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アキュート

作者: 水無月旬


acute・①(事態が)ひどい、深刻な

②(知能・知覚などが)鋭い、鋭敏な、明敏な

③(病気などが)急性の

④(痛み・感情などが)激しい、強烈な

⑤鋭い、先のとがった、鋭利な


 向かっていた机の上には、分厚い水色の単語帳、ずらりと英単語が書かれたノートと右手に持たれたシャープペンシルがある。

 僕は英単語の勉強をしていた。明日は単語のテストがあって、丁度僕はその勉強をしている最中だった。

 とある単語に目が移り、それが載っている単語帳を見ていた。

 Acuteなんてcuteにaが付いただけで、随分と雰囲気の悪い意味の単語になるものだな、と思っていた。

 そう言えば確か、鋭角三角形をan acute triangleと言うのを聞いたことがあった。


 僕は高校一年生なのだが、少し気が小さい性格だった。

 人見知りで、友達もあまり多い方ではない。勉強は人並みにできるが、運動はからっきし駄目な方である。

 それ故に、僕の心の中での一人称はいつも『僕』だった。

 もちろん『外』では『僕』は恥ずかしいので、できるだけ、慣れていない『俺』を使って、そして慣れない男っぽい言葉遣いにも気をつけている。


 高校生になってやたらと勉強が難しくなったと感じているのは僕だけだろうか。午後7時から、今、午後十二時少し前まで勉強しているのに、それでも完璧とは言えなかった。

 その中でも英語という教科は、別に国際人を目指してもいない僕にとって快く受け入れがたい存在であった。


 単語の勉強を始めて、早五時間。僕は部屋にある、意外と背丈の高い鳩時計の方を見て、眠たい目を必死に拭っていた。

 そうしているうちに、時計の内側の文字盤に彫られている『TAKASHINA』というメーカー名が書かれている、その鳩時計は十二時に針を刺した瞬間なり始めた。

 深夜でもそれは五月蠅く鳴くことがなく、ただ僕に時間を教えてくれるだけの律儀な奴だった。

 正直、僕はその小さな音でもびくりと体をこわばらせてしまった。やはり気弱な僕である。

それでも僕はその時計が鳴るたびにいつもおびえている訳ではない。

 それは午前0時に限ってだという事を僕は知っている。

 そしてそのびくりと体をこわばらせ、心臓をドキドキさせた僕の身体は自然と、勉強をしていた二階の自室の出窓へと向かう。

 そして僕は思ってしまうのだった。こう思いたくはないのに。

(今日はいないのか…)

 残念だと思いたくはなかった。 


 僕の家は少し変わった所に聳え立っている。

 そう言っても、家が標高二千メートル級にあるとか、半径5キロ以内に隣人がいないとか、そう言う風な変わりようではなく。気にもしないが、気にすれば少し変わった所に建っている、というだけの話でもあった。

 僕の家の前には一本の普通のアスファルトでできた道が通っている。

 車一台分がギリギリで通れるほどの暗い道であり、僕の家の反対側、その道路に脇にはただの空き地がある。

 変わっているというのはその道路の事だった。

 その道路はある理由で人々から忌み嫌われている。

 その道路がつながっている先には、僕の家より南側に大学病院があり、また僕の家より北側を行くと葬祭場があるのだ。その両方が僕の家からは徒歩で一分もかからない。そんなところに僕の家はある。

 つまりその家の前を通っている道路は病院と斎場を繋いでいるのだ。

 人々がそれを、その道路を怖じ怖れている。

 端的に言ってしまえば、霊が出るのではないかと怖れているのだ。

 確かに、ここは普通の場所(学校とか、お店とか、会社とか)よりもそう言うもの(霊)に対する結びつきは強いのかもしれない。

 学校の怪談とかの手の物は、結局は噂がそもそもの元凶であるだけだと僕は思う。

 しかし、僕はそんな家に住んでいながら、そんな事が怖いだなんて一度も思ったことがない。みんな怖がりだよ、本当。

 家がその道路を必ず通らなければならない場所にある限り僕はそこを通らずにはいられない。生まれてから今まで何十回、何百回、もしかしたら何千回も通っている。もしこの道路を恐れていたのならば、気弱な僕はこんな家に住みたくないと泣き言交じりに言うだろうし、そもそもこんな道路の事を思い出すだけでも寒気が収まらないはずである。

 だから僕は、霊が怖いと思ったことは一度もなかった。

 それにははっきりとした理由があるからである。

 

 僕は幼少の頃より『霊』という存在が見えていた。


 僕は未だに僕自身を良く知っている訳ではないのでどんな種類の霊が見えるのかはわからないが、霊が見えるという事は本当である。

人の形をした幽霊。少し存在が薄く、そして体が少し浮いている。

家の南にある大学病院で死んだ者。事故に巻き込まれて、やっぱり病院で息絶えた者。さらには闘病の苦しみに耐えきれず、病院で自殺をしてしまう者、殺人事件で殺されてしまった者。例は少ないが、他にもいろいろである。

僕はそういう人、霊を見てきた。

そしてそれらはやはり必ず、家の北にある近くの斎場で葬られていった人たちだった。

病院で身体から抜けた魂が自らの肉体を求めて病院を出て、家の前の道路を通り、斎場へと向かっていく。

僕はそれを見ることが出来る。その迷うことなく、誰かに操られるように斎場へ向って行く彼らを。

傍観している場所はいつも、僕の家の二階の自室だった。今まさに必死に英単語の勉強をしている場所である。

僕の家は道路から南が病院、北が葬祭場だとすると、西側にあり、僕の部屋は家の二階の中でも東側にある。その部屋の出窓をベッドの上に乗って覗くと、丁度その道路が見えるのだ。

別に気味が悪いと感じたことはなかった。昔も、今も。逆に言ってしまえば、他人の眼から見てあからさまに気持ち悪いと思われる生の幼虫を平気な顔で食している異国民族のようだと自己啓発できる。

さらに最近ではそれがさらに加速し、自分が、霊たちが彷徨う様子を見ている事を気に入っていることに気が付いた。

自分でも些か残虐者だと思ってしまうのはしょうがないが、それを訂正しようとすると、気に入るというより、何より興味でそうしてしまっていると言った方が正しいのではないかと思う。

もちろん他人には自分に霊が見えるという事は誰にも話したことがなかった。

霊感というものがそもそも周りの人には無いようで、そもそも自分に霊が見えている事が霊感を持っているという事かも今の僕にはわからない。

家族ですら霊を見たという話をしていた(ためし)がない。家の前の道路が薄気味悪い、という話なら以前母親から聞いた。

結局は見えるか見えないかである。

僕は場の雰囲気から空恐ろしいものを感じれる訳でも、幻聴が聴こえるわけでもない。ただ家の前の道路を彷徨う幽霊が見えるだけだと思う。

そして何よりも僕には、自分一人でこの特異性を感じることに何よりも興味深いものがあったのだ。


今まで長い年月で僕がこの道路に関する情報は二つある。

一つはこの道の霊は必ず一日に二人以上は通らないことである。つまりはぞろぞろとふらふらしている落ち武者のような霊が歩いている訳ではなく、ぽつんと独り彷徨っているのである。

これは何となく理解できる。恐らく葬式が一つの斎場で二つできないから、斎場には必ず独りの霊しか来ることが出来ない、そう僕は解釈している。

そしてもう一つ。毎回深夜の十二時、午前零時になるとその存在(霊)は現れるのである。だから僕は十二時に部屋の出窓から覗けば、幾らかの確率で霊を見ることが出来る、という訳である。


