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落ち着いたところで、私は一度深呼吸してからメルちゃんに言われた通り胸を張り、堂々と王室へと続く扉の前に立った。
ノックをすると、程無く陛下の声で入室を許可される。どうやら扉を開ける兵さえも人払いされているようだったので、私は自ら扉を開けると意を決して中へと足を踏み入れた。
真っ直ぐ前を見据えた先、見えた陛下のお顔は相変わらずニカ様のお顔とセス様のお顔そのどちらをも感じさせる。だけどニカ様よりも優しそうでセス様よりも落ち着いていて、そのご尊顔だけでも王としても大人としても周りに慕われるのがよくわかるものだった。またそのお姿は、溢れるような包容力と微笑みを携えて尚滲み出る威厳を感じさせる。
前世で兄ばかりを愛し私を見ない他人のようだった両親を持って生まれ、子供を自分達が権力を握る為の道具としてしか見ていなかった酷薄な両親を持って生まれ変わった私にとって、陛下は誰より私の父に近い存在だった。
私が陛下と最後に会ったのはまだたった三ヶ月前の事で、以前とお変わりないお姿に見えるのは当然だ。
ただ、自分のささぐれだった心により、大好きだったはずの優しい笑みがもう偽りとしか思えないだけで。
私は形式通り、陛下の前に恭しく跪いた。
それに続くように、一緒に入って来た護衛二人も私の両隣に跪く。
一見では彼等はまるで私の従者かのようだけど、護衛達のこの位置取りは私が馬鹿を起こしたら瞬時に殺せるようにと考えてのものだろう。今朝見た、馬車から飛び降りて来た時のタメ口の護衛の人間離れしていたとさえ言える動きを思えば、武術の心得の無い私を殺す事なんて一瞬で他愛も無く出来るのは明白だった。
「よい。顔を上げよ」
陛下からのお言葉に、そっと顔を上げ陛下と視線を交わす。水色の目は、セス様の空のようなそれともニカ様の氷のようなそれとも少しだけ異なる。澄んだ海のような色だった。
彼に話す事、そしてどうやって話すかも、部屋に通される前から既に決めていた。
「…陛下、お久しゅうございます。まずはただの平民と成り果て事前の伝達も無しに御目通りを願うこの大変なるご無礼をお許し頂き、そして私の願いを寛大なる御心で聞き入れてくださいました事、心より感謝致します」
「はは、よいよい。平民になろうと君と私の仲だろう。口調もそうまで畏るでない。それより元気そうで安心したよ」
その言葉に、反論したい気持ちを抑えて吞み込んだ。私は陛下と、最初から最後まで冷静に話すつもりだ。その話がどんな内容であれ。
「セス・キャボット殿下の婚約者であられるリリアナ・イノシー様が誘拐された件については…さすがに、もうご存知ですよね」
「ああ、もちろんだ。とはいえ私は完全に後手に回ってしまったし君達に解決してもらった事も聞いている。君には複雑な立場にありながら、未来の王妃を護ってくれた事誠に感謝する」
……。吞み込む。呑み込んだ。
まず、話すべき事はそれについてでは無いから。
「では、主犯がシェド・スワローズとエヴァン・ダグラスである事もご存じですね。私はこの度、恐れながらその二人の減刑をお願いしたく、このご機会を頂きました」
真摯に目を見る。陛下は優しくだけど困ったように私を見返す。
上手い表情作りだな、と他人事のように思った。
「成る程、ふむ、まあ君がそう言うには何かしらの事情はあるのだろう。だがそれは呑めぬ話だ。わかるだろう?罪は裁かれねばならぬ。この大事件を裁かぬ王が、何処に居ようか。実際にはリリアナはほぼ無傷であったようだが、殺されていてもおかしくなかった事件だ。実行犯の死刑は免れまい」
「本当に、これは大事件だったのでしょうか?」
完全に正論だと思わされそうな陛下の言い分に、だけど私は臆せず反論した。
