62
私達は四人で和やかに夕食のパンを食べつつ、話をあちこちに曲げながら喜怒哀楽豊かに雑談した。
そうやって時間を気にせず楽しく話していると、ふと見た外の風景がもう日が落ちる間際だったので今日はお開きと誰が言うでもなくそんな空気になった。私は三人を玄関まで見送る。
「三人共、また遊びに来てね!」
そう言った私に、シェドがじゃあまた明日と嬉々として返事したのをメルちゃんが遠慮しろと窘め、エヴァン君がやり過ぎなぐらい恭しく礼とお別れの口上を長々と言うのをメルちゃんが無理やり引っ張って連れ帰った。
やっぱりメルちゃんは苦労人だ。まあメルちゃんだって本当に心から嫌なら来ないだろうし、シェドやエヴァン君みたいなちょっと珍しい思考の人間に、好奇心が揺れ動かされてはいるんだろうけど。
私も今日はもう休もう。どうせ朝早く起きてしまうのだから、今日は早めに床につく事でゆっくり寝る。そういう算段だ。
三人の背中も見えなくなったので、私はそんな事を考えながら家に引っ込みドアを閉め――
ドアが閉まり切る前に、外の隙間から腕が浸入した。
私はそれを目で捉え、それが意味する事を認識するより早く、勢い良く手首を掴まれ無理やり外へと引きずり出される。次いで、相手の顔を確認する事も出来ずに後ろから抱きつくように腕を回され身体を押さえ込まれて口も塞がれた。
抵抗しようと動かそうとした身体は相手の筋力に全く敵わず、恐らく私が抵抗しているのかさえも側から見ればわからないだろう。
いきなりの出来事と極度の緊張で心臓が煩い。冷や汗が流れる。
だれ。誰、だ?今私を捕らえる事で誰が得をする?
誰の思惑で、私は今こんな目に遭っている?
ぐるぐると疲れた脳を無理やり回し、身体を動かせない分答えの出ない問いを繰り返す。何もしないと気が狂いそうだった。
私を捕まえている相手は、私の口を片手で塞ぎもう片手で容易くほぼ全身の動きを奪ったままに、器用にも歩き出し路地裏へと私を連れ込む。口を塞がれながらほぼ顔の向きも固定されているせいで相手の着ている服の裾さえ見えない。しいて分かるのは、大きな手と力の強さから相手が男だろう事だけ。
殺されるのか、犯されるのか、拷問されるのか、それとも。
思考がどんどんマイナス方向へと落ちて行く。
貴族みたいな風体の一人暮らしの女だから、なんて今更な理由でただの暴漢に襲われているとも考えられる。そうなれば、下手すれば全部コンプリート……犯され拷問され殺された後にお金も取られる事になるのだろうか。
いや、タイミングから言って相手は私が皆と別れるまでの間様子を窺っていたはずだ。なら私は殺されはせずに監禁され、彼等と連絡を取り友人の命が惜しくばと身代金を要求するかもしれない。そうなれば……皆に迷惑は掛けられない。私は自力でこの窮地を脱さなければ。
だけど、現状でさえ為す術なかった私はさらなる事態の悪化を理解する。
路地裏の先、そこに人影が見えた。逆光になり顔は疎か背格好しか見えないそいつは、此方に向けて手を挙げている。どう考えても私を捕らえている相手の仲間だった。
私は目を閉じ、どうにかして事態を打開出来ないものかと思考をフル回転させた。
「うっわ!いやに早く連れて来たなと思ったら、え?!誘拐して来たの?!怖い怖い怖い!王宮でお前の事、いつも冷静で紳士的で知的なお方ってハート飛ばしてきゃーきゃー騒いでたメイドやらに今の悪人全開なお前見せてやりてぇわ!」
聞き慣れた声がした。
私が、何かおかしいぞと目を開きその顔に目を凝らすと、今合流した輩は思いっきり私のよく知った顔だった。
「何を言っていらっしゃるんですか。これが一番手っ取り早いでしょう」
しかも、それに仲間に答えるように言葉を発した私を捕らえた後ろの輩の声にも聞き覚えがあった。
「そうだけど、もっとこうスマートな方法で良かったと思うの!」
「手際でしたら最高の動きでしたが。目撃者も居ません」
「手際だけな?!だけど洒落てないしクールじゃない!流石の俺も笑えないんだよ!いいからもう離してあげて!見てて可哀想!!」
存外あっさりと離された身体に安堵するより早く、私は後ろの輩の顔を確認した。案の定知っていた。
「私、いっそ今まで生きて来た中で一番怖かったんだけど、あなたに恨まれるような事したっけ?」
「いえ、別に」
「ちょっと一発殴らせて」
返事を聞く前にその澄ました顔目掛けて全力で殴り掛かると、あっさりと掌で受け止められた。苛立ちが増幅する。
受け止める技量があるのは知ってるけど!そこは殴られておけよ!お前程強かったらこんな貧弱なパンチ大して痛くもないでしょ?!
