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正直に言おう。フランスパンを武器扱いした奇行に関しては自分への緊張ほぐしの意が強かった。
だけどドアを開けた直後、私は自分の目に飛び込んで来たあまりの状況に混乱し困惑しながらも、自分の手がフランスパンを握っていた事に心の底から感謝する事となった。
「これで、全部元通りにしましょう。セス様、愛しておりました」
久しぶりに見た意識のあるリリちゃんは床にぺたりと力無く座りながら可愛らしい声でそう言うと、最後に口の中で聞こえない言葉でまた何かを呟いた後、泣きながら微笑んで――
自分の首に目掛けて戸惑い無くナイフを突き刺そうとしていた。
状況も何も理解出来ないままに、そこで私が取った行動。
咄嗟に手に持っていたフランスパンを、ナイフを握るリリちゃんの細い腕めがけてぶん投げた。
固いとはいってもフランスパンなら当たっても精々怪我程度で済むだろうし…とまでは実際のところ考える余裕も無く、とにかくこれでナイフの軌道を逸らすか取り落とさせる事が出来ればと思っての行動だった。
私の目論見は当たり、狙い通りにフランスパンはリリちゃんの腕に当たりナイフは金属音を発しながら落ち、そのまま床を滑ってリリちゃんから多少遠退いた。最善だ。
「え、パ……?ぁ、そんな…レディーローズ」
自殺しようとしていた所をフランスパンをぶち当てられて阻止されるという、たぶんこの世の誰も経験した事の無い事を今まさに経験したリリちゃんは、フランスパンに目を瞬いた後、投げられた先の私を見つけるといっそ此方が驚く程に動揺し切った顔をした。
私も物を思い切りぶん投げた後の、右腕と左脚を前に突き出した何とも言えない態勢のままリリちゃんを見つめ返す。
何で今リリちゃんが自殺なんてしそうになっていたかはわからない。
というか、俺様殿下。奴はこんな時に何をしていたんだ?うん?!
一旦リリちゃんから目を離し部屋の中を苛立ちながら見回すと、リリちゃんより私に近い位置、ドアのすぐ近くで座り込み俯いている俺様殿下のキラキラな金髪頭を見つけた。
何この状況で悠長に座ってんだよ、お前!と怒鳴ってやりたいのは山々だが、一拍怒りを収めて冷静に考えると、リリちゃんはまだしもあのプライドの高い俺様なセス様が床に座り込んでいるなんてそれだけで明らかに異常だ。そもそも彼は、事件の犯人をただじゃ済まさないと息巻いて先に行ったはずだ。軽く見たところ外傷も見当たらないのに、何故こんな状態に?
「セス様…?」
「ああ、何だ?」
「いえ、何だじゃなくて…」
俺様殿下は俯いたままでその顔は見えない。声の調子は聞く限りではそういつもと変わらなく思えるけど、意識があるならあるで婚約者のリリちゃんが自殺行動をしたのに対して全く反応しなかったのはあまりに不可解だ。
「俺にあいつのする事を止める権利は無い」
俺様殿下が私の疑問に答えるように、きっぱりと変な事を言った。
…は?え?何言ってんのこいつ?自殺止めるのに権利がどうとか言っている場合じゃないよ?
「俺もリリアナも、言い返す言葉が無い」
俺様殿下は自嘲した。
私が何の話なのかと困惑で頭をいっぱいにしていると、後ろから肩を軽く叩かれた。
「フェリシア姉上、まぁ俺としても入って早々リリアナ様があんな事するのは予想外だったし気持ちはわからないでもないけど、色々混乱する前に首謀者が誰だったかぐらい確認したら?この部屋にはリリアナ様と殿下と俺達以外にももう一人居るでしょ?」
シェドの冷静な言葉にはっとする。そうだった、この部屋には居るはずだ。
恐らくリリちゃんが今自殺しようとした理由や俺様殿下の自暴自棄な様子の原因を握っている、リリちゃんを攫った今回の件の首謀者。エル。
ラスボスを前にその姿を確認すらしないなんて、私を殺してくださいと言わんばかりじゃないか。
意を決し、驚き続きで自然と狭まっていた視野を広くして部屋を見回した私は、ついにその人物を視認した。
「…へ?」
予想していなかった人物の姿に、気づけば私は息を漏らすようなまぬけな声を出していた。何度見直してもその姿は変わらない。
いや、だって、どうしてエルが?