自分で言っていても、陛下のお言葉の後では誰もがこれが大事件だったなんて事は当たり前だろうと考えると思う。だけど、私はそれでも、もうこの事件の真実を正確に理解していると自分を信じている。
「これから話す事は、私のただの悪足搔きに過ぎません。私が何を言ったところで未来は変わらないでしょう。それでも、少しだけお付き合いください」
陛下は微笑んだ。許してくれるという事だろう。恐らく最後まで、黙って話を聞いてくれる。そしてそれはきっと同時に、全部わかっていて悪足搔きも受け入れてやろうという只管に上からの態度でもあるんだろう。
陛下は、お優しい方だ。少なくとも私はそうずっと思って来た。ゲームで見て来た僅かな情報と幼い頃からの自分に対するものだけで。…別にその優しさは、嘘では無かったと思う。
だけど、人の事をそれだけで理解した気になるには驕りが過ぎる。優しさはただの陛下の一面だ。
一国の王に取捨選択が出来ないとは思えない。私の並外れた演技力は国のカードとして使える。私は国に有用な存在だ。
――思えば、あらゆる根底がおかしかった。
「この誘拐事件、本当に発生するまで誰にも気づけなかったものだったのでしょうか?」
シェドの言っていた、整えられた舞台上に居る気分だというそれは、きっと何もかもが上手く行き過ぎていたゆえに生じた違和感だ。
シェドとエヴァン君と、誘拐の時に雇っただろうリリちゃんを直接連れ去った人物、それから事情を把握していなかっただろうとはいえ一応シェドの両親。誘拐事件の実行には恐らくたったそれだけの人物しか関わっていない。だから秘密は洩れ難かった。
……本当に?誰も、何も、事前には気付けなかったのか?
「リリアナ様は次期王妃です。そんな彼女を、あまりにも簡単に誘拐出来過ぎています」
リリちゃんの護衛は、例えばその時のリリちゃんの精神状態を考慮して本人が一人になりたかったからと断ったにしても、もっと多人数が本人に見つからないようにして隠れて護っているものではないのか。次期王妃が平民の暮らす町にお忍びで行くのに、あまりにも危機感が無さ過ぎる。リリちゃんもそうだが何より、周囲の人間に、だ。
「それからその後の出来事。あんな町外れの教会に、どうにも都合の良い人材達が揃い過ぎていました。さらに、リリアナ様を護れなかった事もそうですが、セス様も護衛を一人残らず撒いてあの屋敷まで行けたというにはどうにも護衛達が無能過ぎます。はっきり言って、不自然です」
そう言う私は、教会の事はまだしもリリちゃんとセス様の護衛への違和感にすぐには気付けなかったんだから失態にも程があるんだけど。
あの時私はまだこの世界をゲームとして見ていたから、全てをああご都合主義かと無意識に納得してしまっていた。
だけど、現実にしてはやはりあまりに出来過ぎている。ならば偶然と片付けるより、作為を疑うべきだ。
一度は謎の存在であるエルを疑ったけど、私の偏見を除いてみればそれよりももっと適任が居た。
「ですが全て、陛下が裏で手を引いていたなら納得出来る話です。リリアナ様やセス様の護衛に見て見ぬふりをするよう指示をして、その時間教会にちょうど用事が出来るようにと主要人物達を動かす。そのたった二つをするだけでいい」
主要人物達は皆立場が高い。だからこそ、陛下が指示出来る範囲の人物にそれらしい理由付けで彼等を動かす事は不自然にもならずやりやすかっただろう。
「この通り、これまでの全て私を手に入れる為の陛下の芝居だったという私の推理が正しいなら…事件が明るみに出る事は、むしろ無い方が陛下にとって都合が良いはずです」
ここまで言っても、陛下の様子は変わりなかった。私の言葉は合っているはずなのに、余裕が崩れない。優し気な笑みを携えたままだ。
「セス様はまだしも、他の皆は平民にまではほぼ顔を知られていません。だから、あの町の民にとってあの誘拐を偶々目撃したとしても、貴族の誰かが誘拐されたとしか見えなかったはずです。まさか次期王妃ともあろうお方があんな場所にお忍びで来ていたとは常識的に考えて思わないでしょう」