「ごめんねフィーちゃん、うちの相棒が」
「本当にね!!私今まであんたの方が頭おかしいと思ってたけど、さっきの話聞く限りこっちは合理的な皮被ったサイコパスだわ!あんたの方がまだまし!!」
「さいこぱ?……よくわかんねぇけど言ってやれ言ってやれ!もっと罵倒してやれぇ!!」
自分も頭おかしいと言われた事は気にしていないらしいタメ口の護衛がノリノリで口笛を吹き私を煽る。逆に冷めた。
私が大きくため息を吐いて体内に残っている怒りの熱を外に出していると、敬語の護衛が口を開いた。
「ではフィーさん、行きましょうか」
「やだこの人、一切謝ってないのに私が快く付いて行くと思ってるの…?正気?絶対人として大切なもの欠如してるよ。良心とか」
「気持ちはめっちゃわかるし同情もするけど、こいつも流石に普段はもっとまともだぜ?今は、俺もだけど緊張でちょっと頭イカれてんだよ」
タメ口の護衛がフォローのような事を言う。確かに、短い付き合いだしよくは知らないけど、流石に敬語の護衛のこの頭のネジが外れている様子は今まで見て来た彼の常識人ぶりとはだいぶ異なる。
しかし、緊張?私はまだしも、何故何に対して彼等が緊張しているというのか。
「ままま、一先ず何も言わずに付いて来てくれ」
「昨日約束致しましたよね?」
流すようにゴリ押しして来るタメ口の護衛と言葉だけで脅して来る敬語の護衛に、まあどうせ断ってもさっきのように力尽くで連れて行かれそうだし王宮ではお世話になった気もするし、と渋々ながら頷いた。
タメ口の護衛を前、敬語の護衛を後ろにして絶対逃がさないと前後でサンドされている形で歩く。
最初は、特に変わった点は無くただ無言で歩いていた。だけど五分もした辺りから段々と不安になって来る。
何故なら前を歩くタメ口の護衛が、今日の気温は別に暑くもないのに急にだらだらと汗をかきだし、呼吸は浅くなり、歩き方もぎこちなくなっていったからだ。思わず何かの病気の発作なのかとさえ思い後ろを見れば、なんと敬語の護衛も全く同じ状態だった。異様だ。私は思わず声を上げる。
「な、何。どうしたの」
「どうもしねぇよ。おい止まんなよ?」
「いや、鏡見てみなよ。どうかしてるから。休憩した方がよくない?」
「止まれば進めなくなります。黙って足を動かしてください」
護衛二人のピリピリした有無を言わせない空気に、私は口を噤み前後を挟まれたままやむなく黙って歩き続けた。
そして、特に長く時間も掛からないうちに護衛二人は足を止める。二人の様子に気を取られていた私は、そこで初めて着いた場所が私のよく見知っている所だと気付いた。
私のバイト先、ミシェルさんのパン屋さんだ。
私は首を傾げる。
「先に入ってくれ」
タメ口の護衛が私の前から避け、真剣な緊張した面持ちで私の目を見て言った。
……何だ?てっきり私はエルに会いにいくのかと思っていたのだけど、だったらエルを主と慕っているこの二人の様子はおかしい。だってさっきからの彼等の言動と拒否反応は、会いたくないけど会わなければいけない宿敵と今から対峙するようにしか見えない。
私はつられて緊張しながらも、視線で圧力を掛けてくる護衛二人に負けて最大限警戒しつつお店のドアを開いた。私と、私の後ろから続いて護衛二人が中に入る。
まず、当然ながらミシェルさんと目が合う。店内にそれ以外の人物は……居ない。まあ、もうすぐ閉店時間なんだから居なくても自然だ。だけどなら背後の二人はこんなにも何に怯えているというのか。
「あれ、フィーちゃんどうし――」