しかし、今日は何も、誰もいなかった。

別に残念だとは思っていなかった。

誰かが通るたびにまた人が死んでしまったのかと分かると、それはそれで少し嫌な気分になったりするのだ。

残念だとは思いたくなかった。


僕は、もう寝ようと心に決めて、出窓を離れようとする。もう歯を磨いてあるので、あとはそのまま布団に飛び込むだけである。


だが、ふと僕は大学病院の、家の前の道から繋がる救急車専用出入り口から何か白い影が見えたような気がした。

真っ白い影を見たのではない。白い何かしらの残像が見えたのだ。

僕はもう一度出窓に体を寄せ、窓を開けてみた。

すると、今の季節は秋の季、九月のつごもりに差し掛かろうとしている最中なので、生暖かい空気がどっと僕の部屋の中に押し寄せた。

嫌な空気だった。九月の夜の風だと言えど、ここまでぞくっとする空気は初めてだ。風はあまり強くないが、嵐の前に流れる風のようだった。

そして僕は開けた窓から顔を出す。そして大学病院の方をまじまじと見た。


真夜中に純白が浮かんだ。


この闇の中、ただ一つ白色が見えた。

まるで異端な世界、次元が歪んで、まるで周りの闇を取り込んでいるような光景が広がった。

僕は先程の吹いている生暖かい風以上に背筋を凍らせることになった。


見えたのは、純白のワンピースを着た、長い黒髪の女性だった。


顔は見えなかった。髪が顔を隠していて、まるで幽霊の代表を名乗らんとするほどの容姿だった。

そしてその女性はふらふらとした足取りで病院からの道をまっすぐ進んだ。斎場へと。

僕はまた人が死んでしまったのだと悟った。

今日現れたという事は、明日あの女性の葬儀が行われるはずだ。


見たところその女性の歳はまだ若そうに見えた。

タンクトップ仕様のそのワンピースはその純白さ以上に真っ白い腕を生生しく見せており、その肌の質を見る限り、まだ成人もいっていないような体なのである。

恐らく僕と同い年、またはそれ以上。高校生か、大学生と言ったところだと思う。

僕は胸が痛くなった。こんな自分と同い年ぐらいの女の子が早くも死んでしまうというのは、見知れる人でなくとも、苦々しい思いがするのだ。


 純白の女性はひたすら斎場へと足を運んでいる。


 ように見えた。

 見えただけであって、実際はそうではなかった。


 その女性は僕の家の前から少し過ぎた後に、ふと立ち止まった。急に何かを思い出したかのようにも見えなくはなかった。

 すると僕の予想をはるかに超えて、その女性は僕の家の方へと振り返り、顔を上げたのだった。

 そして僕のいる方を、もはや必然のように見たのだった。

 彼女は元々僕がここに居ることを知っているのかのように僕と眼を合わせ、笑みを浮かべた。

 先程同様、長い黒髪が彼女の顔を覆い隠し、この道にただ一つだけある一本の外灯が彼女の笑みを浮かべた口元だけを映し出していた。


 僕はもう何とも言えなかった。

 さらにその女性は、僕の家のインターホンを押した。

 その瞬間、また僕の背筋はぞくっとする。

 音が鳴り響いた。機械で出された音は、小さくもなく、大きくもなく、ただその音だけを、空間に広げた。

 それでも、何故だが家中で自分以外にそのインターホンに気付いた人はおらず、少し気味が悪かった。少しどころじゃない、かなり気味が悪かった。

 それはたとえ、日常的に霊が見える僕であってもの事だった。


 僕は、そこから当然玄関へと出向く訳でもなく、訳が分からず自己嫌悪に陥った。

 僕の心境はこうだった。

 ついに罰が下ったのだ。

 霊を興味半分で見ていた自分が悪いのだ。

 自分はずっと悪い行いをしていた。

 僕はあの女性が、自分に何をするかのさえ想像がつかなかったが、今ここでは自分を責める以外の何もできなかった。


 僕はその心境から、一段と恐怖が増して、すぐさま寝ようとしていたベッドの掛布団の中へと潜りこんだ。

 きっと何かの悪夢だ。自分はたぶんこの世のものではない霊を創造的に見てしまっているのだ。またも、霊感の否定を僕はし続けた。自分に何度も言い聞かせた。

 しかしその女性はまたも、そして何度もインターホンを押してくるのだ。

 今度こそ家族の誰かが起きてくれるのではないかと心の中で願った。だが、それもただの願いでしかなかった。物音がインターホン後に全くしなかった。

 僕は居留守を心に決めた。

 先程目が合ってしまったせいで、僕がここに居るのはバレバレなのだが、こんな時に陽気に玄関へ迎える人なんて日本中、いや世界を探したっていないだろう。


 でも、もしかしたら、先程の女性、つまり今インターホンを何度も押している女性は普通の人間なのかもしれない。そう言う事も考えられなくはなかった。

 ただこの道路に迷い込んでしまっただけの白いワンピースを着た女性なのかもしれない。

 とも思った。だが、それはすぐに勘違いだと気づかされる。

 先程言ったように、今は九月の下旬。昼間はまだ夏のような暑さが残ってはいるものの、秋の夜の肌寒い時間帯にワンピースなんて着て出歩く女性がどこに居るのか。

 まして今は午前零時、女性が一人で出歩くには遅すぎる時間だ。


 信じがたいが彼女は明らかに死んだ人の霊だった。間違いない。

 しかも、変わったことに人の家のインターホンを押してくる霊。

 笑っていられなかった。

 僕は無視を続けた。只々恐ろしさだけが身に感じられる。背筋は寒気を感じ、嫌な冷や汗をかき、そして手足が震えている。肌全体には粟が立っている。

 やはり天罰が下ったんだ。僕はそう思い込んで、布団に包まり続ける。


「あの…私が見えますでしょうか?」

 一人の女性の声が急に大きく聞こえた。

 聞いたことのない声だった。するとこれは家族の誰の声でもないことが判明される。

 僕は恐る恐るでも振り向きたくはなかった。僕にはそんな勇気はなかった。

 振り向いた瞬間に口が裂けている白いワンピースを着た女性が立っていて、きっと僕を食い殺すに違いない。骨まで残ることがないだろう。


「もしもし、あの聞こえますでしょうか?」

 ずいぶんと口調が陽気にかんじられた。僕に話しかけているのだろう。きっと、インターホンを押しても僕が出ないから、わざわざこの部屋に来たのだ。幽霊ならば、壁を透けたり、瞬間移動ができてもおかしくはない。この部屋に来ることなど造作もないことだ。

 それでも僕は振り向いたりはしなかった。きっと陽気に話しているように見せかけるもの、|彼女等(口裂け女)のやり方なのだ。


「少し訊ねたいことがあるのですが、聞いてもらえないでしょうか」

 その女性は自分が無視されていることに気付きながらそう続けた。

 そして彼女はこう言ったのだ。

 僕は本当に天罰が下ったのだと思った。


「私はどうして死ぬのでしょうか?」

 彼女は確かにこう言ったのだ。


 僕は咄嗟に被っていた布団をどかして、声のする方向へと振り返る。

 もういっそ殺されるのなら、という気持ちもなしに、僕は彼女の方を向いた。

 僕は彼女が放った言葉の意味が気になって仕方がなかった。もうどうしようもできない。


『私はどうして死ぬのでしょうか?』

 

「今、なんて…」僕はその場に棒立ちになった。

「私はなぜ死ななければならないのでしょうか?」

 彼女は柔らかい表情をしていた。僕が考えていたものとは全く異なっていて、別に口が裂けている訳でもなく、恐ろしい形相をしている訳でもなく、彼女は只、柔らかい笑みを見せていた。

 彼女は先程窓の外から見たように、白いワンピースを着て僕の部屋の中に立っていた。

 さっきまで外に居たのに、靴を履いている訳でもなく、靴下をはいている訳でもなく、ただ透けるような白い素足で部屋に立っていた。しかも床から数センチ浮いた状態で。

 振り向いた後にその容姿で驚くことは特になかった。幽霊が少し浮いていることは元々知っている事だし、それでさえもいつも当たり前の事のようだと思ってしまう。

 僕が少し驚いたとすれば、今、僕の目の前で立ち尽くしている女性が先程までは長い黒髪で見えなかった顔が見え、それがなんともかわいらしく、目鼻立ちがそろっていて美しいという事だけであろうか。かわいらしいというよりも端麗と言った方が彼女の場合は合っている気がする。

 歳は顔からも判断でき、やはり僕と同じ高校生くらいに思えた。身長はワンピースを着ているせいか、数センチ浮いているせいなのかわからないが、少し高く見えた。


「なぜ死んだのかって?」

 甚だ理解がしがたかった。

「いいえ、何故死ななければならないでしょうかとお尋ねしました」

「それは…」

 僕は『それは同じことではないか』という口を閉じた。同じなのか?同じじゃないのか?僕にもそれは解らなかった。けれど僕に一番わからないことは、何故この女性はそのような事を訊いてくるのか、という事だった。

「あなたは死んだのですよね?」

幽霊に対して、そのような事を訊ねるのは不謹慎な気がしたのだが、彼女が、自分が死んだと理解していないのなら、ここで理解させておくのが、少しのご好意ってものだろう。

「いいえ、ちがいまっ、…いえ、死にました。恐らくそういう事になっているはずです」

「恐らく?」

 やっぱり彼女は死んだことを理解していないのではないだろうか。今までの会話から僕はそう判断してしまう。

 僕はもう彼女に察してもらえるように、疑問を浮かべた顔をしていた。先程から僕と彼女との間での会話がうまくかみ合っていないのだ。

「すみません、あなたは何か誤解のようなものをしていると見受けられます。そう、あなたのおっしゃる通り、私は死んだのです。しかし、何故私が死ぬようなことになったのか、私自身がよく分かっていないのです」彼女は如何にもお嬢様のような慇懃な口調でそう説明した。

