」
名前を呼ばれ、声の主の居場所を探した。
なんてことはない、5メートルほど前方に、古河が立っていた。
もう少し早く気がついていれば、忘れ物をしたふりでもして逆方向に走って撒けたのに。などと考える。
いや、このズボンじゃあ結局、無理か。
歩みを止めずに、古河に問う。
「どうしたよキャップ。もう帰ったんじゃなかったの」
ふるふる。首が横に振られた。
「なら、おれのベルト返しにでも来てくれたの」
「違う」
「あ、そー」
じゃあ特に重要な用事は無し、と。
左手でスラックスのウエストを持ちながら、半身で古河をよけ、すれ違う。鉄橋がつくった黒々とした日陰に足を踏み入れた、そのとき。
物凄い力で左腕を掴まれた。
「やっぱりおまえ、わかってたんじゃねーか」
「ちょっ、待っ、パンツ! パンツ見えるから!」
怒りを隠そうと、低く、押し潰された声に、おれの素っ頓狂な声が重なり不協和音が鳴った。
取られた腕を取り返そうともがく。古河の指が肌を、肉を圧迫して、骨が軋んだ。痛い。痛いのはどうでもいい、それよりも往来で露出して世間に迷惑をかけるのがいやだ。
「犯人が、俺だって、とっくに分かってたんだろ」
「パンツ見えるって言ってんじゃん、ね、放してくんない」
噛み合わない会話に、古河が目を吊り上げるのが見えた。
どれだけ怒ってもいいから離してほしい。さすがにそろそろまずい。腰骨を抜けたらあとはストーン、だ。
「答えろよ、将貴!」
「そんなどうでもいいこと耳元で怒鳴んないで、至急、手、放して。マジにやばい」
なるべく身体を揺すらないように、しかし最大限に抵抗の意を示して左手をぐっぱ、ぐっぱ、握ったり開いたりする。
急に、拘束がゆるんだ。
解放された左腕には、白く細長い跡が5本、くっきりと浮かび上がって古河の力の強さを主張していた。あるいは、怒りの激しさか。
「ふう、ギリギリ」
足元まで落ちる寸前だったウエストを所定の位置に戻して、大きく息をつく。すると、熊みたいな、低い唸りが聞こえた。
古河だ。
「……っだよ、それ」
うつむきがちで、表情が読めない。
「え、なんか言った」
「俺がおまえに嫌がらせしてるってのが、どうでも……いいこと?」
言葉の端々が震えて、裏返っていた。
勢いよく顔が上がる。瞳孔をかっ開いた古河が、距離感を考えずに足を踏み込んできた。ので、かわして、2歩後ろへ。
あ、やばい。
間に合わない。
ぐんと身体が近づき、
「わ、っと、!」
どの足とどの足だったか、もつれ、景色が回り、頭同士が、があん、音を立てぶつかって、古河はとんでもない石頭で、まぶたの裏に星が飛ぶって本当だったのか、だとか、考えて。
後頭部にどでかい衝撃が走った。
「、つぅ……っ!」
次いで背中、肩、痛みが走り、全身の力が抜けて崩れ落ちた。最後に尻と手の平に、土の湿った感触が残る。
鉄橋を支えるコンクリートの柱に背面から激突したのだと、状況をようやっと飲み込んだ瞬間に、乱暴に襟元を掴み上げられ、呼吸が止まった。
すぐ目の前に、古河の顔がある。
あるのに、よく、見えない。
暗いせいかも、しれない。
きっと、そうだ。
「ふざけんな!!!」
怒号が耳に、きーん、と反響した。
「練習のたびに着替えだめにされて、迷惑で、不安で、惨めだろ!」
「犯人分かったら、そいつ懲らしめてやろう、顧問や友達にチクってやろうって、考えるだろ!」
まるで、機関銃だ。
「なんで、おまえは!!!」
古河が怒鳴るところ、初めて見たなあ。がんがん痛む頭には、呑気な文言が並ぶ。それが表情に出てしまったのか、さらに襟元を締め上げられ、意図せず小さな呻きが漏れた。
うなじにワイシャツの襟が食い込んで、喉が詰まるように感じた。呼吸が浅くなる。
薄暗いなかで、これでもかと見開かれた古河の両目だけが、ちかちかと眩しい。痛いくらいに。
「こが、め、かわくよ」
「!!!」
ブチィッ。何かが切れる音が聞こえたかと錯覚するくらい、古河の顔つきが変わって、手加減なしの勢いで、おれの頭はコンクリート柱に打ちつけられた。
頭蓋骨、割れそう。
「ゔ……っえ」
吐き気とめまいが、腹の底からせり上がってきて、舌の付け根が酸っぱくなった。
「こんだけ痛い目に合わされて、まだそうやって余裕ぶってられんのか」
「おまえ、どっかぶっ壊れてるよ」
ありったけの侮蔑が込められた言葉だった。
あ、ああ。
古河。
違うんだ。
壊れてるんじゃないんだ。