不思議そうに私に声を掛けたミシェルさんの言葉が不自然に止まる。どうしたんだろうと思いながらも後ろを振り返ると、タメ口の護衛が敬語の護衛に飛び掛かり地面に押さえつけた所だった。突然の衝撃に床から派手な音が鳴る。
「は?」
私は床に転がっている二人を呆然と見る。
敬語の護衛はかなり本気で抵抗しているようで、高速に動いてはドタバタと音を上げタメ口の護衛から逃れようとしている。同時にタメ口の護衛も敬語の護衛を何としてでも逃さないように上から必死で押さえつけている。
「バカ!バッカてめぇ!俺を残して逃げようとしてんじゃねぇよクズ!!」
「バカはそちらです、離しなさいバカ!ここは体制を立て直し万全の状態で臨むべきです!」
「それっぽい事言ってただの問題の先送りじゃねぇか!ここまで来たんだから俺もお前も腹括んだよ!!」
「命あっての物種です!!」
床でごろごろと小学生のような喧嘩を始めた二人は、動きだけは私では理解できない程に高度な技の応酬、をしているんだと思う。
私はこのままではとばっちりでお店が壊れかねないと、手や足を出したらうっかり骨の一つや二つ持って行かれそうなので声だけで静止をかける事にした。
「人の店で暴れないの!用無いなら私も帰るよ?!」
ついさっきに一切の抵抗さえ出来なく四肢の自由を奪われ助けを呼ぶ口さえ塞がれた相手に対しよく怒鳴りつけられるな凄い、と思考の片隅で客観的に自分の逞しくなった精神を称賛した。
とはいっても、私の言葉程度こいつ等は何の意にも介さないし止まる訳もないと正直諦観していた。していた、のだけど、二人は思いの外ピタリと動きを止めた。
「ダメ。緩和材に帰られんのは困る」
困ると言いながら人の事を緩和材呼びして来るタメ口の護衛に苦笑いしながらも、とりあえずちょっとは落ち着いてくれたようなので彼等には背を向け再度ミシェルさんに向き直った。
ミシェルさんは突然暴れだした護衛達の奇行への驚きから落ち着いたらしく、困ったような顔で此方を見ている。
「フィーちゃん、その子達は?」
「あー、えっと、彼等はミシェルさんも何度かお目にした事があるかと思うんですがニカ様の元護衛ですね。今此処に私と一緒に来た理由は、すみませんけど私もよくわかっていません」
「そうさね、何度かニカ君と一緒に。……元護衛?元、なのかい?」
「ええはい、昨日二人は仕事を辞めたみたいです。しかもなんかこの町に住むらしいです」
私も今のこの状況が何なのか護衛達に聞きたいぐらいなんだけど、明らかに巻き込まれて困っているミシェルさんに何も説明しない訳にも行かず、私のわかっている範囲の情報を話した。
と、後ろでまた大きな音が響き、また暴れ出したのかと嫌な顔を隠さず私は振り返る。
しかし、護衛達は私の予想と違っているどころか全くの予想の範囲外な動きをしていた。
二人は、そう――美しいぐらいの完璧に整った土下座の姿勢で此方を向いていた。
私はぽかんとする。
「申し訳ありません、無断で仕事を辞めて来てしまいました。貴女が平民となってからも十年以上もの間貴女の意思を酌み仕事は続けましたが、どれだけ勿体無いと言われようとやはり我々の主は永遠に貴女だけです」
「そう!才能より生きたいように生きるのが幸せって言ってたのはお前だし、ほら、ちゃんと王様に話は付けて来てやったんだぞ!だから、お願いします許して!」
話し方こそいつも通りの双方いっそ正反対なものだけど、込められた懇願と過重な想いの質は、思わず関係ない私が息を止めて見入る程のものがあった。赦しを乞う護衛二人は、その秘められた戦闘能力に似合わず近づかなくても身体が震えているのが窺える。
私は自然と、護衛二人と彼女との間から余計なものを無くすように傍に避ける。
