気がかりな過去
「ごめん、悪いけど受け取れないんだ」
「………」
僕が差し出された封筒を受け取らずに頭を下げると、彼女はサッと体を返し、グレーのチェック柄のスカートを翻して昇降口の方向へと駆け去っていった。
今年に入ってから、これで何回目だったっけ……。
放課後の中庭の奥、遊歩道の木の陰で鞄を持ち直し、スラックスのポケットに片手を突っ込んでため息をついていると、ふいに前方から声がした。
「三人目の犠牲者が出たか」
慌てて顔を上げた僕は、すぐに緊張を解いた。
「見てたの?」
木にもたれて立っていたのは健吾だった。
「偶然な。さすがは〈衝撃の美貌〉の息子。その顔は罪だぜ」
「僕、拓巳くんには似てないよ」
「確かに。だが整っていることには変わりない。親しみやすい分、おまえの顔のほうが女子には受ける」
まあ、拓巳くんほどになっちゃうと、声かける勇気も出ないか。
「しかしながら、強烈な求愛者を二人も持つおまえに告るとは。あれは中等部の二年だな? 情報が足りん。気にするな」
健吾は僕のそばに近寄ると、肩をポンッと叩いた。
「で? 二年生女子を断った和巳くんのお悩みはそんなことじゃないよな。今日一日のため息の原因を吐け。昨日の奉公で何があったんだ?」
「奉公……」
まあ、近いケド。
僕は健吾を見上げて苦笑した。
健吾とは、もう十年来の付き合いになる。僕より少しだけ背が高く、僕よりかなり世情に詳しい、気が合って頼れる大事な友達だ。うちの特殊な家庭事情を打ち明けられるありがたい存在でもある。そしてなにより、家庭揃ってロック好き、というのが大きい。
健吾のお父さんは、ワインバーを兼ね備えた隠れ家的レストランを切り盛りするシェフだ。拓巳くんも御用達の彼の店にはよくロックファンが集い、拓巳くんのファンも訪れたりする。
僕は昨日の顛末を健吾に説明した。
「拓巳くんと俊くんが険悪になっちゃって、撮影が中断しちゃってねぇ……」
結局、あのあと二人は破局した。
映像のプロデュースも手がける俊くんが、仏頂面の拓巳くんにダメ出しをしたのだ。
「その不機嫌ヅラを改めろっ。その顔のどこに〈世紀末の愁い〉が漂ってんだよ」
〈混沌の世紀末〉が今回の新曲を含むアルバムのテーマだ。
「コンセプトを無視するな。プロなら徹底しやがれ!」
すると拓巳くんはふいっと立ち上がり、「今日はヤメだ」と言ったきり、衣装部屋に引っ込んでしまった。
「拓巳くん!」
僕が追いかけようとすると、俊くんが止めた。
「いい、和巳。ほっとけ。今日はこれ以上やっても無駄だ」
そして撮影を中止にしてしまった。沖田さんが嘆いたのは言うまでもない。
「またかっ?」
「はぁ……」
僕は健吾を促すと、コンクリートテラスに座った。
拓巳くんのボイコットは今に始まったことではない。むしろ常習化してきている。しかし……。
「また原因がおまえを巡ってのことか。今度は何だ」
健吾はそのあたりの事情にも詳しい。
「どうも、僕が成長してきたから、拓巳くんの踏ん切りがつかなくなっちゃったらしいんだ」
「……息子が成長すると、ナンの踏ん切りがつかなくなるんだ?」
健吾の目が据わる。僕は苦笑して続けた。
「僕が、俊くんのアトリエに行くのが」
「つまり、マースの弟子にくれてやるのが惜しくなったと」
俊くんは、僕の絵の師匠だ。
迫力がありながら、繊細な色使いを見せる彼の絵は僕の憧れだ。二年前に金賞を取った僕の作品は、俊くんの作風を色濃く受け継いでいる。以来、アトリエへ修業に行くことは、拓巳くんも許可した僕のライフワークになった。はずなのだけど……。