 なんだ、死んだという自覚はあるのか。

「死んだ時の記憶がないのですか?」僕もつられて敬語になってしまった。

 僕は咄嗟にそう判断した。それ以外に何があるというのか。しかし、彼女は僕の予想とは真逆で、なぜか困ったような顔をして(かぶり)を振った。

「記憶がない、というのは正しい言い方なのかもしれませんが、私が記憶を無くしているのは死んだ時ではありません。具体的に申しますと、生物的に死んだ訳ではなく、人間として死んだ時に、私はそれ以前からの記憶を無くしているのです」

 僕は一瞬固まった。

 えっ、どういう事だ。頭の中で瞬時に思考をめぐらせたが、当然わからなく、僕はこんなに頭が悪かったのか、という勘違いまでしてしまう。

「どういう事?」

 僕はそう言う事しかできなかったのである。彼女の言っている言葉の意味が少しも理解できなかった。

 よくよく考えてみると最初から話がおかしい。

 会ったばかりの幽霊から、記憶を無くしたという件の話を持ち込まれることですら、僕の人生経験上、例がなかった。

 その上、僕の見えていた霊がこの道を通る時に、明瞭な意識があり、そしてまた自分に話しかけてくることなども、また例外中の例外であったからだ。

「少し理解していただく上では、見解が見え辛い言い回しだったのかもしれません。一から話をしましょう。聞いていただけますか」

 僕はゆっくり首を縦に振る。彼女の眼を見た。すると僕を見ているはずなのに、なぜか遠くを見るような眼をしていた。

 僕は何故自分が、首を縦に振ったのだろと、振った後に思い返す。

 ただ僕には、何故か彼女のそれを訊く権利があるような気がした。感覚的に言ってしまえばそういう事だった。

 僕は時計を見る。十二時半。夜はだんだんと深みを増す。

 彼女はその遠くを見るような顔をしたまま、すーっと息を吸い込み、まずこう切り出したのだ。

「私は二回死んだのです。一回目は人間としての死。つまり脳死ということです」

 彼女は未だ僕の部屋に立ったまま、浮いていた。


 僕は以外にも冷静だった。

 なぜか、彼女からそう告げられた後でも驚きはしなかった。冷徹なだけなのだろうか。それともあらかじめ身構えていたからだろうか。僕にはわからない。

 僕は自室のベッドに腰掛けたまま、立った状態で話す彼女の話を聞いていた。

「まず、一回目の死は絞殺による脳死でした。私はもうその時には既に霊になっておりました」

「脳死で、もう霊になるの?」

 僕は間を開けず尋ねる。心底驚きだった。

「どうやらそのようです。しかし霊になった私は、実はどうやって自分が死にかけたのかを見ることができなかったようです」

「どうして?身体(からだ)から出た時に見ることはできなかったの?」

 僕は彼女から確認も取らず、身体から出る(魂が)という表現を使った。普通の常識が通じない世界なのかな?

「確かに私は身体から抜け出しました。幽体離脱というのでしょうか。しかし私は脳死になるタイミングがよろしくなかったのだと思います。私が脳死後、初めて意識を確認し、自分が空間を浮いている事に気が付いたのは病室のベッドの真上でした。すぐそこの大学病院にある一室です。病院の窓から見えたのは私が住んでいた町なのでしょうか?それすら記憶にございませんが、太陽を浴びてキラキラと光る海と、そしてそこまで栄えていない田舎の風景がありました」

 その時僕は気が付いた。

「記憶がなくなってしまったのはその時だね」

 彼女はそう告げられたことに対し、特に驚く訳でも悲しい顔をする訳でもなく、平然と、そう、言うなれば無表情で。

「そうです。その時、私は自分が誰であるのかすらわかりませんでした。その時わかったことは、自分の下の名前と、決して眼を開けないだろう自分の顔と、そこからうっすら見える首に残る縄の文様のような痕でした」

 思い出す様にそう言った。

 えっ、ちょっと待って?

「どうして自分の名前だけ分かって、苗字は分からなかったの?」

 彼女は思い出す素振りを出さず、淡々と応えていく。

「私がしばらくその病院の室内を浮いていると、私の母親であるのか、『あけみ!あけみ!』とそう叫び、私の寝ているうえで泣きながら崩れ落ちる壮年の女性が病室に入ってきたので、よく見てみると、すぐ近くで寝ている私の顔に少し似ておりました。その時、私は母の顔と、自分の名前を知りました。ベッドの名札には確かに『明海』と書いてありました。苗字が分からなかったのは最初だけでした。漢字が読めなかったのです。高校の『高』に貝殻の『貝』で『たかしな』と読むそうです。私が浮いてから数日後、私の友だちだと思われる中学生ぐらいの少年や、少女たちが『たかしな!たかしな!』と言って私に呼びかけました」

「えっ、たかしな?」

「けれど、私は返事をすることができませんでした。その人たちが誰であるか記憶にございませんし、何より私は脳死状態ですから、話しかける事すらできないのです」

 僕の発した一瞬の声も、彼女の言葉によって遮られてしまった。彼女は思い出に浸るように遠くを見るような眼をして、まるで別世界を見ているかのような眼だった。

「それから、約半年が過ぎたあたりから、私の友だちが来なくなりました。寝続ける私の為に見舞いに来てくれる人は母親だけになりました」

「他にはいなかったの?その、お父さんとか、きょうだいとか」

 僕はなんと無神経な事を訊いてしまったのか、言った後すぐに気が付いた。

「きょうだいがいたのかは知りませんが、父親はいたようです。しかし…」

「いや、ごめん…言いたくなかったよね。ごめん、本当に変な事訊いて」

「いえ、私は父親がいるのかどうかをここ最近まで知りませんでした。父親の話を一回だけ母から聞いたことがあるのです。母は、聞こえているのか、聞いているのか分からない私に向かって『あなたの父親はサファイアが好きだったのよ』と、それだけ言いました。それがどういう意味であるのかは、私は分かりませんでしたが、その時に一つだけ思い出した事があるのです」

「それは、どういう事を?」

「時計です」

 彼女は間髪なく応えた。

「置時計です。大きなサファイアの入っている小さな時計の事を思い出しました」

「置時計?」

「そうです。私が命と同じくらいに大切にしていた時計。木製でできた四角い輪郭と丸い文字盤、それに書かれているギリシアの時計数字。文字盤の上には何か文字が書いてあったような気がしましたが、それだけ忘れてしまいました。文字盤の下方で平らに回る仕組みになっているサファイアがはめ込まれた時計。何故私はその時計の事を忘れてしまっていたのだろう。と思わせる位にその時計の事は大切にしていたのです」

 時計と彼女の死に何の関係があるのだろうか。僕はこう思った。

 彼女はまだ話を続ける。夜は深くなる一方だ。

「けれど、入院生活の話です。よく周りを見るとおかしなことがありました」

「おかしな事?」

「はい。それは、なぜこんなにもその時計を大切にしていたのに、私の寝ている病室にはその時計が置かれていなかったのか、という事です」

 そんな事言われても…。

「どこにもなかったの?」

「はい。私は死ぬこと、つまり息が止まる以外に二度とこの場所を離れることはできないのに、私のお見舞いに来てくれていた母は何故あんなにも大切にしていた時計を私の元に持ってきてくれなかったのか。私は自分の身体を離れて家に行って確かめたいけれど、しかしながら体をはなれることができなかったのです。それに家の場所はもうすっかり忘れてしまっているので…」

 僕は考えてみた。

 ただその彼女の母親がその時計が盗まれると困るから持ってこなかったのではないだろうか。偽物であるか、本物であるのか僕には分からないけれど、サファイアがはめ込まれていると彼女は言っていたし。

 僕は考え込んで、考え込んだ末にこう言った。

「その病室での事をもっと教えて欲しい」

 なぜ自分がこんな事を言ったのかが理解できなかったが、ただ妙な胸騒ぎがして、このままではいられなかったのだ。

「はい、そのつもりです」

 彼女はまたも笑顔になって応えた。まるで死んだ人には見えないくらいに。

「もう一つだけおかしな点があったのです」

「うん…」

「おかしな点というよりも、私が気になった点と申しましょうか。それは病室での母の言動です。私は殺された、と申しました。けれども分かっていることは、私が絞殺で死んだという事だけ、それ以外は全く知りません。気になったのはここからです。私が寝ている病室には何故か警察が訪ねてくることもなく、さらに私の前で一切、母は殺人の事は語らなかったのです………。少し変に思った事があるでしょう。意識のない私に母が語り掛けてくるなんておかしいと思ったでしょう?」