恐る恐る私は護衛二人から目を背け、それを言われた相手、話からして彼等の主であり――エルの正体である、彼女の顔を見る。
ミシェルさんはいつもと大して変わりなく、困ったような顔で自分に向けて土下座する護衛達を見下ろしていた。
「仕方ない子達だねぇ」
諦めたように、だけど溢れる優しさでミシェルさんはそう言った。
その瞬間、護衛二人が弾かれたように顔を上げる。
「そんなに怯えなくても、あたしだってあの頃よか丸くなったさ。心も体もね」
そんな冗談を言うと、優しく優しく笑いながらミシェルさんは護衛達の所までゆっくりと歩いて行く。そして、護衛二人のすぐ前に膝をつくと二人揃って抱き締めた。
涙を堪えるような歪んだ顔をしている成人済み男性二人という珍しい光景に、私はぽかんとしたまま、だけど頭の中だけぐるぐると回した。
貴女が平民となってからも十年以上。
敬語の護衛のこの言葉から考えて、ミシェルさんは十年以上前には平民ではなかった…?いや、うん、そりゃそうだ。ミシェルさんがエルなのならただの平民な訳がない。むしろ今何故彼女はこの町で普通にパンを作り、平民として暮らしているのか。
今まで護衛達が洩らして来た情報だけでも、真相は既に推測出来るのかもしれなかった。だけど私は、考えを放棄し甘えた子どものようにミシェルさんの袖を引く。
私の方を見たミシェルさんは優しく笑って、一度強く護衛達を抱き締め直した後その二つの身体を離した。護衛達は仄かに恥ずかしそうに顔を見合わせると、揃って立ち上がり手際良くパン屋の閉店作業を行い出した。
一方、ミシェルさんは私を連れて店の奥に行くと厨房の奥にある椅子の一つに腰掛ける。次いで私にもう一つある向かいの椅子を勧めるように微笑んだので、私もそれに従い腰掛けた。
ミシェルさんは一度小さくため息を吐いた後、私の目を見て優しく語り出した。
「あたしの昔の名前はね、ミカエル・ザハムチェスターって言ったんだよ。あんたは、たぶん知ってるね。それが王宮お抱えの今も尚エルと呼ばれる予言者の本名さ」
平民になる時にほとんどの貴族の名前を記憶から消し去ってしまった私には、ザハムチェスター家がどの程度の家なのかはわからなかった。だけどそれはわからなくても話にそう関係して来はしないだろう。
私は頷き、話の続きを促す。
「嘘みたいな話だけどね、あたしゃ子どもが嘘吐く時の決まり文句や詐欺師とは違って本物の予言者だった。生まれつき、少しだけど当たり前に人の未来を見通せたんだよ」
予言者。本物の、予言者。
この話を聞く前にナナちゃんと話していなかったら、私はもしかしたらこんなにも真剣に話してくれるミシェルさんの話を半信半疑でしか聞けなかったかもしれない。だけど、この世に転生者が居て、生まれた時から全ての記憶を覚えている人も居て、それなら未来がわかる……そんな人が居たっておかしくない。
それに、本物の予言者だったというなら納得出来る事もある。今までミシェルさんは妙に達観し悟り切っているような事を言う時があった。私はそれを勘の鋭い人ぐらいにしか見ていなかったけど、きっとあれらの時ミシェルさんは正しく全てを見知っていたんだろう。
私は自分が理解し受け止めた事を示すように頷く。
「あたしにとっちゃ、それは本当に当たり前の事に過ぎなかったんだ。だから、未来が少し視えるだけで周りが大騒ぎするのが煩わしかった。何よりも、あたしの予言が国に必要だからって王宮に軟禁されたのは堪えたねぇ。自由に生きられない事はあたしにとっちゃ何よりの苦痛だったよ」
