終.旅の果て
ルリがふと目を開けると、もっとも尊いとされる獣の絵が天井いっぱいに描かれていた。細部まではぼやけてよく見えず、目をこすってもなにも変わらない。目元にざらりとした感触が残って自分の手を見ると、それは自分の手ではないように見えた。老婆とまではいかずともルリのよく知る若い肌ではなかった。
寝台に横たわる身体を起こし、ちょうど横にあった窓に映る自分の顔を見る。そこにいる女の顔は見慣れたものよりも少なくとも十は年を取っていた。これは誰だ。
ありえない。二十をとうに超えてまだ生きている。混血であればこの年まで生きることはできないし、つい先ほどまでルリは十代後半の身でいたはずだ。少し目を閉じていただけで十年以上が過ぎてしまうのはおかしい。
いや、そんなことはどうでもいい。問題なのは、最後に覚えている場所とここがまったく違うということ、それから一緒にいたはずのトーリュウも、部屋の外で待たせていたはずのカロンも、願いを叶えると約束した獣もいないということだ。
今のこの状況についていけない。あのときに消える覚悟で挑んだのにもかかわらず、なぜルリはここに存在しているのだろう。もしかしたら、これは夢なのかもしれない。
「お目覚めですか?」
目を覚ましてから初めて耳にする声に驚いてルリがそちらを振り向くと、寝台から離れたところで椅子に座った男がいた。いかにも潔癖そうないでたちをしている。
「なにか、お茶でもお持ちいたしましょうか?」
黙ってルリは首を横に振る。飲み物にしても食べ物にしても口にしたい気分ではなかった。
ルリが目覚めるのを待っていたのだろう男は扉の外に顔を出し、廊下の女になにか声をかけて戻ってくる。今まではこれくらいの距離ならば聞き取れたものを、まったく聞こえなくなっていた。
「もうすぐ陛下がこちらに。それまでしばらくお待ちください」
「ここは……」
「迎賓棟です。あなたは城の棺室で倒れていらっしゃった。覚えておいでですか?」
「棺室……最上階の?」
ええ、と男は答えた。そのような丁寧な話し方をされるに値する人物ではないのに、彼はなにか勘違いしているのではないだろうか。
どうも穏やかすぎる。この男の雰囲気も、窓から差し込む明るい日の光も。外は静かだったが、ルリの最後の記憶にあるあの気の滅入るような静けさとは違って安らぎがあった。
「その棺室にわたし以外の人はいませんでしたか?」
「いいえ、あなたお一人でした」
そうですか、とルリは目を伏せた。カロンは逃げおおせたと考えられなくもない。だがトーリュウやあの二人の亡骸はどこへ消えてしまったのだろう。
誠実そうな男は会話が途切れてもじっとルリを見つめていた。最初はそうでもなかったがだんだん気になりはじめ、ルリは声をかける。
「あの、なにか?」
男ははっとして一度目をそらし、また視線を戻して頭を下げた。
「申しわけありません。あなたが昔の知人に似ていたもので。ですがきっと私の思い違いでしょう。彼女は混血で、あなたは人間ですから」
人間、と反復してルリはぽかんと男を見上げた。人間だったのは母で、自身は混血のはずだ。
「あなたはどこからどう見ても人間ですよ」
断言されたルリは今度は素直にそのことを受け入れることができた。窓に映る二十を越えた自分が生きているのは混血でなくなったからで、目や耳の具合がいつもより悪いと感じたのはそのせいだったのか。
ただの人間になったことに別段喜びも悲しみも感じない。だが父の血がなくなってしまったのは悲しかった。子供といえる年齢ではないが、今の自分はいったい誰の子なのだろう。
「申し遅れました、私はトギノカと申します」
トギノカ、一度だけ聞いたことがある。最後の最後でルリではなくあの男を選んだ、偽王デルダスの忠実な側近。どこにでもあるような名前だったが、昔に混血の知人がいたという彼の言葉がルリの中の希望をつなぎとめた。
コクフウかもしれない。そうでなかったらと迷ったが、トギノカとはコクフウの意思を捻じ曲げた男だと思うとするりと言葉が出てくる。