 彼女は僕の顔を覗き込むように言った。

 確かに僕はそう感じていた。父親のサファイアの話もそう思った。

「母はとても優しい方でした。例え私に意識がないとしても、私が話せなくても、目に見えていない、浮いている私が例え母の事を忘れていたとしても、母は私に良く話しかけてくれていたのです。今日あったことをまるで私の前でまるで自慢話でもするように話し、私が目を覚ました時に世間についていけるように、時には新聞を読んでくれたり、本を読んでくれたり、母はそういう人だったのです」

「だから気になるの?」

 彼女は首を縦に振って頷いて見せた。

「そうです。もう私が殺されてしまった事件の事以外の事なら話し尽くしてしまったというほど、母は私に話してはくれないのです。そのことについてだけ、私の中で大きく穴が開いていたのです。そこで私は一つだけ考えたことがあるのです」

「それは…?」僕は固唾を呑んだ。

「私の殺人事件はもう収束されている、そう考えました。そう驚く事ではありません。私の事件はもう犯人が分かっていて、捕まっている。だからもう調べる必要がなくて、母もそのことはなるべく口にしないようにしたのでしょう」

「それだったらさっきの疑問点は解決されるね」

 僕はそう言いながら自分に言い聞かせた。そういう事なんだ、と。実は僕にもこの考えは浮かんでいた。

 僕はしばらく、頭の中で色々と考え事をしていたのだが、彼女がまた話し始めたので、耳を傾ける。

「実はここから今回の事で一番大事な話になります」

 僕は彼女の説明に対し、少なからず話し上手だと思った。中途に時計の話で道草を食ってしまったが、どれも順を追って聞きやすい。実際にあった体験談を述べ、自分がどう思ったのか、確かな疑問点を投げかける。

 その彼女がこれから大事である。と言った。これは本当に大事なのだろう。

 僕は一層眼を彼女に向けて、心して聞いた。

「私の二回目の死に際にあったことです」


「二回目はナイフで刺されてしにました。今回も殺人です。しかし私は犯人を覚えていません」

「なんで?中に浮いていたんじゃないの?」

 僕は最もだと思われる意見を言った。

「確かに私は浮いていました。けれども、こればかりは少し恥ずかしいことなのですが、私はよそ見をしていたのです」

「はい?」あれ、よく聞こえなかったぞ?

「殺される前、瞬間だったと思います。今から考えるとよそ見をするのを窺ったように殺人が行われたような気がします。言い訳じゃないですよ。私はその時、病室から外の海を眺めていたのです」

 その時、僕は失礼ながらも彼女はドジっ子であるのではないかと思ってしまった。

 一回目の死は病室に入るまで気づかないし、二回目の死はよそ見をしていただって?

 まあ、そうでもなければ、こんな僕にこんな話をしてこないだろうとは思うけれど…。

「ナイフで刺されたと知ったのはいつ?」

「殺されたすぐ後の事だと思います。何となくよそ見をしながら宙を浮いている私の身体でも異変を感じたようになり、ふとよそ見をしていた眼を自分の寝ている体に戻したところ、ナイフが突き立っていて、ベッドの布団が血で染まっていました。そして気が付いたときには、夜のここの道路に立っていた、という事です。そこで私はすぐに死んだのだと思いました」

「その時に母親のお見舞いはなかったの?」

「いえ、最近になって、母は見舞いに来てくれる日が多かったのですが、その日には来ていませんでした。でも、たぶん私が死んだ時間帯の少し後に来る予定ではなかったのではないかとおもわれます」

「母親のお見舞いは週に何回程あったの?」

「大体週に三回ほどでした。しかし、私が死ぬ数ヶ月前から母は私の元に毎日来るようになりました。母は仕事とお見舞いを掛け持ちしていたようで、毎日来るようになってからはだんだんと(やつ)れていっているように見えました」

「なんで毎日来るようになったのか心あたりはあるの?」

 僕はこの時からだろうか、何かが解り始めていたのかもしれない。

 それでも未だ確信が持てなかった。何かここから先は踏み込んではいけない気がしてきて、僕の内側の心は必死に僕を止めようとするのだが、僕の無意識という名の人格が、僕をまた妙な胸騒ぎがして、僕の中を制御する。

「これがその質問の答えになるのかはわかりませんが…」

「なんでもいいから言ってみて」

「私が病院に入ってから既に一年が経とうとしていました」

 僕は、彼女に会ったばかりの事を思い出した。今ももちろん会ったばかりだけれども、もっと前の事だ。

 彼女はもう一度僕に向かってこう言った。

「私はどうして死ぬのでしょう?」

 僕はどう思ったのだろう。


 どうしても彼女に言わなければならないのか、僕はそればかりを考えていた。

 いや、彼女にだって知らなくてもいいことだってあるはずではないのか。

 何を言っているのか。

 僕はある一つの結論に持っていくことができた。しかしそれが本当であるのかが分からなかった。

 なぜなら本当の正解を知る者がいないから、ただそれだけだ。

「ごめん、丁寧に説明してもらったけれど、僕には分からなかったよ」

 全然心のこもっていない声、口調で僕はこう言った。自分でも分かるのだ。

 僕は嘘が苦手なのだろうか。やはり気弱な僕だ。

「えっ?本当に解らなかったのですか?隠し事は止めてください。あなたは今、確かに何かが分かったような顔をしていたのです。私はあなたにすべてを話しました。だからあなたは私にすべてを話す義務があると思うのです」

 どうやら彼女はすぐに分かってしまった様だ。彼女が慧眼なのか、それとも僕の演技があまりに下手だったのかどうかは分からないけれど、彼女は今までしていた笑顔をすべて捨てたように真面目に、そして真剣に僕の顔を見ていた。

 正直困ってしまった。僕だって本当は真実を話せることなら話した方が良いと思う。けれどこれはあまりに彼女にとって辛すぎる出来事であったのだ。

「ごめん、嘘をついてた」

 僕はもう正直にそう言った。もう嘘がばれている時点で、これ以上守り切れないと思ったからである。

「どうして嘘をついたのですか?」

 彼女は落ち着いて言及してきた。怒っている訳でもないのに、何となく身を引いてしまう。

「僕が君に話したくなかったから」

「そんな事は分かっています。だからどうして言いたくなかったのですか?」

 彼女は強意をつけ僕に迫ってくる。

 そんな事を言われても…小心者の自分にとって彼女が言う言葉は決して怖くはないのだけれど棘があるように思えた。なんだかよく分からない心臓に直接刺さってくるような溶けがあった。

 僕は一度深呼吸をしてみた。まるで僕の中の空気を全部取り替えるように、まるで僕の中の不純物を取り出すかのように。

「僕は君が知りたい事が分かった。けれどそれが君にとって苦痛になりえるものだと思った。だから僕は君には言えない」

「そんな、結末が良くないものだなんて私にもわかっているんです!」

 彼女は息を荒くし、僕に迫り、僕を咎めた。

「悪い結果が出るのは目に見えているんです。もう私は二回も殺されているのですよ?それが知りたくないなら私は自分を殺した犯人が誰だなんて追究したくはありません。ただ私は…」

 僕ただ驚く事しかできなかった。けれど彼女の眼を見ると、彼女の眼はずっと変わらずに、純真で、誠実な眼をしていた。

「私は自分を殺した人がいるのなら私は彼女に憎まれていた。という事になります。私は憎んでいた人が誰か分からないままに死ぬのが嫌なのです。だたそれだけなのです」

 僕はまた一歩彼女から身を引いた。この部屋はそこまで広くはない。もう詰め寄られそうだった。

 そして僕は単純ながらも、何かもう彼女に話してもいいような気がした。今まであった躊躇い、葛藤が彼女の言葉によって綺麗に消えてしまったように思えた。

「わかった」僕自身も覚悟してこの一言を言った。

 なぜなら僕が今から話すことはあたりに哀愁と慈愛に満ち溢れ、生半可な気持ちでいると、押しつぶされそうな圧迫感があったからである。


「まず、最初にこのことは言っておかなければならないと思う」

「はい」

 彼女は心配そうな顔つきだった。覚悟はあったもののやはり不安なのであろうか。

「僕が言う事に納得してくれとは言わない。けれど何を言っても反論しないでほしい、君に確かな記憶がない今、僕はただ君の話からできる想像の事を言うだけなのだから」

「わかりました」

 彼女がそう言うと、辺りの空気が一変したように思えた。僕は先程考えに至った結論と不確かな理由を反芻して、推敲して、話す事柄の順番を組み立てた。なるべく言い洩らしや、勘違いを起してほしくはなかった。