「と、周囲は思ってるだろう。だが俺にはわかっているゾ。雅俊さんはおまえを弟子としてだけで見てるわけじゃないな?」
顔を上げると、健吾は茶化すでもなく真面目に言った。
「そして、拓巳さんも雅俊さんの本気を感じてる。だから取られまいとして対立する……前にもあったよな」
四年前、全国ツアーを再開するかどうかで揉めたとき、拓巳くんと俊くんは、僕への対応を巡って激しく対立した。そのことも実は僕のアトリエ通いに絡んでいる。
俊くんにとって、山手のアトリエはただの建物ではない。彼を支えてきた心の拠り所、おいそれとは他人を踏み込ませない聖域なのだ。
それは俊くんが十代半ばの頃、彼を慈しんで育てた芸術の師匠、義理の姉に当たる小夜子という女性から相続した、小倉家に伝わるセカンドハウスなのだという。
持ち主はプラチナと宝石で作られた二つの鍵を持ち、自分と心を分かち合える人を見出だしたとき、片方を託す。受け取った相手はいずれ建物を相続するのだ。
「俊くんが僕をどう見てるのか、健吾にはわかるの?」
「そりゃ。心を同じところに置いてる者同士だから」
おまえも好きなヒトを心に住まわせてみればわかるぜ~、と彼は歌うように言った。
俊くんがその鍵を託したのが、十一歳の僕だった。
ツアー再開騒動の時、拓巳くんを説得する姿が心を打った、と言うのだが、本心はわからない。でも、拓巳くんですら鍵を渡されたと知って一旦は絡むのをやめたほどなので、冗談でないことは確かだ。今、その鍵は金庫に眠り、一緒に贈られた極細プラチナチェーンが、ネクタイを締めたシャツの襟の下でひっそりと首にかかっている。
「夏のイベントで見たけど、ありゃ弟子に向けるだけの態度じゃないだろ?」
僕はため息をついた。
「拓巳くんを子離れさせて鍛えたいから、ワザと見せつけて僕から引き離そうとしているとも思えるんだけど」
実際、僕に対して必要以上に親しい態度をとるのは、拓巳くんの前であることが多い。
だから僕も、今のところは軽く流せるんだけどね……。
そんな心中などお見通しの健吾が突っ込んできた。
「それもあるかもな。でも、メインはあくまでもおまえさ」
アーティストは変わった嗜好の人も多いし、と彼は続けた。
「雅俊さんは、体質的にも厳密には〈男〉じゃないんだろ?」
「……うん」
俊くんは五分の二ほど女性を併せ持っている。世の中には、そういう体質の人が時々現れるのだという。芸能人でも公表している人が何人かいて、タイプも様々あるのだそうだ。
成長期の頃、俊くんは投薬で男性に近い状態を保っていたのだそうで、デビュー当時からそれはブログで公表していたらしい。その後、副作用が強くて薬はやめたとのことだから、今がどういう状態なのかは謎だ。
僕が初めてそれを俊くんの口から聞いたのは六年生の時だった。
けれども俊くん自身に何か変化があったわけではなかったので、そのときはあまり気にも留めず、「ふうん? でも、俊くんは俊くんでしょ?」とうっかりスルーしてしまった。それがまた心に響いたらしく、結果、誰憚ることなく彼は僕の伴侶を名乗るようになってしまったわけだ。
つまり、それだけ僕が子供だった、ってことだよね……。
もっとも、周囲のスタッフは「伴侶=師匠」と捉えているのだが。
「だから、おまえを求める気持ちがあっても不思議はないってことさ。まぁ、いくら雅俊さんの破天荒ぶりに慣れてるっていっても、おまえが戸惑うのはムリないよなぁ。でも、拓巳さんはそんなのとっくに把握してるはずだろ?」
そりゃそうだ。なにしろ〈T-ショック〉は結成されてからもう十七年になるのだ。
