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私がパン屋を出てすぐ、顔を上げた先、目の前に見えた人に私は目を瞬いた。
「ニカ様、何で此処に……」
「また会いに行くと言っただろう」
「いや言いましたけど、昨日の今日ですよ。早過ぎでしょう」
おかしくて笑うとニカ様も一緒になって笑った。
私とニカ様は、何も言わなくても自然と私の家までの道を並んで歩き出した。それが、いつもの事だったから。
一つだけあるいつもと違う所は、後ろを付いて来る護衛達がもう辞めたあの二人では無く知らない顔な上、五人もの人数になっているという所か。あの二人の代わりを果たすにはこのぐらいの人数が必要なんだろう。
それ以外は全部いつも通り。そのはず、だ。
私は何故か早い心臓の音から思考を背けるように口を開く。
「リリちゃんって、あの後どうなりました?ニカ様なら知っていますよね?」
リリちゃんの話をするのは、私達にとっていつもの事だった。
「リリアナか……そうだな、どう言ったものか」
「え?ニカ様が返答に口籠るような良くない事態なんですか?!」
私はリリちゃんの自殺未遂の瞬間と暗い絶望に満ちた表情を思い出し、ニカ様に詰め寄る。
だけどニカ様は困った顔をしながらも哀しげな顔をしている訳では無かったから、すぐに平静を取り戻した。だいたいリリちゃんの現状が深刻なら、ニカ様も流石に今こんなに早く私に会いに来るよりリリちゃんを優先させているだろう。
「そうだな……今日の昼、リリアナに話を聞いた限りでは、結論として状況は何も変わっていない。だが、リリアナは変わった。セスも変わった。だから結末がどうあれ、もう私達が心配するような事にはならないだろう」
抽象的な言葉だったけど、私はニカ様が伝えようとした事を恐らく正確に感じ取った。そっか、と笑顔で頷く。
状況は変わっていない。それは、リリちゃんがセス様と婚約したままである事もそうだし、きっと二人の間柄が急速に進展した訳でも決してないという事だ。セス様の私への気持ちが今どうなのかまではわからないけど。
だけど、二人の考え方が変わった。見ている世界が変わって、進もうとする道も恐らく。なら大丈夫。私も、そう思う。
最終的に二人が別れる事になったとしても、傷つけ合う事があっても、大丈夫。リリちゃんもセス様も、大丈夫だ。
「私も詳しくは聞かなかったがな。とはいえあの二人も長い付き合いだ。私にはわからないような心情や絆もあるのだろう。疎遠になるような事は無さそうだ」
「……え?リリちゃんとセス様が、長い付き合い?」
私は言葉に引っ掛かり、ニカ様におうむ返しで聞く。
リリちゃんとセス様が長い付き合い。そんな情報は私の記憶の中の何処にも無い。前世でのゲームの中はもちろん、今世で十六年間生きて来た中にも。
そんな私の様子に、ニカ様はしみじみと私の顔を見る。
「フィーは本当にセスに関心が無かったんだな……」
「え?え?なんか私呆れられていません?」
「セスとリリアナは、フィーとセスが婚約する前から友人関係だ」
「え?え?!」
思わず大きな声が出た。
いや、だって、私がセス様と婚約したのはまだ五歳の頃だ。つまりリリちゃんとセス様は五歳になるよりさらに前から友人関係にあったという事になる。
「セスは我が儘で独裁的だからな、取り巻きはまだしも親しい友人はあまり居ない。セスにとってはリリアナは昔から一番の友人だった」
「何で私それ知らないんですか?!一応婚約者だったのですけど?!」
「私が聞きたいぐらいなんだが……大方、フィーは興味が無いからとセスに交友関係の質問をした事が無く、セスもセスで好きな相手に友人とはいえ女の話をしたくなかったといったところだろう」
成る程、なんて納得の行く理由だろう…!確かに当時の私は、セス様が勝手に話す自慢話やら我が儘な欲求やらにただにこにこしながら、話を聞いていないと思われない程度の適度な質問とか相槌とかしかしていませんでした!