リリちゃんがセス様と婚約してからまだ三ヶ月だ。それまでは子爵令嬢だった彼女の顔をよく知っている人は、貴族と関係者しか居ないだろう。
「あの屋敷の内部にはこの護衛二人が居ましたし、誰かが少々予想外な行動を起こしても彼等が対処出来たはずです。屋敷の周辺には、恐らく事件が外に洩れないように陛下に雇われた兵士達も隠れていたものと思います」
この護衛二人の実力を考えれば、死んではいけない人物が誤って死んでしまう事はまず無いだろう。リリちゃんは死にかけていたけど、彼女は陛下から死んでしまった時は仕方ないと思われていたと、やるせなくはあるが私はそう考えている。
ちなみに屋敷の周辺については、敬語の護衛が屋敷付近ではニカ様は襲われないと断言していた事から、あの一帯は既に陛下の手が行き届いていたのだろうというのが私が考察した結果の答えだ。
「この誘拐事件、次期王妃が誘拐されたと知っているのは実際に関わった私達だけなのではないでしょうか?」
もしかしたら、ノラとゼロに関して言えば完全に偶然だったのかもしれない。口止めが難しい隣国の王子と側近に事が洩れるのはよろしくないだろうし、彼等はナナちゃんとは何かあったようだけどあまりあの場で陛下に必要と思われるような役割は無かったように思う。
まあ、ノラの行動予測は陛下でも難しいだろう。むしろ王子としての仕事の時間がかなり押しているようだったあたり、ノラとゼロは出来るなら遠ざけたかったのかもしれない。
ナナちゃんの存在はというと、微妙な所だ。平民とはいえ屋敷の裏口を知っていたようだし、何かしら目的あっての配置だった可能性は充分にある。主要人物の揃った教会の修道女なんだから、事件に関わらせる事はそう難しくなさそうだし。
ここで自分の問うような言葉に対しての答えを期待しているわけじゃない私は、一度言葉を切った後にまた口を開いた。
「そうやって陛下を疑うと、そもそも最初からおかしかったとわかりました」
最初とは、十年は過去。私が陛下と初めて会った時まで遡る。
「王として国を担って来たような人物が、私のはりぼてに…違和感に、全く気づかなかったのでしょうか?」
同じ天才でも、ニカ様達はまだいい。だって皆、まだ私の前世の年齢よりも歳下だった。それに加え今世の年齢分も磨かれた私の人生経験と演技力に、気づかなくても不自然は無い。
だけど、私は本当に一国の王さえ完全で完璧に騙し切れた程の演技力を、慣れない異世界で生まれ変わった幼い頃から有していたか?さりげなく見せかけながらあまりに上手く立ち回る幼い私を、陛下は一切見抜けなかったのか?
そしてもし見抜いていたとしたら……前世の記憶があるゆえに、異質な兄妹関係と環境により磨かれたせいで私が特異な演技力を持っている、とは誰も想像しない。出来ない。普通人は、目の前の人間がまるで未来が見えているような立ち回りをしていたとしても、前世の記憶があるのかもしれないという非現実的結論には至らない。常識の範囲で理由をあれこれ想像するものだ。
だから陛下は、私を天才と思ったはずだ。大人のように思考出来るだけの人生経験は足りない子供……我ながら都合の良い駒としての適正充分だ。とはいえこれは間違いで、事実は小説より奇なり、だけど。
「百歩譲って違和感にさえ抱かせない程の卓越した演技が当時から私に出来ていたとしましょう。では、リリアナ様が仰った私から嫌がらせを受けていたという嘘にも、貴方は気づかなかったのでしょうか?」
ゲームの中でなら、裁かれるのはリリちゃんで内容は嘘といじめがバレたせいだから問題無い。
だけど嘘をわざと肯定した私の場合、調査が行われていたらその嘘はまずバレていたはず。次期陛下とその婚約者の事件に綿密な調査が行われなかったはずがない。
そして思えば、裁判の後陛下は私に対して申し訳無さそうな悲し気な顔をしていた。あれは、全部真実を知っていて尚それに知らないふりをしながら罪を下すゆえの、唯一陛下が私に見せた綻びだったように今では思う。