自由に生きれられない事が何よりの苦痛だというミシェルさんの気持ちが、私にはよくわかった。軟禁されていたのとは比べものにならないかもしれないけど、私もそんな生活が嫌だと逃げ出してきた身だから。
予言者は国にとってあまりにも有益な大き過ぎる存在だ。酷い手法とはいえ、軟禁までした気持ちも全くわからない訳ではない。わからない訳ではないけど、やっぱりそんなの辛過ぎる。
ミシェルさんが幼い頃は今の陛下へと王位を譲り渡される前だろうという事だけが、辛うじて心の救いだった。
「あの子達とはそん時からの付き合いでね。王宮内であたしがした予言の一つに、あの子達の暮らしてた村に関するもんがあって、その縁が巡り巡ってあの子達はあたし専属の護衛になったのさ。最初はあたしもあの子達もお互い良い感情抱いてるなんてお世辞にも言えなかったんだけどね。何でこんなに懐いてくれたんだか」
ミシェルさんは護衛達の居る方を見て目を細める。
あの心酔ともいえる尽くしっぷりはどうやらミシェルさんにも謎らしい。護衛二人がさっきまで怯えていたのは、今思えばミシェルさんに怒られないか捨てられないかといった類のものだったんだろうから、私もあいつ等どれだけミシェルさんが好きなんだよと呆れるものがある。まあ、あの二人にもそうなるまでには色々あったんだろうけど。
「その後、色々あって我慢の限界が来たあたしゃ王宮を飛び出したんだ。だけど軟禁されて暮らしてた世間知らずな貴族の箱入り娘が、大した準備も無しに平民の町でまともに暮らして行ける訳もない。だけどそこでね、あたしを助けてくれた人が居たんだ。それが、もう居ないあたしの旦那さ。旦那はパン屋でね、あたしは旦那のパンの虜になった。旦那のパンは世界一美味しいもんだって、今でも思ってる」
ミシェルさんの旦那さんの話は初めて聞いた。勝手にミシェルさんはずっと一人でパンを作っていたものと思っていたけど、そうなんだ。元々は旦那さんがパン屋だったんだ。
きっと当時のミシェルさんは、私がミシェルさんのパンに対して思っているような幸せの味を旦那さんのパンに感じていたんだろうなとぼんやり想像した。
「まあ、当然あたしゃ何日も逃げ隠れ出来ずに王宮に連れ戻される訳なんだけど、ずっとあの味が忘れられなかった。で、結局条件は多かったしかなり無理もしたけど、護衛のあの子達の協力もあって十、七か八年前だかに平民として生きる事を許されたって訳さ。今の時代にゃ一人しか居ない予言者の権限は強いからねぇ」
私は二度頷く。ミシェルさんがこの町で平民として暮らしている理由はわかった。相当に端折られただろう話だったけど私は一から十まで知りたい訳ではないし、これから先偶にお店が空いている時やパンを作りながら少しずつ詳しく話を聞きたいなとは思うけど、今聞いておきたい事はいくつかに過ぎない。
「何でエルの正体は秘密なんですか?」
「ああ、そりゃ本物の予言者がこんな所で平民としてパン屋やってるなんて周りに知られたら大騒ぎされるだろ?平民として暮らしていけなくなるのはごめんだよ。あたしゃパンを作るのが生きがいだし、それに……旦那を残して他の土地に移りたくないしねぇ」
ミシェルさんは遠くを見るような目で誰か……いや、旦那さんに向けて優しく切なそうな笑顔を浮かべた。
私はそれを見て護衛二人がどうしてあんなにもエルの正体を隠す事に固執していたかわかり、また私も絶対にミシェルさんの秘密を守ろうと心に誓った。
「そういや、フィーちゃんあたしのせいで教会の二人に嫌な顔はされなかったかい?」
「教会?って、ナナちゃんとジャックさんですか?いえ、特にそんな覚えは……」
「そうかい。そうさね。二人共いい子だから、あんたに八つ当たりはしないか」
八つ当たり?