「俺がわからないのは、一度許可したにも関わらず、どうして今頃になって拓巳さんが動揺するのかだ。あの人は気分屋に見えるけど、実はしっかりケジメつけるよな」
僕は座り込んだテラスの上で足を抱えた。
「どうも、僕は亡くなった母親に生き写しらしいんだ」
「おまえを産んで半年で亡くなったっていう、お母さんにか?」
「……真嶋さんが言うには、『顔だけじゃなくて、仕草とか、ふと作る表情とかがそっくりだ』って。だから混同してしまうんじゃないかと……」
健吾は思い出したように言った。
「そういえば親父がコレクションしてるロック雑誌にも載ってたな。『命の期限を切られた恋人のため、先に結婚し、一子をもうけた』って。あれっておまえのことだろ?」
僕は頷いた。その文面だけでも、尋常でない内容だ。
「あの溺愛ぶりも、そっから来てんだろーな……その頃、拓巳さんはまだ十七、八くらいだったはずだけど、お母さんは年上だったのかな?」
「二つ上だった、って真嶋さんが」
どんな思いで若い二人が一緒になったのか。そのことを知る人はメンバーの他にはほとんどいない。沖田さんすら詳しくは知らないという。
かといって、不用意に拓巳くんに尋ねることはできない。それは大きなリスクをともなうからだ。俊くんも慎重で、小学生の頃に一度それとなく尋ねたら、「拓巳が自分から話す気になるまで待っていてくれるか」と切なげに返されたことがある。彼が陰で「いいかげん、根性据えろよっ」とせっついてくれているのを僕は知っている。
「だから、辛うじてそれだけ聞けたんだ」
膝の上に顎を乗せると、健吾は考え込むようにつぶやいた。
「うーん。混同するほど似てるのか」
「よくわからないけど、似てはいると思う。ほら」
僕は携帯を鞄から取り出すと、画面を操作し、一枚の画像を健吾の目の前にかざした。
「これ和巳だろ?」
「違うよ。よく見てよ」
画像を拡大にする。画像の中には、十代後半から二十歳前後に見える人が四人、写っていた。右端に俊くん、隣に拓巳くん。左端に祐さん。
拓巳くんや俊くんにあまり外見的な変化がないところがコワいが、祐さんは明らかに十歳ほど若い。コンサートか何かの時なのだろう、〈T-ショック〉の三人は衣装を着ている。そして拓巳くんの左隣には――。
「ホントだ。おまえより髪の癖が強いや。しかも、この拓巳さん……」
真ん中の二人が寄り添うように立っているのが、胸から上しか写していないにもかかわらず読み取れるほど、二人の雰囲気は優しかった。珍しく白系の衣装を着た拓巳くんが、柔らかい微笑みを注ぐ先にその人がいる。
「僕も驚いたよ。この拓巳くんの表情と、この人……」
紺色のスーツにネクタイを締めた、拓巳くんより一回りほど小柄な姿。小作りな頭、夜色の瞳、親しげな表情。どう見ても今の僕だ。
「これが、お母さん?」
「うん……こんなに似てるんじゃ、他に考えようがなくて」
しかも、昔から滅多に(僕以外に)笑顔を見せないことで有名な拓巳くんの、この聖母もかくやと言わんばかりの微笑み……。
「う~ん、この態度は、確かに意中の人へのものだよな」
健吾が腕を組んで頭を捻る。
「だが俺の疑問は別のところにできた」
その内容は想像がついた。だから健吾の言葉を聞いても動揺はしなかった。
「この人、男装の女の人っていうよりさ……」
男物のスーツがしっくりと馴染んだ姿は、どう見ても二十歳前後の女性のものとは思えなかった――。
足音が追いかけてくる。――速い。
僕は必死に逃げるのに、足音は容赦なく迫り、あっという間に後ろから襟をつかまれた。
手足をバタつかせて暴れると、何かがパシャリと浴びせられた。
――冷たいっ!
