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十分程、少し狭い馬車の中で私もニカ様も当然護衛二人も口を開かず無言で馬車に揺られていた。正確にはこの時間は私が長く、もしくは短く感じていただけで実際の経過した時間とは異なるかもしれないけど。
だけどいつまでもこの気まずいけれど微睡むような、何も変わらない優しい時間を続けている事は出来ない。私は意を決して話を切り出した。
「……私が王様に減刑を願える手段、ニカ様はあると思いますか?」
直接貴方は何を知っているのか、何をやろうとしているのかなんて、聞く気は無かった。
核心から少しずれた話をする合間に零した真実の欠片から自分で判断する。その方がこの後に及んで誰かに踊らされずに済む、とはノラとナナちゃんのお陰で気づけた事だ。
「今のフィーの地位と立場では発言力が弱過ぎて、難しいと言わざるを得ないな」
「ええ…それは、重々承知しております」
平民が陛下に直訴して、しかもそれが不当なものではなく客観的に正しい刑罰を軽減してもらえるなんて、そんな甘く優しい事は普通ある訳がない。
むしろ次期王妃を誘拐しもしかしたら殺していたかもしれない者を死刑にしないなんて裁決を陛下が下せば、事件を知る国の誰もが陛下を甘過ぎる愚王だと嘗めるだろう。
「ですが、婚約破棄され家からは勘当された身ですから、もし私から望んだとしても今更元の地位には戻れません」
「ああ」
平民になる代わりに捨てたものは多くある。今の私は、そんな自分でもシェドとエヴァン君を救わなければならない。
そう、ニカ様ばかりを気にしてはいられない。私はニカ様を探ると同時に、自分の発言通りに陛下とどうやって交渉するかも決めておく必要がある。
「君の発言力を強くする、一番簡単で有効な手段を提案しよう」
今まで視線を交わさず前だけを向いて話していた私は、興味をそそられてニカ様の方を向いた。馬車の狭さのせいで近い距離で、私とニカ様の目が合う。
一瞬、思考が止まった。そしてそんな私に追い打ちするようにニカ様が口を開く。
「私と結婚すればいい」
まさかの言葉、プロポーズに、私は思考を忘れ頭に血を上らせた。
「……は?え?」
…お、落ち着け落ち着け。私は前世で一応は恋愛経験のある身。大丈夫。
というか、うん、今のこれは完全に気持ちも何もこもっていないやつだ。言葉通り、手段の提案に過ぎない。淡々とした言い方が何よりの証拠だ。
私は深呼吸し、冷静に頭を巡らせた。
「え、ええ、そうですね。確かにそうすれば、私は次期王妃で無くとも王族の一員。発言権は大きくなります。セス様の次はニカ様、となると内情を知らない方から見た外聞はあまり宜しくないでしょうが。…ですがこの話、ニカ様にはメリットが無いのでは?」
そもそもいくらニカ様に王位継承される意思が無いとはいえ、王族と平民の結婚が許されるとも思えない。それにニカ様が王族ゆえに発言力が強くても、他の公爵達や家臣、そして他でもない王様に反対されればそれまでだろう。
セス様との婚約破棄の際、私は罪を全面肯定したんだから貴族内で私の醜聞を知らない者は居ないはずだ。
一番簡単と前置きされたわりに、この話はあまりに現実味を帯びていない。
「自分にそれだけの価値が無いと、本気で思っているのか?」
真剣な声音に、思わず言葉に詰まる。
私の演技力は確かにあらゆる所で使えるだろう。今まで色々と見逃しは多かったけど、それは私が一人で全て計画していて誰も信じず誰もを欺いていたせいで生じた事でもある。周りがフォローしてくれさえすれば、レディローズのはりぼてと話術はいくらでも対人における外交や内政に使い道がある。
王族の妻として、使えるカードにはなれるかもしれない。
だけど、先に考えた通りデメリットも大き過ぎる。それならもっと他の貴族を娶った方がいいような。
「フィーが自己分析が甘いのも周囲への影響力を正確に理解出来ていないのも今更か。とはいえ、ここは説明を省こう。ではそれらのデメリットがほぼ存在せず、誰の反対にも遭わず婚姻が成立する場合ならどうだ?」
デメリットがほぼ存在しない…?