私は理由を問うようにじっとミシェルさんを見た。ミシェルさんはしんみりと哀しそうな顔で口を開く。
「ジャック坊、あの子には小心者なのに王宮にあたしの予言の伝言を届ける役目負わせちまってるんだ。皆が知らないあたしの正体知って怯えて重責に苦しんでる可哀想な子だよ。ナンシーちゃんには……あたしゃ謝っても謝りきれない事しちまった。だけど、あの子は本当にいい子だった。いい子だったよ」
私の脳裏に、ミシェルさんのパン屋で私が働いていると知るや否や謝罪したいというジャックさんの伝言を話すナナちゃんの姿が掠めた。
次いで、ジャックさんのそんな様子を私がミシェルさんのパン屋で働いているからだと冗談めかした風に言ってから、皆事情と理由で生きているんだから簡単に人を信用するなと私に忠告したナナちゃんを思い出す。
ナナちゃんはたぶん最初からエルが誰かをわかっていた。恐らく、赤ん坊の頃から記憶があるゆえに、ジャックさんに予言の伝言を頼むミシェルさんの姿でも見てエルという予言士の存在を知ったんだろう。そしてナナちゃんは、エルの事が嫌いだと言っていた。だからこそ私に忠告したんだと思う。
ミシェルさんとナナちゃんの間にどんなわだかまりがあるかはわからない。真っ当に考えると、ジャックさんを怯えさせる相手に嫌悪したってところなんだけど、それにしてはミシェルさんの言葉が引っかかる。でも、ナナちゃんのあの嫌いの言い方はエルをたぶん本気で嫌ってはいなさそうだったと思う。
とはいえ、それは私が言う事ではないだろう。二人の問題だ。むしろナナちゃんなら、引っ越しの前にミシェルさんに何かしら言い残したかもしれない。あの子は本当にいい子だから。
さて、後聞きたい事は……ああそうだ。予言というものがあるのなら、私のあの上手く行き過ぎたと思って心中で陛下の事さえ疑ったあれも、もしかして。
「……あの、この町に来て右も左も分からない、まだ貴族らしさが抜けきっていなかったはずの私をすぐに雇ってくださったのは、」
「ああ、それは……昔のあたしみたいな子が居たから、つい旦那みたいな事したくなったのさ。まあ、フィーちゃんは世間知らずで箱入りだったあたしと違ってよく働く出来た娘だったけどねぇ」
予言とは関係なかった。ああ、だけどそうか。似ていたから、か。それってなんて素敵な運命の巡り合わせだろう。
運命って悪くない。自ずとそう思う。
「予言もね、普段は私利私慾にゃ使わないんだけどフィーちゃんは相手だとつい贔屓しちゃってねぇ。でも、予言を覆したのはあんたが初めてだよ」
「予言を、覆す……?」
「ああ、あたしの視た未来じゃ、あんたは何も知らないままニカ君と結婚して貴族に戻るはずだったんだよ。それをあたしゃ不幸だとは思わなかった。だから、何も言わなかったんだけどねぇ」
私は驚きながらも納得する。私が帰って来た事にミシェルさんが不可解な程に動揺していた意味がわかったから。
でも、そっか。そうなんだ。私、本当に運命変える事出来ちゃってたんだ。
「あたしの視える未来は、あたし自身が壊そうとして動かなくても変わる事がある。それはあたしにとっちゃ最高の幸せだ」
今まで一度も変わらず当たり前だった事が変わったならもっと不安になってもいいと思うのだけど、ミシェルさんは本当に本当に嬉しそうに私に笑いかけた。きっと、この人は予言のせいで今までとんでもない苦労と重荷を抱えて生きてきたんだろうなと実感した。
なんだか泣きそうになった私は、それを誤魔化し空気を変えるように笑顔を浮かべてミシェルさんに手を差し出す。きょとんとそれを見るミシェルさんに、私は言った。
「ミシェルさん、お互い平民として幸せに生きましょうね!」
貴族だった頃は違くても、平民としては誰よりも私とミシェルさんの境遇は近い。だから仲間だ、という私の単純な思考結果の末に私はミシェルさんに握手を求める。
ミシェルさんはそんな私にくすりと笑って、私の手に自分の手を重ねた。
「後、あの敬語の護衛の方に頭のネジ吹っ飛んだ理由でさっき私怖がらせられたので叱っておいてくれると嬉しいです!」
「ほぅ……わかった、任せときな」
私が笑顔でちゃっかり告げ口すると、目を細めたミシェルさんから何とも言えない威圧感が漂った。
あ、これヤバいやつですと私は瞬時に理解する。今日が敬語の護衛の命日になるかもしれない。
「そ、それでは後はお三方で再会の喜びをお楽しみください!」
私はそれだけ言い残し、逃げるようにパン屋を出た。出る時護衛達の居る方からはさっと目を逸らした。
ま、まあ死にはしないだろう。たぶん。
エルと護衛二人の人生については、番外編みたいに5〜10話ぐらいの軽い連載にしてもいいかもしれません。