おれさ。
自分にも、他人にも。
興味が持てなくて、どうしようもないだけなんだ。
「こが」
「うざいんだよ、おまえ」
「あの、さ」
「むかつくんだよ、目障りなんだよ」
「あの……っ、さ」
「俺はこんなに、はみ出ねーように我慢してんのに、キャラつくって自分抑えて、やってんのに」
「こ、……っ!」
「やりたくねーキャプテンだって、てめーらみんなして俺が適任だっつーから必死になってやってんだよ、顔色見て機嫌伺って、勝つ楽しみが少ねー部だから全員練習がいやになんねーようにさあ、俺がどんだけ苦労してると思ってんだよ」
「……っ、……」
「それなのにおまえは、おまえはいっつもいっつも好き勝手して誰の気分悪くしようと誰の気分良くしようと自分には関係無えみてーな顔で、レギュラーにはこだわんねーのに無気力でもねえ、練習終わりに満足げな顔して自分の当番だけこなして誰ともつるまず縛られず」
「……、……!」
「明らかに輪から外れてんのに、だあれもおまえのこと嫌ってねーんだぜ? いいよなあ気楽で幸せで? いい加減にしろよ……いい加減にしてくれよ!!! 俺が、俺は!!!」
連なる言葉の数と比例して強まる力に、襟が顎を押し上げ首が絞まり、息ができなくなる。
苦しい。痛い。
目尻が熱を持つ。涙が視界を揺らすのが邪魔で、まぶたを強く降ろして振り払った。
古河。
「息できなくて苦しいんだろ。声も出なくて、怖いだろ。なあ将貴。『お願いします放してください』って、言ってみろよ。自分の命のために、死に物狂いで俺に頼んでみろよ、なあ」
乱暴な吐息が、鼻先にぶつけられる。煽るように揺さぶられ、一瞬だけ、酸素が気道に吸い込まれた。
おれは唐突に、分かって、しまった。
古河。
古河、おまえ。
おまえさ。
「ぉ……れ、こと…………うらやま、し、んだろ」
古河が、身体全部でびくりと震えた。掴まれていたシャツが急に解放され、重力と新鮮な空気が、どっと全身にのしかかってきた。
大きく肩を弾ませながら、喘ぐように言葉を繋げる。
「おれが……うらやま、しくて、仕方なく、て…………んで……おれ、が、他人に怯えて、機嫌、とるとこ見たくて……嫌がらせ、した……んだろ」
風が涙を攫っていく。徐々に視界がくっきりと輪郭を取り戻し始める。
笑みがこぼれた。
リーダーシップも、人気も、あって。大人からも子どもからも、信頼されて。適度な欠点のおかげでたくさん、愛されて。
まるでプログラミングされたような、気持ち悪いくらいに模範的な古河龍之介が。
自分より何百倍も格下で価値のない男に嫌がらせをしかけ、怒鳴り散らすくらい我を失った、その、理由が。
ただの、ちっぽけな、嫉妬だった。なんて。
「……ふ」
ああ、駄目だ。
これは、駄目だ。
二の句が継げずにいる古河がどんな顔をしているのか見るために、おれは、ゆっくり、目を開けた。
轟音が響き渡る。頭上の鉄橋を、電車が走り抜けていく。
たたん、たたん。たたん。
リズミカルで規則正しい音が世界を埋め尽くして。
その瞬間。
初めて、古河の顔が、はっきりと見えた。
両の手を、伸ばす。惚けているその顔を、そっと挟み込む。
「古河」
真っ黒な猫っ毛も、薄く日に焼けたにきびひとつ無い頬も、きれいに通った鼻筋も、よく見えた。
アーモンド型の目を縁取るまつげだって、本数を数えられてしまうくらい。本当に、よく、見えた。
驚いた。
「古河の顔、すっごいおれ好み」
僅かに開いた薄い唇が何かを言う前に、吸いついて、言葉を殺した。
まばたきもせず、ぱっちり開いた古河の目。ぼんやりと感じる頬の熱。つながった部分がとろけてしまいそうなほど、柔らかくて。
後ろから前へ走り抜けたのと入れ替わりで、次は、前から後ろへと振動が駆けていく。
たたん、たたん。たたん、たたん。
他の音を丸ごと奪っていってしまうから、世界に取り残されたような気で、ただ目の前の古河を存分に味わった。
にわかに電車が消え去って、静かなようでいて騒々しい世界が戻ってきた。
一拍。
「ん"っ、ん"ん"ーーーー!!!」
ばしぃん。
絶叫と同時に飛んできた平手に、頭を横方向へと突き飛ばされた。
触れていた熱が急に冷えて、あーあ、もったいない。
「っにしてんだよ死ね!!!」
最上級の罵声まで投げつけてきた古河が、般若のような形相でこちらを見下ろしていて、いやまあ、悪くないな、好きな顔のつくりだから、どんな表情でもそれなりに、いい。とか思った。