「まず、最初の脳死の事よりも、二回目の死についてから話すよ。一回目の死が二回目の死に直接的に結びついているから。そして二回目の死は言うまでもなく君が言う通り、殺人事件だった。その犯人は…」

 僕は彼女を見つめた。端麗な彼女の顔に緊張が現れていて、固唾を呑む様子が感じられた。

 僕は口を徐に開けた。

「君の母親だよ」

 そう言うと、僕の小さな自室に沈黙が残り、そして余韻が残る。聞こえるのは僕の部屋にある大きな鳩時計の秒針の動く音だけ。

 彼女は驚いている様子ではなかった。僕の次の第一声を待っているかのようにも見え、僕は次に言うべきことを頭に浮かべた。

「理由はさっき言った通りに、一回目の死に関係があって、じゃあ、一回目の死は何故起こったのか、というと……君が自殺したんだ」

「えっ」短い声が聴こえ、そして彼女はそう言ったきり言葉を失った。見ていても彼女の頭が真っ白になる様子が分かり、そのまま固まっていた。

 やはり彼女は僕の思っている、想像していた通りの反応をした。

 彼女は母親に殺されたのは分かっていた。だけど、自分が自殺したことは分かっていなかったようだ。恐らく、それを彼女が知っていたのなら、たぶん母親が自分を殺した理由も分かるはずだからである。

「僕が自殺と考えた理由はいくつかある。まず一つ、君の苗字について」

「私の苗字…ですか」

「そう。君の苗字に関して、一つだけおかしい所があったんだ。それは君の苗字の読み方について、君は記憶を無くした時の話でこう言っていたよね。漢字が読めなかった。高いに貝で『たかしな』と読むと」

 彼女は深く考え込むようにこくりと頷いた。

「はい、確かに言いました」

「ふつうは『高貝』で『たかしな』なんて読みはしないんだ。これは普通に『たかがい』とか『こうがい』『たかかい』って読むんだ」

「そうなんですか。それで、それと一体どういう関係が?」

「問題は、なぜ君が『たかしな』と間違えたのか、という事」

 彼女は僕が言う前に即座に応えた。

「それは私の同級生が『たかしな』と呼んでいたからです」

「そうだよね。だけどそこが問題だった。なぜ君は『高貝』であるのに、『たかしな』と呼ばれていたのか、それは単純な事だったよ。君の苗字が変わったんだ。つまりね、苗字が変わったという事は…」

「両親の離婚ですね」

 彼女は冷徹な声で淡々と言った。彼女に言わせるつもりはなかったが、少しもったいぶった言い方をし過ぎたのかもしれない。

「そう…しかも恐らく、君が脳死になる少し前に。だから君の同級生はそれを知らずに『たかしな』と呼んだんだ」

「そういう事だったのですか」

 彼女は少し寂しそうな顔をしていた。自分の父親が見舞いに来ないから、何となくは離婚だろうと予想くらいはしていたのだろうけれど、やはり他人からそう肯定されてしまうと、否定もできないだろうし、何か辛い思いがあるのだと思った。

「君は脳死になってから一年経つと言っていたね。そして今は九月。君の同級生は半年を過ぎたあたりから見舞いに来なくなったとも言っていたね。それは恐らく、君は今僕と同い年で高校生と言う仮定もできるんじゃないかな?中学を卒業して高校生になった同級生は忙しくてお見舞いに来ることはできなかった。だから君の変わった苗字を呼ぶ人はいなくなってしまったとも考えられるよ」

 彼女は、ああ、と言った風に何か思いついた、思い出したような晴れた顔つきをしていた。

「納得です。確かに私の容姿から見れば高校生に見えますし、見舞いに来なくなったのは受験の時期である一月あたりからです」

 僕はそのあとすぐに付け加えた。

「でも本当の問題はそこじゃないよ」

「えっ?」

「問題は君の前の苗字、旧姓とでもいうのかな、その『たかしな』についてなんだ」

 彼女はどうも不思議に思ったらしく、考え事をしているような上の空の顔で訊ねてきた。

『なぜ、私の前の苗字が関係あるのですか?』

 僕の自信は然程なかったが、はっきりとこう応えた。

「『たかしな』は恐らく、高校の『高』に階段の『階』で『高階』と書くと思うんだ」

「どうして、そのようなことまで分かるのですか?」

「鍵は君のただ唯一に覚えていたという時計」

「あのサファイアの時計ですか?」

 僕は確かめるようにして、自分の部屋の鳩時計の上部に刻まれているメーカー名を見て(おもむろ)に口を開いた。

「そう、その時計。『高階』というのは、時計のメーカーの名前なんだよ」

 僕は改めて鳩時計を見る。そこにはしっかりと『TAKASHINA』と刻まれていた。

「え、という事は…」彼女は驚いた顔をしながらも、冷静な顔つきだった。

 そして察することも早かった。

「君はその時計メーカーの会社の社長の娘だと思う。その会社はこの地域に発展しているんだ。だから、ほら、僕の部屋のその時計もそうだよ。そして、もちろん君は記憶にないだろうけれど、その会社はここ数年、確か一、二年前に倒産してしまったんだ」

 僕はさらりと言ってしまった。

「倒、産…」

 感情を入れて言ってしまうと、何か彼女にも嫌な思いをさせてしまうかもしれなかった。それが怖くて、僕はあくまで冷静でいようと試みた。

「倒産してしまい、君の家族は今まで通りに生活をすることができなくなってしまった。聞いた話だと『TAKASHINA』は大きな借金を抱えてしまったそうだ。だから君の母親は借金から逃げようとして、君を連れて離婚した」

「そんな…そんな、でも、私が社長の娘なんて決まった話ではないではありませんか!」

「落ち着いて、最初に言ったこと忘れないで」

 彼女は、はっ、と誰かから気づかされるようにして、そして落ち着きと冷静さを取り戻した。故意に肩の力を抜いている脱力感が彼女の気持ちを物語っているようだった。

「確かに信じたくない事だと思う。けれど、実際に『TAKASHINA』という会社はこの地域にあるし、君の元の苗字が『たかしな』という事も事実だった。そして君の話を聞いていて、君の話し方、つまり口調にも実はヒントがあったんだ。本来なら普通の高校生はそこまで慇懃な物言いをしない。まして、同年齢の男子高校生に対して。それに僕は男子の中では小柄な方なんだ。もしかしたら君だって、僕の事を中学生だと思っていたっておかしくはないよ」

 すると彼女は少し驚いたように、

「えっ?高校生だったのですか。失礼ながら、てっきりあなたを中学生と勘違いしてしまいました」

 ずいぶん率直だな。

「その丁寧な話し方を聞いて、最初に僕は君が普通の高校生では無いような気がしていた。そしてもう一つ、何より大切だったのは時計の事。その時計に入っているサファイアはやはり本物ではないかと思い始めたんだ」

「誰が偽物だなんて言いましたか」彼女は少し頬を膨らませ、怒った様な顔をする。

「ごめん、ごめん。そして僕は君が時計を何より大切にしていたと聞いて、時計メーカーの社長の娘としてふさわしいものだと判断したんだ」

「確かにそうですね。記憶にただ一つだけ残っていたものが時計だったのですから…」

 彼女はその時計を懐かしそうに思い出しているようだ。彼女の中ではすぐに思い出せるものでも、記憶に残ってるものがそれしかないのだから、彼女にとってはやっぱり大切なものだったんだと思う。

 僕は彼女を見ながらそんな感傷に浸っていた。そしてすぐに頭を切り替え、次に言わなければいけない事を整理した。

 僕から緊張がとけることはなかった。僕は次の事を話さなきゃ、と思っても、僕はまたこれを言わなくてはならない。

「そしてあなたは自殺した」

 胸が苦しんだ。

 彼女はもう何度も自分の身体で、心で受け入れようとしているようで、僕の苦汁の言葉にも動じなかった。

「しかし、なぜ私は自殺なんかしたのでしょう」

 僕は驚いて顔を上げた。彼女を見た。

 彼女は自分のした行いに『なんか』をつけて自分を非難しているようにも聞こえた。

 それでも僕はあえて普通に応える。僕は必死に言葉を探して紡いで、そして彼女に告げる。僕が言いたいことはこれからなんだ。

「ここから先は、自殺する当時の君の事と、君の母親の心境を想像して、推理した結果を言うよ。だから困惑しないでほしい。そして、僕は推理という主観的な考え方で、真実から脱してしまうかもしれない。だから君にお願いがある。もし、君の視点から、何かおかしいと思うことがあったら、頭ごなしに否定するのではなくて、理由もはっきりと言ってほしいんだ」