「ですから私は、陛下にとってはむしろ私を一度平民にならせた方が都合が良かったのかと考えました」
私以外に、私を平民にならせたい人が居た。だからこそ私は、ゲームとはかなり剥離しているこの世界でも、シナリオに上手く沿いながら変えたいところだけをピンポイントで変えて平民になれた。
さすがに元から私が平民になりたい事までバレていたとまでは思わないけど、私がセス様に婚約破棄を言い渡されたのを知った時、陛下は私の処遇をどうしたら一番都合が良いか考えただろう。
ある意味、私は嘘によって先に陛下を裏切った。これは私の裏切りを、陛下が利用した話だ。
「私の両親は能力のわりに上昇思考が強く、性格は最悪です。正直、我が両親は陛下にとって、何より国にとって邪魔な存在ではありませんか?私を家から切り離す事は、そういうしがらみも捨てられます。また、公爵の娘という私の自由と人権を守る加護も無くせますね」
平民の処遇なんて、王家の一言でどうとでも出来る。平民になってからの私がそれをされて来なかったのは、私の周りの皆が良い人だったからだ。皆が、私の人権を尊重してくれた。
だから陛下の取ったこの回りくどい手法の数々も、私の意志で陛下に跪かせてもらえる優しいものだったと言えなくもない。だから納得出来るかと言われれば、それは嘘でも首を縦には振れないけど。私、我が儘だから。
「どこまでが陛下の計算だったかはわかりません。けれど、私が両親に他の罰を与えられるのではなく平民になった事は、裏で私の両親に陛下の口添えがあったのではないかと思っています」
私は周りから見てどうやら、出来過ぎてしまっていたらしい。それこそ恐らく、ゲームの主人公以上に。となるとつまりどんなに私が平均より上程度を装った所で両親は、私をゲームでのリリアナのように貴族の身分を剥奪して平民に落とす処罰ではなく、もう少し軽い罰を与えるだけで飼い殺しにしようと考えただろう危険性は充分にあったという事だ。
そもそも私のこの話は、私が両親から平民に落とされる罰を受ける事を陛下がわかっていなければならない。今更まさか陛下が転生者という可能性も少ないだろう。
となると、逆上した私の両親の行動をその慧眼で予見した――というよりは、陛下自らがそうなるように促したり口添えしたと考える方が遥かに手っ取り早かっただろう。冷静さを欠いた人間は、マインドコントロールに陥りやすい。
私の"平民になりたい"という想いと陛下の私を"平民にしたい"という想いがちょうど重なり合い、私は裏で動く思惑に何も気づかなかった。
いっそ最初から私が平民として万全の幸運で暮らせるようになった事さえも、陛下の掌の上だったような気もする。
急遽放り出された私があの治安の良い暖かい町に迎え入れられ、仕事場も難なく決まった。しかもあの町には、リリちゃんが通う教会があった。
全部全部、私の束の間の幸福さえ、陛下のおもちゃのように踊っていたに過ぎなかったのかも。
それでも、あの時間は私にとって心から幸せだった。短い間でもあそこに居られた事については、本当に陛下の作為だったとしても感謝したい。
私は一つ深呼吸をした。次で、陛下に私が言い残したい事は以上だ。
「そうして私は今、自ら望んで国の駒になろうとする、シェドとエヴァン君の死刑を免れさせる為なら何でもする存在となり陛下の御前に跪いております。全てが陛下の思いのままに」
最後に笑って皮肉を言った。これでお話はおしまい。前提通りの悪足搔き。
最初に陛下に言った通り、全て私の自己満足に過ぎない。
これぐらいのご無礼は寛大な御心でお許しください。だって、私や皆の苦悩が全部ただ一人の掌の上だったなんて悔しくてやり切れないじゃないですか。
目が合った陛下の結局最後まで変わる事の無かった大人の優しげな顔を、負け犬の私は子どもみたいに睨みつけた。