セス様にしても、そりゃ聞かれてもいないのに婚約者に対して他の女の話はしないよね。もしかしたらリリちゃんの名前は出さずに友人と遊んだ話なんかはされたかもしれないけど、私にはセス様と交わした会話の記憶なんて全然残っていないので真相は闇の中だ。
「でもだからと言って、同じ社交界に出たりリリちゃんと挨拶したりした事はあるんですから、私普通気づきますよね?」
「そうだな、普通は」
「当時の私がいかに凝り固まった狭い視野で生きていたかを実感しました」
思えば、リリちゃんと初対面の時も私はレディロでリリちゃんの容姿を知っていたくせに、それより幼い容姿ではあるとはいえ、彼女から挨拶されるまで目の前に居るのがリリアナ・イノシーだと認識もしていなかった。他の貴族の子どもと同じように受け流しかけたところを名前を聞いて二度見して、それからまた何も知らないふりをしたんだよね。懐かしい記憶だ。
一方リリちゃんは、一目見た時から私を主人公だと確信したと言っていたっけ。
「……」
「……」
話が終わり、何だか落ち着かないくすぐったく気恥ずかしいような沈黙が流れる。
ニカ様と一緒に居て、かつてこんなにもそわそわと落ち着かなくなる沈黙なんてあっただろうか。昨日の王宮まで向かう馬車の中での沈黙とはまた種類が全く違うように感じる。なんだこれ。何でもいいから抜け出したい。何か次の話を振ろう。出来るだけ早急に。
「と、ところで話は変わるんですけど!ノラとナナちゃんの事、ニカ様も知っていたりしました?」
「……ノラン王子と、あの修道女の?いや、知らないな。言い方からして恋人なのか?」
「えー、いえそういう感じでは無くて、たぶん友達?なのかな?」
自分から話題を振ったくせに、私の返事は我ながら曖昧だ。まあ、沈黙が気まずくて慌てて出した話題なので仕方ないかもしれないが。
あの二人の関係はたぶん、ナナちゃんがノラの私へのプロポーズを全く気にしていないようだった事から見て、恋人ではなく友人……だと思う。隣国の王子と平民が何をどうして友人関係になったのかは不明だけど。
「男女の関係は本人達に任せておいた方がいい。フィーもあまり首を突っ込むなよ。私が心配だ」
「は、はい。善処します」
つい、善処はした、だけど出来なかったと後に言い訳をする為の返事をしてしまった。私はナナちゃんの事が大好きだから仕方ないね。うん。
……。
「……」
「……」
ど、どどどうしよう。また沈黙してしまった。
えーと、うーんと、エルの話は内緒だからいくらニカ様と言えどもする訳にはいかないし、ナナちゃんが赤ん坊の頃から記憶があるっていうのも私が勝手に話すのはどうかと思うし、エヴァン君とシェドとメルちゃんの話も一応私を好きと言ってくれている人の前でするのはどうかという話題ばかりな気がするし。
……え?ん?あれ?そうだ、ニカ様私の事好きなんだよね。それで私もニカ様が好き。両想い。
何考えてんだ今更。そんな事知っているだろう。いや、知っているよ?知っているけど、知っているからこそ、そんな相手と何を話したらいいかわかんないぞ?!私今までどうやってニカ様と話してたんだっけ?!