 僕はさっきまで自分を思いかえす。

 僕は推理なんて生まれたから一度もしたことがなかった。だから、本当はこんなことは引き受けたくなかった。引き受けられなかった。もし彼女の期待にそぐわない形で僕が結果を残してしまったら僕はきっと自分に絶望するだろう。

 けれど僕は引き受けなければならない理由があった。

 それは、彼女が死人であって、僕には霊が見えるから。

 ただそれだけ。それ以外の理由はなかった。

「はい、わかりました。続きをお願いします」彼女は律儀に礼をする。

「わかった。じゃあ、まずさっきの続き、君が自殺した理由について。 君は恐らく母親を助けたかったのだと思う。僕にはそれしか考えられなかった」

「助けたかった…母を?」

「うん、もう一度言うけど、君の両親は離婚してしまった。そして君は母親と二人暮らしになってしまった。きっとこれは今まで高貴な生活をしていた君たちにとってすごく辛いものだったと思う。貯金もない、あるとしたら借金。生活していくのにも精一杯。君の母親は仕事も家事もしながら君の生活まで支えなければならなかった」

 僕は自分でもひどく残酷な事を言っていると自覚していた。分かっていた。聞いている以上に自分が分かっていた。それでも僕はこう表現せざるを得なかった。それでも彼女が真摯に受け止めてくれていた。僕はそれが嬉しかった。

「心優しい君は思ったんだ。何とか離婚で苦しんでいる母親の生活の苦しさから解決してあげたい、そう君は思った」

「それで私は自殺したのですね」

 僕は深くうなずいた。

 彼女はそう聞いたものの、彼女の方を見てみると、何か不満そうで、納得がいかないようで、それでも自分がどうして自殺なんてしてしまったのだろうと思い悩んでいるように見えた。

「自殺の理由ははっきりとした理由があるよ。それは病室で一回目の死である絞殺の事が一切話されていなかった、という事。君は首に縄のような痕が残っていたと言っていたね」

「はあ、それは確かです。流石に一年という時間が経って薄くなっていますが」

「それは本当に絞殺の痕なの?」

「どういうことですか」

「ただの首絞めの痕、と言っても二種類あるよ。絞殺による殺人と縊死(いし)による自殺、これは分かる?」

 彼女は何も言わず、ただ頷いて見せた。

「そして、僕が言いたいのは、ただの首絞めの痕でも、実際は、わずか少しだけ、絞殺と縊死によって残ってしまう縄の痕は違ってくるんだよ」

「そうなのですか」彼女は僕の方へ顔を前に出し、そう尋ねた。

 僕もそんな事を彼女が知っていたら逆に驚いてしまう。僕が何故こんな事を知っているのかと言えば、最近読んだ推理小説で偶々探偵役がこのような事を言っていたのを思い出したからだった。

「どっちがどう違ってくるまでは知らないけれど、確かにそう。しかもそれは警察が分かる位の差であるらしい」

「でも…」彼女は小さい声を出す。口元がほとんど動いていなかった。

「そう、警察は一回も君の病室へ訪れなかった。これは何故なのか、恐らく、君の幽体離脱までの時間差にもう検査は終わっていたんだ」

「どうしてそんな事が分かるんですか?警察ならもっと入念に捜査をしてくれてもいいじゃないですか!」

 彼女は怒っていた。まるで警察に怒っているようでも、僕が起こられているようだった。警察が自分を見捨てたような行動をとったことが気に入らないのか、それとも僕が根拠のない推理ばかりを言うからだろうか。でも僕にはまだ言いたいことがあるんだ。僕の推理にとって必要な事を言わなければならないんだ。

「遺書だと思う」

 彼女は切らしていた呼吸を一瞬にして止めたようだった。

「君は遺書を残したんだ。だから警察は君の脳死、首絞めを自殺だと判断できた」

「なんで、また…遺書なんて」

 彼女はまた少しずつ息を荒くしていた。

「遺書も僕の勝手な想像にすぎないけれど、遺書がある事によって、何もかも説明ができる。少し長い話になるけど聞いて欲しい」

 彼女は少し考え込んだ後に

「わかりました。それで全てが分かるのだとしたら、私にそれを聞く以外の選択肢は残されていません」

 彼女は何か元気の無いように思えた。やはり真実を聞くことが怖いのだろうか。僕はまた彼女を心配してしまう。

 僕はそんな事を考えながら自分がつくづく変わった人間だと再確認する。

 霊が見えて、霊と話ができて、霊の頼みごとを聞く、霊を助けてあげる。

 その霊が彼女だったからかもしれない。

 僕の心の奥底ではそう感じているような気がした。

 死人なのに、まるで生きているように美しくて、それでもこの世の人だとは思えなくて。

 僕はそんな人と話をしてる。やっぱり僕は変わり者だ。

 そして何より臆病なんだ。

 僕はそんな彼女ともうすぐでお別れしてしまわなければならないと感じていた。元々それが分かっていたからそこまで辛くはないのだけれど、今まで僕に気付くことなく素通りしてしまった霊たちと比べて、彼女は僕にとって特別な存在になったと思う。

 僕は長話で喉に渇きを感じて喉を潤したかったが、そんな暇はなかった。僕がこの自分の部屋から立ち去ってしまうと、なぜか彼女が消えてしまいそうな気がしたからだ。

 だから僕は別れを決意して、彼女にすべてを話そう。

「遺書には恐らくこのような事が書かれていた。『母親の為に自分は死んだ。そして自分が死んだら、部屋にあるサファイアの時計を売ってくれ。』とサファイアは本物だと君が言っていたね、君の記憶をあてにするのもなんだけど、唯一覚えていたことが時計の事だったのだから信憑性はある。サファイアは当然売ればお金になる。だから君の母親はその通りに時計を売った。だから君の病室には時計がなかったのだと思う。これは僕の完璧な想像なんだけれど、だから君は唯一に覚えていたことが時計の事だけだったのかもしれないと思う。遺書に売るように書いてから、死んだとしても禍根を残さず自分がしっかり思い出せるようにと。そして君の母親の為に生活費を払わなくて済むように自殺した。君が大切にしていた時計を、母親が売ってくれるようにと自殺した。けれども君が(おこな)ったことはただの自殺未遂にしかならなかった。君はその、自殺したい、母親を助けたい、という思いを忘れ、時計の事だけを思い出して幽体離脱をした。病院の中で一年間過ごし、病院の中で一年間浮き続けた。そこで見たのは、窶れた母親の姿。君は思ったはずだ、父親は何処なのか、離婚してしまったのか、生活は大変なのか。そう、確かに生活は大変だったんだ。なぜなら君の入院費が借金を抱えている者としては膨大な金額だったから。じゃあなぜ君の母親はそこまでして、窶れるまでして君を脳死状態のまま生きさせ続けたのか、現在の世の中から考えると、改正された臓器提供の制度で、家族の意志のみで脳死患者から臓器提供ができるようになった。けれども、君の母親はそれをしなかった。それは何故なのか…これからは本当に覚悟して聞いて欲しい。僕だってこんなことは言いたくない、本当に悲しくて、言う方も辛くて、本当に言いたくないのだけれど…」

 僕は唇を噛んだ。唇は切れて、血の味がして、それでも噛み続けた。

 そして口を開けた。

「君の母親は君を臓器提供の形として、他人の身体で、他人の魂で、君の臓器を生かせたくはなかったんだ。なぜなら、君は母親を助けるために自殺した。自ら死を望んだ者だ。そんな君を母親はその臓器提供の形でさえも生かせたくはなかったんだ。だけど、脳死を続けると入院費がかかる。そして君は元々死ぬことを望んでいたんだ。だから君の母親はこう考えた。君を殺そうと」

 言った後にどうにもできない感情が僕を支配して、蝕んで、壊していくように感じた。

 自分の部屋の鳩時計を見た。『TAKANASHI』とメーカーの入った鳩時計を。

 カチカチと音を鳴らす。それだけしか僕の周りでは音が聴こえなくて、僕はその時計を見て、それで僕は深夜の一時を回っている事に気が付いた。

 彼女を見ると震えていた。今にも泣きだしそうな、ではなく、何か怖さで震えているように。そのまま僕を見ていた。彼女は震える体をこちらに向け、震える唇を開いて、震える声でこう言った。

