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ここの所危機一髪な状況に陥り過ぎて、その度にパンによる緊急回避をしている私としては、パンに深く傾倒しパン作りにさらに懸命に励むようになるのは至極当然の流れだと思う。


「ミシェルさんのパンって、凄いですよね」


パンを釜で焼きながら、まだ絶妙な焼き加減にする為に最初のチェックを入れる段階までには時間があるので額に浮いた汗を手拭いで拭き取りつつ、私はミシェルさんと雑談に興じていた。

開店時間まではまだ一時間以上あるので余裕があるわけだ。パン作りは兎も角、接客はもう細かい所まで完璧に熟せる私は物覚えが良い方だ。なので、開店前に急いで全種類パンを焼き上げなくても、私が店に出ている間にミシェルさんが追加のパンを焼く事も出来る。


「凄い?美味しいって事かい?」

「それは勿論なんですけど、私ミシェルさんのパンのお陰で助かりっぱなしなんです。奇跡のパンですよ」


私は大袈裟でも何でも無く尊敬の念を込めてミシェルさんを褒め称える。


「奇跡…ねぇ」


なのにそれに対し呟いたミシェルさんの顔は、嬉しくなさそうどころかむしろ苦い表情に見えた。私は慌てて口を開く。


「あの…もしかして私、何か失言してしまいましたか…?」

「ああ、いやいや?ただ、そんな気持ちでパンを作って来たわけじゃなかったから、変な気分になっただけさ」


苦笑したミシェルさんに、私はちょっと冷や冷やしていた気持ちをほっと落ち着けた。

そりゃそうだ、奇跡のパンなんていきなり言われても大抵の人は素っ頓狂な褒め方に困惑するだろう。


「あたしゃ、奇跡なんて大それたもんを起こすには器が小さ過ぎんだよ。近くに来てくれた人に美味しいって小さな幸せを感じてもらえるもんを作るので手一杯さ」


肩を竦めたミシェルさんは、何でも無い事のようにそう言った。それがどれだけ凄い事か。奇跡のような幸せは確かに多くの人が憧れるだろうけど、そんな奇跡を経験出来る人なんてほんの一握りだ。

大抵の人にとっては小さな幸せの積み重ねこそが、充実した人生に繋がる。


「充分、素敵だと思います。私も奇跡を起こすよりそういう人になりたい」


私はミシェルさんの言葉を噛み締める。王妃になるとか、歴史に名を残すとか、お金を山程手に入れたり人に敬われたり贅沢な暮らしをするより、私は平民として静かに優しく楽しく暮らしたい。小さな幸せを人に渡して、返されて。そういうの。

釜を覗き込みパンの焼き加減を見る。…もう少し、かな。後五分…よりは少し短く。


「フィーちゃんならどっちも上手くやれるよ。あんたは自分で思ってるよりずっと、世渡りが上手いんだから」


ミシェルさんの言葉に、パンに集中している私は笑みだけ浮かべる。

どっちも…どっちもか。でも私は元から、どっちも、なんて掴む気は無いんですよ。奇跡なんて起こすつもりは無い。それはいくら何でも、今まで好き勝手して来た私でも呆れる程に我が儘過ぎるから。全部手に入れられる程私は凄くないから、一番の望みだけを一心不乱に果たす為今日も努力を続ける。


釜から出したパンは、私の目には最高の焼き加減に見えた。会心の出来だ。ミシェルさんがまだ熱いパンを一つ小さく切り分け口に運ぶ。

私はそれを心臓の音を早めながら静かに見つめた。


「…うん、これなら店で出しても良い味だ。合格」


優しく笑ったミシェルさんに私は大きく目を見開く。次いで、胸の中から嬉しさが込み上げ溢れ出た。


「ほ、ほ、本当ですか…?!」

「勿論さ。あたしゃ嘘は吐かないよ」


私は子どものようにバンザイをした。こんなに嬉しいのは、俺様殿下に婚約破棄を言い渡してもらえたあの日以来だ。

俺様殿下といえば、彼は元気なんだろうか。そういえばリリちゃんの事ばかり気に掛けていて奴の事は全くその後を無視して来た。俺様殿下への気持ちが兄と似ている性質故の嫌悪と理想の兄を持つ境遇への嫉妬だと認めた身としては、今なら彼にもう少し優しい気持ちで接する事が出来るかもしれない。

いやでもやっぱそんなのどうでもいいや!やったー!!私のパンがミシェルさんに認めてもらえた!!



「じゃ、フィーちゃん明日から仕事休んでいいからね」


…?

私は喜び収まらぬまま、言葉の意味を頭で理解する事がままならず固まった。

数秒後漸く理解して、一瞬で喜びが霧散し代わりに血の気が引いて行く。


「……それ、は、もしかしてその…遠回しな解雇通告という…」


何だ。何がいけなかった。

私は真剣に考えた。やっぱりさっきの奇跡のパン発言が気に障ったんじゃないのかとか、実は私に自覚の無いところで仕事で超重大ミスでもやらかしていてクレームでも入ったんじゃないのかとか、そもそも私を雇わなくても一人でやって行けるしその方が気楽だと実感したのが今のタイミングだったのかとか、私があまりにもパンを好き過ぎる故に従業員じゃなく客として来させた方がよっぽど儲かりそうだと判断されたのかとか…それはもうありとあらゆる、それは無いだろうというものから有りそうというものまで原因になりそうな事を模索した。この間五秒。

きょとんとしたミシェルさんが笑い出すまで、私は絶望に打ちひしがれていた。


「あははは!違う違う!最近フィーちゃん大変そうだし、あたしゃあんたは今が正念場だと思ってんだよ。一週間は休んで体力温存しときなって事さ」

「え?あ、違う?!良かった…」


私は心から安堵した。ちょっと涙出た。絶望の余韻か嬉し泣きかは定かじゃない。

少し落ち着くと、今度は疑問が浮上する。


「何故、そう思うんですか…?それに一週間って期限は…?」


妙に具体的で違和感がある。素直に尋ねると、ミシェルさんはいい笑顔を浮かべる。


「あたしの勘がそう言ってんのさ。大丈夫だよ、一週間後に帰って来たらちゃーんと迎えたげるから」


まさかの勘。つまりほぼ無根拠。私が一週間も仕事を休まされる原因が、そんな訳が無い…そんな――

私は今までのミシェルさんとの思い出を振り返り、いやこの人結構思い込み激しいし強引だし嘘吐かないし、むしろそれが真実だという肯定要素しか無かった事に気付く。

ここはミシェルさんが休めと言っているんだから休もう。ミシェルさんのこれは百パーセント好意だろうから断り辛いし。


「…絶対ですよ?私が戻って来たら他のバイトの子が居た時は泣きますからね?」

「ああ、絶対さ」


優しい笑顔に頷き、私は時計を見て慌てて開店準備を始めた。


この一週間で私の中の天地を揺るがすような正しく大事件が起こるなんて、今の私には予想のしようも無い。

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