そうなる一番しっくり来る状況を模索する。レディローズとしての私の威光が未だ貴族内に残っていて罪人だという意識が貴族達の間で薄く、王様や家臣達もニカ様と私との結婚を良しとしている。例えばそんな夢物語みたいな場合だろうか。
だとしたら、私はどうなのか。私が、ニカ様と結婚…?私は……。
「……ニカ様は、それでいいんですか?」
私と結婚なんて、そもそもニカ様自身はそれでいいのか。状況ゆえの有効手段として提示されたとはいえ、話があまりに唐突過ぎる。
窺い探るようにニカ様の目をじっと見た。
「私は……何だか、今日一度別れて再会してからのニカ様が、いつもの貴方に見えません。王族のお方に恋愛婚をしろとは言いませんが、結婚という手段は本当に貴方の意志ですか?」
直接こんな事を聞くなんて、甘過ぎるかもしれない。だけど私はニカ様を結局疑いきれない。だってずっと、幼い頃から見て来た人だ。言動がおかしくなったのは今日屋敷で再会してから。それで間違いない。
いきなりニカ様が変わったと言うよりは、誰か……例えばエルに何か唆されたと考える方が自然だ。
だけど、ニカ様は真っ直ぐに私を見返した。
「ああ、私の意志だ」
澄んだアイスブルーの瞳には一点の感情の陰りさえ窺えず、それが真実だとわからざるを得ない。
だからといって本人も気づいていない間に都合良く動かされているというには、変わり過ぎていると思う。ニカ様は自覚して動いているはずだ。
なのに、私と結婚するのはニカ様の心からの意志だと、経験で培った私の目が言っている。さっきまでは淡々としていたニカ様の言葉にも今は確かに感情がこもっている。
「セスと婚約したフィーと初めて会ったあの時から、君はいつだって私の中で特別だった」
私はその言葉に、きょとんとニカ様を見た。だって、それはゲームと違う。レディロでは、ニカ様が主人公を特別視し始めるのは学園入学のゲームプロローグの辺りだったはずだ。
「フィーはセスと同じく、器用なだけの私と違い大きな一つの輝く才能を有している。当時の私はそれが何かまではわからなかったが、そんな君に憧れていた。そして、王妃となりセスを支えて欲しいと思っていた」
何でも出来る天才に憧れられるなんて、おかしな気分だ。
しかし、つまり私が私だったからニカ様の見る目が違ったということだ。どうやら私は自覚せずとも最初から、ゲームの主人公とは異なる道筋を歩んでいたらしい。ああ、本当、ゲームをプレイしていた事なんてあてにならない世界だ。
「私は国を愛している。セスとフィーの結婚は何より国の為となるはずだった。だから…幾度、無意識に君を目で追い、大人のように余裕の笑みを絶やさない君が極稀に本当の笑みを浮かべるのを見ては心臓を掴まれような気持ちになろうと、気づかないふりをして来た」
息をするのを忘れそうだった。
これがゲームと同じ台詞だったなら、冷静で居られたのに。いっそ私が自分の見極めに自信が無くこれを本心だとわからなければ、騙そうとしているのかもなんて心の片隅で考えて平静を保てたのに。
「だが、セスとフィーは婚約破棄。もう私が踏み止まる理由は無いんだ」
ニカ様が私の目を見る。その目は優しく、だけど強く熱がこもっていた。
「君をずっと愛していた。正直、君と結婚出来るなら私には他の何もかもどうでもいいんだ。だからただ、この手を取って欲しい」
ニカ様が私に向けて手を差し出す。
本物の気持ちを感じた。恋情の灯った目から、視線を逸らせなかった。心臓が煩い。暑くて熱い。純粋に、手を取りたいと思ってしまう。
でも、だけど、待って落ち着かなきゃ。このタイミングでニカ様がそう言って来る事にはきっと作為が――
……。
作為があったら、何なんだろう。
作為なんて、あったとしても無かったとしても、シェドとエヴァン君を救いたいならこの手を取る事は一番の解決方法だ。