「なぜ、話を止めるのです?」

 …………。

 僕はその場で動く事さえもできなかった。彼女が怖くて何も言うことができなかった。幽霊として恐いのではなかった。人間として恐かった。恐ろしかった。

「なぜ、最後まで話してくれないのです?」

「いえ、これで全部です」僕はバクバクする心臓を必死で抑えながら、表は冷静に応えた。

「いえ、まだ話していないことがあるのでしょう?」

 僕は彼女が怖くて震えそうだった。その場から逃げ出したくても逃げることはできなかった。

 彼女は分かっているのだろうか、それとも僕の演技があまりにも下手だったのか。

 僕はもう諦めた。隠し切ることはできない。

 これでもうお別れだ。僕が君と会う事もないし、そして君が僕に会う事もない。

 一度きり深呼吸をする。そして僕は話し始めた。

「わかった、言うよ。 最後に、君の母親が君を殺した最大の理由をまだ言っていない。その理由を裏付けする物、それは君の母親が君を殺す前にしていた行動の事、一年間君を生きさせて、そして君が殺される数ヶ月から君の病室に毎日来るようになったと君は言っていた。仕事で疲れて、窶れてまで。それは君を近いうちに殺すと決めていたからに違いないよ。だったら今すぐにでも君を殺せばいいじゃないかと思うかもしれないけれど、君の母親は待っていたんだ。何を?君の誕生日を待っていた」

 僕は数歩歩いて、そして出窓を見つめた。そして外を見る。

「君は殺された一年前、つまり去年の九月に自殺したんだ。そしてそれから一年が経った。九月に殺される。なぜこんなに九月に事件が起こるのか、これは偶然ではない。必然と言ってもおかしくはないよ。九月に特別なことがある。特別な思いがあって、そして事件は起こる。それの発端が君の誕生日。なんで僕が君の誕生日を知っているのかというと、それはまたあの置時計と関係があるんだ。あのサファイアの時計。君は知っていたのか分からないけれど、サファイアという宝石は九月の誕生石として知られている。石言葉は『慈愛、誠実、貞操』。まさにあの時計は君へ送られたメッセージだった。だから僕は君の誕生日が九月だと予想することはできた。置時計にわざわざ宝石をはめ込むという事はそこまで珍しいことではないのだけれど。普通に考えると、宝石の入っている時計と言えば腕時計の方が多い。だからその時計は君へのメッセージになっているんだ」

 僕は再び彼女の方を見る。彼女は目線を反らすことなく僕を見つめている。僕は自分の気持ちを抑える事だけで精いっぱいだった。だから彼女から気持ちを読み取ることはできなかった。

「そして君は九月に殺された。でも君の母親はそうは考えてはいなかった。わざわざ、母親が君の誕生日を待っていた理由…。それは君に、君が望んでいた『死』をプレゼントするためだったという事」


 僕は切れて血が少し流れる唇をゆっくりと閉じたのちに、貧血を起こして倒れそうだった。

 この推理、結論にたどり着いたときでさえ、立ちくらみを覚えたのに、いざ口に出して、その上彼女の前で言ったので、込み上げてくる思いがまったくの別物に感じられた。

 哀愁と慈愛に満ちた出来事、事件。確かにそうなのかもしれない、けれど実際にこのような事件が起こったのかと考えるだけで心臓が押しつぶされるような気がする。

 僕は彼女の眼から反らさなかった。言った後、ずっと。

 最後に彼女は涙を浮かべて、悲しそうで、悔しそうで、苦しそうで、なんで自分は自殺何てしたのだろうと、本気で考えているような顔をしていた。

 それでも彼女は長い髪の毛を払う様に首を振って、こう言った。

「ありがとう、ございました。これで、何も悔いもなく、天国へ行けるかもしれません」

 僕はそれを耳にした瞬間、心臓がきゅっと締まる気分がして、喉に何かが詰まっているようで、きついチョーカーを首に巻いているようで、息が苦しくて、息が荒く切れて、酸素が無いようで、もうここは地上ではなく、僕が住んでいる世界でもないような気がした。


 嘘つき。


それそこ、彼女こそが嘘をついているんじゃないか。

 僕はそう思う事しかできなかった。もっと、彼女みたいにはっきりとものが言えたら、なんて思っていたけれど、結局彼女だって嘘をついた。最もわかりやすい嘘を、下手な演技を。

 僕は彼女を咎めなかった。僕の意思がそうしたのではなく、僕自身、できなかっただけだった。

 僕はやっぱり気弱なんだ。

「それでは、誰も救われないじゃないですか」

 最後に彼女はそう言ったきり、少しずつ体が薄くなってきて、涙を流すけれど、床に垂れることはなく、最期は一滴の涙を落として消えていた。




 あの夜から次の次の日の朝。つまり彼女が消えてから三十時間位立った頃、僕はいつも通りに起きて、何となく新聞を手に取り、地方ニュースの欄を見ていた。それは今日の朝刊だった。

『昨日、午後三時四十六分、県内の○○大学病院にて脳死判定されている女性、高貝明美(たかがいあけみ)さん(16)が彼女の母親、高貝千鶴(たかがいちずる)容疑者に殺害された。凶器は縄で首を絞められたものとされている。』

 僕はそれを読んだ瞬間、こう思った。

 嘘だ。

 声すら出ることはなかった。

『高貝千鶴容疑者は『あの子の為に殺した』と供述しており、容疑を認めている。高貝明美さんは去年の九月に自殺未遂をしており、それが発端に脳死判定されたと病院側が供述している』

 僕が感じたのは、僕の推論が当たっていたという驚きからではなかった。

 そんな事ではない。問題はこの新聞記事全体だ。

 これはどういう事だ。いつ(・・)、高貝明美は殺されたのか。

 今日は、もうあの夜から実質は1日しかたっていないけれど、既に2日近い時間が過ぎている。

 けれども、高貝明美が母親から殺された時間は明らかに僕の知っている者とは異なっていた。

 昨日殺害が行われた!?

 そんな。

 僕はもう一度その新聞を読む。ミスリードではないだろうか。

 そして僕はもう一つの異変に気が付いた。

 凶器が…。

 そう凶器が別物だった。彼女が言っていたのはナイフで刺されたと言っていた。けれども違う。

 縄による絞殺?

 僕は最初新聞記事が間違えているのかと思った。けれども違う。何かが違う。

 衝動的に僕は寝巻のまま家から駆けだし家から数メートル南にある大学病院へと向かっていた。

 大学病院には数台のパトカーが止まっていた。そして僕はあの夜の日の昼間の事を思い出した。

 どうして僕は気づかなかったのだろうか。

 あの日、大学病院にパトカーは来ていなかったという事を。

 殺人事件が病院なんかで行われていたのなら、きっとすぐに見つかって、警察だってすぐに病院に来ていたのではないか。

 警察が来ていれば僕は音でそれが分かるし、きっと近所でも噂話くらいは耳にするはずだ。

 そして僕は病院からは見えない、斎場の方の方角を見ていた。

 昨日葬式は行われていたのか?

 最後にあの夜の事を思い出す。

 彼女が部屋で消えたのは何故なのか?彼女はあの後、斎場へと向かったのか?

 その時、なぜか急に僕の頭の中にあの一言が頭に浮かんだ。

 僕はその瞬間に血の気が失せ、病院の前でまたも貧血を起こしそうになった。

 近くで偶々僕を見ていた看護婦が大丈夫か、と話しかけてくるのだが、僕の耳にその言葉は届いたのだけれど、脳に届いている気がしなかったし、返事もすることはできなかった。ただ僕はそのまま家に帰った。


『私はどうして死ぬのでしょうか?』


 さっき頭に浮かんだその一言だけが僕の頭の中で消えなかった。

 その日、学校へ行く途中にあの声で、その言葉が僕の頭の中でこだまし、気分が悪くなって、僕はUターンして家へ帰る。

 どうしたものかと母は訊ねて来るのだが、やはり何も言えずに僕はただ自室の椅子に座り、茫然としていた。そうでもしないといつまでもあの声が、あの言葉が僕を襲ってきて、僕を支配する。

 なぜ、僕は彼女の言葉を受け止めなかったのだろう。僕はそのことばかりを考えていた。

 彼女は殺されようとしていた。それを僕に伝えに来た。

 霊の見える僕だから。

 脳死で話せない彼女だから。

 母親に殺されると知っていたから。

 ただ伝えるだけじゃ信じてくれないかもしれなかったから。

 だから僕に考えさせた。推理させた。

 誰から殺されたのかもわからない。誰から恨まれ、憎しみを感じたまま死にたくない。なんて嘘を言って、本当は誰よりも自分を殺そうとする母親の本意が分かっていたはずなのに。

 警察が介入すれば、すぐに犯人が分かるのに、僕に考えさせた。推理させた。

 