一瞬、体がすくむ。すぐに力強い手が濡れた服をつかみ、次々取り去っていく。
あまりの恐怖と寒さにガタガタと震えだすと、首に太い指が食い込んできた。そして――。
「――ぅわぁっ!」
「和巳っ!」
「……あ」
視界いっぱいに、俊くんの顔があった。アーモンド型の瞳が、まだ暗い寝室に点された小さな灯りを反射している。
「気がついたか」
俊くんは飛び起きたままの僕の肩を抱き、持っていたタオルで顔や首筋の汗を拭きはじめた。つかまれた肩から手のぬくもりが伝わってくる。ひとつ息をつき、僕は俊くんにもたれかかった。
僕を苛む悪夢――封印された記憶の陰から漏れる残照だ。
この悪夢がはじまったのはちょうど一年前だった。
そもそもは、僕がまだ四歳くらいの頃に起きた事件のせいらしい。全国ツアーで行った札幌で、当時のマネージャーの不手際によって僕への保育士の手配が滞り、コンサートの最中に誘拐され、乱暴されそうになった、というところから来ている。が、はっきりしたことはわからない。発見当時、俊くん以外に目撃者がおらず、彼も、相手が夜の繁華街の裏通りに逃げ去る姿しか捉えられなかったからだ。
記憶の残照に苛まれだしたのは、俊くんからその話を告げられた後だ。昨年の文化祭での出来事がそのきっかけだった。それを知った俊くんが、僕を土曜日に一泊させるようになった。
誘拐が発覚したとき、リーダーとしてコンサート続行の判断を下した俊くんは、その後、乱暴未遂を受けた僕への責任を、こうして果たそうとしている。
そう、これは責任を取ってるんであって、僕自身をどうこう、の話じゃない。
「さあ、横になれ。まだ朝には早い」
俊くんは肩を押して僕をベッドに横たえると、自分も隣に体を伸ばした。伝わる熱が僕の体に漂う疲労感を減らしていく。
ここはアトリエの二階にある俊くんの寝室――一年前、僕のベッドが置かれた部屋だ。
「土曜日の夜は大丈夫だったのか?」
ささやくように俊くんが聞いてきた。
「多分。拓巳くんには食事会のとき、レストランでワインいっぱい勧めたから」
「……だから昨日の朝、俺が迎えに行ったとき、珍しく出て来なかったのか」
「うん。二日酔いだからね」
僕はヒドいことをサラッと言った。でも拓巳くんにこの現状を知られるよりはましだ。そんなことになったら僕を心配するあまり――仕事をボイコットする。絶対。
「昨日も同じように朝方目が覚めたから多分。……毎回ごめんね、俊くん」
「そんなことはいい」
俊くんは僕の額に手をあて、濃い睫毛の目を閉じた。僕は手のひらから伝わる温もりを感じた。
夢から覚めてしばらくすると、記憶が曖昧になり、何を見たのかわからないまま不安だけが残る。昨日の朝もそうだった。今のところ平日にあまり夢は見ないし、僕が拓巳くんより早く起きる日はいいけれど、いつまでもこのままでいられるとも思えない。
ひとつ、口からため息が漏れたとき、俊くんの手から力が抜けた。
眠ったのだろうか。
ふと、健吾との会話を思い出した。
(雅俊さんは、おまえを弟子としてだけで見てるわけじゃないな?)
俊くんが実際のところ僕をどう考えているのか、正面から聞くのは恐い。母のこと、拓巳くんのこと、他に学校でのもろもろもあって、今の僕は正直、息切れ気味だ。
俊くんもきっとそれ、気づいてるんだよね。
何も言ってこないのがその証拠だ。
そこに甘えるのはいけないことだろうか――そんなことを考えていたら、いつの間にか僕も眠っていた。