それに、私は…私自身も、だってずっとニカ様の事が……。
ニカ様と同じだ。
私は、目を背けてきた。自分を騙してきた。
気づいたら、王族であるニカ様を――なんて言ったら、私の望む日々と矛盾するから。両立なんて、出来ないんだから。
だけど、もうこうなってしまったらそれは通用しない。下手くそな誤魔化しはもうやめよう。
太陽が銀髪に反射して眩しいからと目を逸らすなんて、馬鹿馬鹿しい。髪はそんなに反射しないし、目を逸らす為の言い訳を無理矢理作り出していただけだ。
兄みたいに思っていただなんて嘘だ。だってニカ様と最初に会った時、彼は前世の自分より十も年下だったんだからそうは見られなかった。だけど、日々を過ごして行くうちに生まれる感情に、無理矢理それを兄妹愛にすり替えた。
ゲームの中で人気だったから、なんて私は本来気にするタイプじゃない。ニカ様への好意を自分に対し言い訳する為の文句に過ぎない。
リリちゃんと言葉が無くとも通じ合う姿に嫉妬して、姿が見えたら嬉しくてほっとして、会いに来るのを本気で追い返せた事なんて一度も無くて、弱っているのを言い訳に甘えて……。思い返してみると、全然誤魔化せてもいなかったものだ。
私は、ニカ様がずっとずっと好きだった。
「私…は、私も……」
でも、でも私は運命に勝たなくてはいけなくて。
そうしないと私は最後まで抗えなかった兄を乗り越えられな――
…違う。
わかっている。兄との事は終わっている話だ。前世の話だ。勝手に私が今も引きずっている、事あるごとに思い出してしまう、もう手を出せない塗り替えられない過去だからこそまた心にこびりついてしまったトラウマなだけ。
つまりは結局心の問題なんだから、別に運命がどうとか平民がどうとか、叶わなくても問題は無い。そんな事をしなくても、私が前を向けたならそれで終わる。
今の私には、大切に想う人達が居る。兄がこの世界に居なくて良かった。復讐なんて私には荷が重いし、あの人が居たなら良くも悪くも私にとって今世でもまた一番に大きな存在になってしまっていただろうから。
……もういいんじゃないだろうか。
好きな人が私を好きだと言って結婚しようと手を差し出してくれている。
それに、別に平民じゃなくなったとしても、これはもうシナリオ……運命通りとは言えないんじゃないか?
だって私は王妃になる訳じゃない。元の地位に戻る訳でも無いだろう。平民では居られないとしても。
しかもこの行為は私の意志だ。それはシェドやエヴァン君を助ける為であり私自身の贖罪かつ、私がニカ様を好きだから選ぶ事だ。
大丈夫。きっとこの手を取れば私は幸せになれる。私はニカ様が好きなんだから、ずっと好きだったんだから、きっと。
「フィー…?」
だから早く手を取ろう。ニカ様が待っている。
ここで私が手を取れば、ハッピーエンドだ。
手を取ろう。
手を…。
手が…。
……。
震える手が、前に出ない。
出したくない。
「私は……私は、兄もシナリオも運命もどうでもいい。……もうどうだって、いい」
決断を迫られ自分を欺いてきた事も認めて、私は私の心を、本当はどう思っていたのかを初めて正確に理解した。
そうすると、どうでもいいと言えた。心の底から。
きっと今この時が、私にとって本当の意味で前世と決別出来た瞬間だった。
「だけど、平民になりたい」
最終的に辿り着いた望みは、たった一つ。これだけだった。
融通が利かず我が儘で頭の悪い結論だ。それで報われるとも限らないのに。シェドとエヴァン君が助からなくなるかもしれないのに。好きな人が結婚しようと言ってくれているのに。
それでも、私が最後に守りたいものはこれだった。平民として生きる事が、あの日々が人々が世界が、楽し過ぎたから。
だからその手は取れません。もう少しだけ、悪あがきだとしても自分の力で抗いたいから。
この話、実は恋愛カテゴリーなんですよ。