 彼女はあの時、まだ死んでいなかった。


 僕がどうにかすれば、彼女の言葉を受け止めていれば、彼女は殺されなかった。

 それでも、それが分かっていたって僕にはどうしたらいいのか分からなかった。

 もしかしたら、彼女の言葉をすぐに思い出すことができた僕は、実は心の奥では、彼女の事を、本当の事を分かっていたのかもしれない。でも、結局僕はどうすることも出来なかった。

 そういているうちに、昼が過ぎ、夕方が来て、夜が来た。

 音を立てながら動いている僕の部屋にある鳩時計は、時計自身はただ電池で動いているだけなのに、歯車が噛み合って動いているだけなのに、時間の動きをまるで動かす様に動いている。

 その『TAKASHINA』と刻まれた鳩時計は、僕の時間的感覚をも壊してどんどん進む。決して時計が壊れている訳ではないのに、僕には時計がひどく恐ろしいものに思えてしまう。

 鳩時計が鳴いた。

 僕はその時気が付いた。時はもう夜の十二時になっていたという事を…。

 僕はそれを自分の眼が確認したと思っていたら、急に座って茫然としていた自分の身体を椅子から起こして、衝動的に部屋の出窓から外を見ていた。

 その窓から見える外には、闇があった。夜の闇があった。外灯が一つだけ点いて、一本の道路があって、南側には病院へ、北側には斎場へと道がつながっていた。


 そしてその道路には一人の白いワンピースを着た女性が立っていた。


 僕は彼女を見つめた。彼女はとぼとぼと、その細い、車が一台くらいしか通れない道を歩いている。

彼女が外灯に照らされていても、その照らされた道路のアスファルトに映るのは、彼女の影ではなく、ただの光。

ただ彼女はその道をふらふらと歩き続けていた。

しかし、その彼女は、僕の家の目の前から少し過ぎた後に、ふと立ち止まった。急に何かを思い出したかのように…。

そして彼女はありあない事に、僕の家の方へ振り返り、顔を上げた。そして僕のいる方を見た。

僕は彼女の眼を見た。

すると今まで一言しか残っていなかった、彼女の声が、彼女の言葉が、僕の中で螺旋する。

彼女は確かに僕の方を見ていた。けれど僕はここに居るはずなのに、彼女と僕の眼は合う事がなかった。

彼女がどこを見ているのか分からなかった。彼女は明らかに僕を認識できるはずなのに、彼女の眼には僕の姿はうつっていなかった。恐らく彼女の心に映ることもない。

どんどんと僕の中で蘇るあの夜の記憶、彼女の眼、彼女の服装、彼女の声、彼女の口調、彼女の笑顔や、涙。

僕はあの夜で、彼女の何もかも全てを見ていたような気がした。でも僕はあの顔を見たことがなかった。あの彼女の僕を見る眼を見たことがなかった。

心には何も映っていない、なにも情緒がない瞳。その眼で彼女は僕を見ていた。

背筋が凍る。僕は人の縊死状態を見たわけでも、絞殺状態を見たわけではなかった。

ただそれを経験した、純白な少女を見ていただけだった。

彼女は僕の居る方から眼を反らし、そのまま斎場へとつながる道を進んだ。

僕はそれをそのまま見送らず、今朝病院へ駆け出した時と同じように、衝動的に体が動いて、部屋を出て、家を出て、そして彼女の元へと駆けだした。

僕は彼女に話さなければならないことがあった。訊かなければならないことがあった。

道路に出て、彼女の元へ向かうと、彼女はいた。

僕は彼女の方へ全力で駆け出す。何を言ったのか意識がなかったが、僕は数メートル離れたところから彼女に向かって思いっ切り何かを叫んだ。声が枯れるまで、近所迷惑を考えずに喉が潰れるくらいまで。

しかし彼女は振り向かなかった。操り人形のように、そのまま決められたコースを歩いた。

僕はどうしようもできずに、また彼女の方へ向かって走り出した。大声を上げたまま、彼女に触れようと手を伸ばした。

彼女の体まで僕の手は届いたけれど、僕の手は、彼女の身体を通り抜けて、彼女の身体に触れることはなかった。その時、僕は彼女が本当に死んでしまった幽霊なのだと初めて実感したようだった。彼女の身体が透けた瞬間、何もかもが恐ろしくなって、背筋が凍って、それでも背中にはとてつもなく嫌な汗が流れて、僕はそれから動くことはできなかった。

そして彼女は振り返ることもなく、その道を歩き続け、斎場へと消えてなくなった。

夜の道に残ったのは、ただ一つだけ点いている外灯の光と、空に灯るいっぱいに満ちた望月と、それでも漂う夜の闇。そこにただひとり、僕だけが佇んでいた。



 気付けば朝になっていた。僕は不思議と部屋に居た。

 昨晩寝れたのか、そのまま起きていたのかも実感が分からなくて、結局はどうやって自分があの道路から自分の部屋に帰って来ていたのかも記憶が曖昧だった。

 けれども僕の中に一つだけ残っているものがあった。

 彼女が僕を見ていたあの時の瞳だった。彼女の何も考えていない無心の瞳。無慈悲の瞳。

 それから僕は恐怖しか感じれなくなった。

 僕は誰かに蔑まされるように見られる目より、怒りに横溢(おういつ)した眼より、憎くて憎くて仕方のないように僕を見る眼より、何よりあの彼女の僕を見た眼が恐ろしかった。

 僕はそれからものを見ることが怖くなった。

 学校の通学路にある墓地を見るのが怖くなった。家の近くの病院を見るのも、斎場を見るのも、家の前の道路を見ることも怖くなった。

 けれど何より怖かったのは、人間の眼と、自分の部屋にある鳩時計が怖かった。


 僕はもう何も見たくないと思った。


 そう思い至ったら僕は、無意識のうちに誰かに操られるように、学校の化学室へ忍び込んで、濃度の高い硫酸を盗んで家に持って帰り、一人でそれを両目に差した。

そして僕は初めて本当の黒という色を知った。

 けれど、僕の恐怖は消えることがなかった。

 次は音が聞こえるのが怖くなった。

 家に聴こえてくる救急車のサイレン。斎場から聞こえてくる人々の泣き声。道路から聞こえてくるさまざまな音。

 けれど何より怖かったのは、誰かの声が聞こえると、その声が遠くにいるのか、近くにいるのか、声の主が生きているのか、死んでいるのか、目が見えないと、それが分からなくて怖かった。そして十二時になると鳴り出す鳩時計の鳴き声と、十二時に迫っていく秒針と分針の動く音。


 僕はもう何も聞きたくないと思った。


 すると、目が見えていないはずなのに、なぜか自分の掌には咄嗟にいつ買ったのかさえ忘れた万年筆が二本握られていて、僕はそれを、先を下にしたままグーで持ち、そのまま両耳の穴に差した。

 血はだらだらと流れたけれど、痛みを感じることはなかった。神経が麻痺しているのかもしれない。

 僕の望み通り音は何も聴こえなくなった。

 鼓膜は破れても再生する、という話を誰かから聞いたことがあったけれど、僕の耳は刺した時の大きく鈍い音を響かせて以来、なにも聴こえてくることはなかった。





初めて企画ものをさせていただきます。

水無月旬です。


長いっ!

感想がそれだけになってしまう程、読むのが大変なものを書いてしまったことは重々承知なのですが、

この作品は作者の考えとして、一気に読んでもらいたいという気持ちがあります。


作品について触れますと、まず、主人公『僕』の家の前を通っている道路は、実際に私の通学路にあります。

実際は道がもう少し広く、病院も大学病院ではなく、市立病院となっております。

そして、この作品は『夏のホラー2013』に投稿させていただいたものですが、

恐くないですよね(笑)すみません。

この企画は怖い!というのが前提ですが、文章表現などで一応空恐ろしくなるような感じで書いています。

トリックの方は評価しないでください(笑)

ただ、霊が見える少年、二回死んでしまった少女。という二人を登場するために、色々な試行錯誤を重ね、この作品が一応まとまっております。


いやぁ、いろいろ大変でした。


それではまた他の作品で会いましょう。

最後までお付き合いいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[一言]  去年のホラー企画の作品ですか。 1年経過が早いなあ(棒) えっと……内容前にいっぺんに書いたからかどうかわかりませんが、誤字がいくつかありました。場所によってはせっかくのから恐ろしさが…
[一言]  お疲れ様です。楽しく読ませて頂きました。  圧倒的な筆量と、それ以上に練り込まれた内容の太さに感服いたします。ともすれば散漫になりがちのホラーという題材をしっかりと纏め、最後まで一気に読…
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