「エヴァン君?」
そこに立って私を見ていたのは、茶髪緑目のわんこ属性な青年。エヴァン・ダグラス。レディロの攻略キャラの一人ではある…けど…。
いやいやいやいや、ま、待ってくれ。
婚約破棄された後に私とエヴァン君が会った回数はたったの一回。しかも婚約破棄翌日の朝に会ったっきり。その時も大して重要な会話はしておらず、わんこ属性で一途な彼に私はいつも通り猫を被って対応して、というかあんまり覚えていないんだけど確かただ話を流しただけで終わったような。
……彼がラスボスと言うにはあまりにも唐突過ぎるというか、ピンと来なく意味がわからない。そもそも彼の立場でエルの正体だというのは無理があるのでは?特別権力は持っていなかったはずだし、彼は私に片想いしていただけで私とは全然関わっていないのに。
「エヴァン君が、何で?だって、エヴァン君にリリちゃ…次期王妃様を攫う理由なんて、」
無いはずでしょう…?
動揺が明らさまに表れてしまい震える声のままに話し続けるはずだった言葉は、エヴァン君が私に向けた場にそぐわないあまりにも優しい笑顔によって途中から音に出来なくなった。
何?何で笑う?エヴァン君の全ては演技だった?エヴァン君の私への好意も何もかも、ただ演じていただけで、だからこそ今私を困らせて愉しんでいるから?
……違う。そういう笑顔じゃない。私はわかっている。
この笑顔は、シェドと一緒で、本物で、私を心から想っている。
「理由ならある。死刑となっても構わない程に。その為なら、喜んで死刑になろうと思える程に」
エヴァン君の瞳は揺るがない。その笑顔は、優しさは、信念は、ラスボスというよりはむしろ主人公だ。正義だ。
やっている事は罪の無いリリちゃんの誘拐なのに、どうしてそんな目を出来るのか。
「フェリシアさんは善良で高貴過ぎる。だから、」
「っ待って!!」
ソプラノの叫び声がエヴァン君の言葉を遮った。顔を向けた先に居たリリちゃんはいつの間にか立ち上がっていて、その手にはまたナイフを手にしていた。私は目を見張る。しまった、エヴァン君に気を取られて目を離し過ぎた!
エヴァン君が何か話してくれそうなところだったけど、とにかく今はリリちゃんからあれを取り上げるべきだ。しかし迂闊に近づく事は出来ない。
こ、ここはなんとかそっとバッグに手を入れもう一つ持っているフランスパンを取り出し…たらさすがにすぐバレますね?!目立たない茶色とはいえこの場でいきなりそんなもの取り出そうとしたら目立ちまくるわ!!
「レディローズは知らなくていい。何も知らない方がいい。エヴァン・ダグラス、貴方にとってもそうであるはずです。彼女は何も知らないままに次期王妃の座に戻る。それが貴方の望みで、…今の私の望みでもある。そうでしょう?」
「…そうだな、その通りだ」
私はリリちゃんを助けに、そして真実を知りに来たはずなのに、何故かリリちゃんは助けられる事を拒否するように自殺しかけ真実も知らなくていいと仰る。
てか私が王妃に戻る?それがエヴァン君とリリちゃんの望み?私は絶対嫌なんだけど、何でこの二人は私をそうしたがっている…?エルの正体がエヴァン君なんじゃなくて、エルによって二人共無意識に操られこういう考え方をしているとか…?
意図がわからない言葉の応酬に狼狽している私をよそに、リリちゃんが優しい笑顔で私に向き直った。けれどその手は、またナイフを自分の首元へと突きつけるように掲げている。下手な事を言うと今にも刺しそうで、かと言って何もしなくてもどっちにしろ刺しそうなそれに息を呑む。
「優しく綺麗なレディローズ、もう止めないでくださいね。私は最初からこうなる運命だったのです。捻じ曲がった未来を今、私の命をもって正しましょう」
運命なんてものを信じているから彼女は死ぬのか?そんなものを正す為に、自ら命を絶つと?
訳の分からなさと上手く行かない焦燥と、そしてリリちゃんの考え方への苛立ちで感情が昂り目に涙が滲む。
「私は王妃になんて――っ!」
なりたくないと言うより早く、そう言わせてももらえないままに、彼女はナイフを勢い良く振り下ろした。
距離を考えれば走っても間に合わない事は明白で、物を投げるにしてもパンを取り出す間がなく、鞄も肩から下ろし投げるにはこれもやはり時間が足りなくて、それはこの場に居る私以外のシェドやエヴァン君や俺様殿下も同様だった。
私はただ彼女の自殺を呆然と見ている事しか出来なかった。
赤色が飛び散った。