「あんまりこすると血出るよ、古河」
「てめーが気色悪ぃことするからだろうが!!! 死ね!!! マジで死ね!!!」
憤怒のあまりの涙なのか、羞恥極まっての涙なのか。まつげを濡らしながら、千切れるんじゃないかというほど滅茶苦茶に唇を手の甲で拭い続ける古河。
「泣いてんの」
「喋んな」
「泣くなよ」
「喋んなっつってんだろ」
おれから顔を背け、しゅんっと鼻をすする。さっきまで、あんなにカッカしていたのが嘘みたいに、古河はぐずぐず泣き出した。
「そんなにキスしたの、駄目だったか? まさか、初めて?」
「るっせえ……」
「なあ、ごめん。ごめんな古河。泣くなって」
「さわんな、放せ……っ」
ぼろぼろこぼれる涙を親指でのけてやっているのに、あまりにも嫌がって暴れるから、また動きが止まるかなと考えて唇の横に口づけをした。
ぶっ叩かれた。
「いった……」
ぴりぴり痛む頬をさする。同じところに2発だ。
どうしたものか。
この嫉妬深い怒りん坊をあやしてやるには、どうすればいいだろう。
考える。
はた、と。気がついた。
「古河、な、古河」
上体を起こし、ぽすぽすと肩を叩いて呼びかけた。
「おれ、古河に嫌われたくない。これからは古河の機嫌伺って生きてくから、それでいいだろ。おれが他人の目に怯えるとこが見たかったんだからさ、な。万事解決」
ぴたりと泣き止んだ古河の眉間に、深い深いしわが寄る。だから慌てて付け足した。
「ほんとだって。おれ、古河の顔、好きだし。古河に好かれたいから、なんでもしようって、いま思えたんだよ。ほんとに」
的を射ている話のはずなのに、表情がどうもよろしくない。
「あ、キスも、もうしないから」
「るっせーな!!!」
怒鳴った拍子に、残っていた最後の涙がころころっと落ちていくのが見えた。
ぶすっとした顔の、古河。
うん。
やっぱ、すんごい好みだな。
「にやついた顔で馬鹿みてーなこと抜かしてんじゃねーぞ。俺がそれで了解って引き下がるとでも思ってんのか」
「えっ、これじゃだめなの」
「駄目もクソもねーよ」
死ね、と吐き捨てられた。
そろそろ心が暴言に強くなってきた気がする。
「そうカタいこと言わずにさ、しばらく試してみろって。教えてくれよ。古河がされると嫌なこと、嬉しいこと」
「おまえが視界に入るのが嫌だ」
「なら、いつも後ろにいる」
「ふざけてんのか」
「大真面目に言ったんだけど」
ッチ。盛大な舌打ち。
思わず、笑ってしまった。
普段の古河なら、絶対に本気で苛立ったりしない。ましてや、それをあからさまに態度に出したりもしない。
バランスのとれた人格者である古河龍之介は、確かに彼の一部だ。それでも、こうして、くだらないことで激昂して突っかかってくる一面もあって、それは、とてつもなく人間臭く、愛らしい。そう思う。
ヤンキーみたいな言葉遣いで、悪口雑言繰り出され、なぜかおれは嬉しくて仕方がなくて。
大きなため息が降ってきた。
「もういいわ。会話にならねー」
「帰んの」
「帰る」
長い脚をひょいと持ち上げ、古河がおれの上から退いたから、ズボンに用心しつつ立ち上がる。変な姿勢で長いこと転がっていたせいで、腰や背中がミシミシ痛んだ。
斜め後ろ、古河の視界に入らないぎりぎりのところ。追いかけて歩く。
涼しい夕風が、襟や、袖口を揺らした。見れば、斜め前方では前髪が持ち上げられ、ふわふわ、空気に流されている。
そろりと手を伸ばして髪束の先を、人差し指と中指で、ちょい、と挟んでみた。
「おい」
「見えてない、古河が真正面向いてたらおれは見えてない」
「髪触られるの、嫌いだ」
「う」
渋々、手を引っ込める。挟むものが無くなった左手のはさみを開いたり閉じたり。
「将来ハゲそうな髪質だよな」
「この後に及んで俺に喧嘩売んのか、おまえ」
「でもおれは好きって話。最後まで聞けって、せっかちだな」
苛立ちまぎれの唸り声が聞こえた。
紫色に染まる、スラリとした後ろ姿。こんなに、身長高かったんだな。気がつかなかった。
知りたい。古河のことが知りたい。覆い隠されていて、いつもは見えない部分が知りたい。
おれの前でだけ、遠慮せずにいてくれたらいい。
もしかしたら。
好きなのが顔だけじゃ、ないかもしれない。
「なあ古河、おれのベルト返してよ」
こちらを振り返りもせず、両腕を頭の上で交差させて大きなバツをつくった古河がおかしくて、おれは、声を上げて笑った。
(了)