「どうした?」
「え、んん?!な、何がですか?!」
「いや、さっきから明らかに落ち着きが無いだろう。何か心配事でも?」
ニカ様の方が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。私は反射的に後退った。
「あ!今のはその、別に!違います!それであの、心配事というか、ただ本当に落ち着きが無いだけなのでご心配なさらず!」
何が違うのか、自分で言っていてちょっとよく理解出来ない。
ああ、パンが欲しい。状況を脱却する運命改変アイテム。私の救世主。しかしそれは夜ごはんとして既に皆で食べてしまったし、残念ながら今手持ちにパンは無い。私は今更、さっき売れ残ったパンをもらって来なかったのを後悔した。
あの感動の再会の空気の中、廃棄パンくださいと言い出す女はどうかと思うけど。
「……」
「……」
また沈黙が訪れる。しかも今回はニカ様が訝しげに私をじっと見ている。つまり状況が悪化している。私は汗をダラダラとかきながら、まだ見えない自分の家に、なんでまだ見えて来ないの?!と心の中でわかりやすく八つ当たりをした。
というか、ニカ様の言動からしてニカ様の方はこの沈黙をまるで気にしていないらしい。そしてたぶん今までの私だったら気にならなかった沈黙でもあっただろう。
これからニカ様が会いに来る度に、私が勝手に寿命を縮めるようなこの落ち着きのなさを味わいたくはない。ここは、こうなったら、女は度胸だ。
「今まで、まともに人を好きになった事が無かったんです!!」
私はこのそわそわした気持ちをかなぐり捨てるべく、本音をぶちまけた。
ニカ様はいきなりぶっちゃけ出した私をきょとんと見ている。
「だって、前はお兄ちゃんから逃げたいっていうのがずっと私の思想言動の根幹にあって、だけど逃げられないだろうっていう諦めもあって、恋愛なんてしている気持ちの余裕無かったんですよ!告白されたから付き合ってみた事はあったけど、その人を好きになる前にお兄ちゃんに全部壊されたし!お兄ちゃんの前じゃ私はどうせ何も手に入れられないし!」
ニカ様は今恐らく、私の今世では存在していないお兄ちゃんという存在に困惑している事だろう。そういえばプロポーズされた時にも一度兄と洩らしてしまった気がするけど。
ああでもいつか、私は前世の話もニカ様にはしてしまう気がする。それを言っても大丈夫だという信頼がある。
と、頭の中ではそこそこ冷静な一方で実際の私には残念ながら全く余裕がない。肩で息をし涙目で必死だ。
「つ、つまり、何が言いたいって、好きな人と二人きりな事にさっきから死ぬ程緊張しているんです……!」
叫ぶ事で熱を少し発散出来た私ははたと冷静になり、なってしまい、いや自分何を言っているんだと羞恥に顔に血を昇らせる。
え、今の叫んだの私?!私なの?!嘘でしょ?!なに、今更乙女みたいなこんな!あの叫びのどこらへんが女は度胸なの?!言葉の使い方を間違えているというか、どう考えても自爆しただけよね?!
「フィ、」
「という訳で私は逃げます!」
何か言われる前に、私はやっと見えて来た我が家に向けて走り出した。何を言われたとしても恥ずかしくて死にたくなる事請け合いだったからだ。
最後に微かに見たニカ様の顔は、嬉しそうに笑っていた、ような気がした。ついでに後ろのニカ様の護衛五人が微笑ましそうに私を見ていたような気も。……つらい。
家に逃げ帰るや否や速攻で布団に潜り込んだ私は、次ニカ様と会う時にはどんな顔をしてどんな事を言えばいいのかとしばらく両手で顔を覆い、声にならない声を上げながら身悶えた。
落ち着け落ち着け落ち着け私。
ええとええと、そ、そうだ。両想いだからといって、平民で居たい私と国を捨てられないニカ様はお互い何も捨てずには一緒になる事は出来ない。ニカ様は、国より私を愛しただとか何とか言ってくれたけど、それとじゃあ国を捨てて王家も捨てて平民になれるかというのとは別の話だろう。それに、私もニカ様は国に必要な人間だと思う。
だからこれは、私が先に折れてニカ様の恋人になるか、ニカ様が先に折れて私を諦めるのかという勝負だ。
……うんうん、勝負だと思うと何だか落ち着いて来た。そう、これは根負けするか根勝ちするかの勝負に過ぎない。過ぎないのだ。
私はより落ち着こうと目を閉じ、意識してゆっくりと呼吸する。
ニカ様と私、最終的にどちらが勝つのだろうか。負ける気は無いとはいえ、まだわからない。だけどお互い全力で戦い合った末にいつか着く勝負結果なら、勝っても負けても最終的に私は笑えそうだ。きっとニカ様も笑ってくれるだろう。
私は自分の思考とリンクするように自然と顔も笑みを浮かべる。
安心したら一気に眠くなってきた。だけど寝る前に一つ。昨日は気付けば眠ってしまっていたから言い残した言葉を叫ぼう。私は寝転がったまま大きく息を吸い、目を開け天井に向かってバカみたいに叫んだ。
「平民万歳!!」