「もしやり直せたとしても、コクフウ君の決断は変わらない?」
男は明らかに困惑し、怪訝そうな顔をした。冷静になって考えてみれば、トギノカはコクフウが生まれるよりもずっと前の人物だ。未来のことなど知っているわけがない。
では、ここは過去の世界なのだろうか。ルリはデルダスが兄として生まれるよう過去を変えた。その結果を見届けろと、そういうことなのだろうか。
「……では、あなたがルリさんですね?」
震える声で問いかけられたルリはうなずいた。この男はなにか知っている。
「コクフウは後悔しました。しかし何度やり直そうと、私のことを覚えているかぎり同じことの繰り返しになるでしょう」
今度はルリが困惑する番だった。目の前の男がコクフウかもしれないと思ったのはルリのほうだが、なぜ彼より後に生まれるはずのコクフウのことを知っているのだろう。その口ぶりは親兄弟よりもコクフウのことを熟知しているようだ。
「ここは過去じゃないんですか?」
「私にとってはむしろあなたが過去の人です。言いかたを変えれば、なかった未来、ということになりますか」
言葉を失うルリを見てトギノカは説明をつけくわえる。
「コクフウとして死んだ後、私はトギノカとして再びここに生を受けました。最初のトギノカのときと違うところはただ一つ、陛下が長子としてお生まれになっていたことです」
「陛下って、どなたが?」
「第三十三代魔王、デルダス陛下です。この世界はあなたの世界の犠牲の上に存在しています。神獣でも過去を変えることはできません。造って壊すだけです。ですから、神獣は陛下が長子としてお生まれになった世界を新たに造ったのでしょう」
頭が一瞬真っ白になり、ルリはため息をついた。つまり、また神獣なのだ。あのけだものが過去を変えるという口実でルリの世界を壊し、最初から造りなおした。そこに少しだけ手を加えて後に生じるだろう歪みを正した。そういうことだ。
デルダスが兄として生まれるようにというのはルリの願いだ。ではそれが叶えられたこの世界にはトーリュウの願いも反映されているのだろうか。最後は助けあいながら走ったというのにその存在がどこにも感じられないのはさびしいことのように感じた。
カロンもいない、トーリュウもいない、クロウとはもうわかりあえなくなった。今ルリが縋れるのはコクフウを自分のことのように知っているトギノカだけだったが、彼はコクフウではない。
現実味なくぼんやりと考えていると扉が開いた。真紅が部屋に駆け込んでくる。
「客人が目を覚ましたというのは本当か」
新たに入室してきた男は言いながらルリの前に立った。美貌ではないものの黒い目が明るい未来を映し、それが男を美しく見せていた。少年のように紅潮した顔の側面に威厳が見え隠れしている。
「それで?」
「いえ、まだなにも」
この男が彼の呼んだ陛下なのだろうと見当をつけてルリは寝台から立とうとしたが、その王に制された。真紅をまとう王は優しい面立ちの男に目配せする。
「こちらがデルダス陛下です」
入ってきた男は記憶の中のデルダスとはまるで別人だ。生気に溢れる顔立ちがまぶしい。死んだ彼を見たことがあるのに、こうして再び動いているデルダスを見るのは不思議な気分だった。
「さっそく話を聞こう」
ルリの知らないデルダスはトギノカに用意させた椅子に座った。
話を聞こうと言われてもなんのことかわからない。不安になってルリが従者として振舞うトギノカを見上げると、トギノカは一度デルダスを見た後で答えてくれた。
「死した王たちの住まう国から彼らの言葉を携えてやってくる、そういう伝承があります。何度か現実にあったことです。あなたがそれなのでしょう?」
顔が強張ったのが自分でもわかった。そのような伝承はルリの国にはなく、それがこの世界はルリの生まれたところとはまったく違う場所なのだと示している。彼の話を信じていないわけではなかったが現実の端々から思い知らされるのは大きい。
「現にあなたは魔王直紋を持っていらっしゃる。陛下がそれを授けた記録もないのに。それが証拠です」
ルリはなんとなく首にかけた胸元の直紋を押さえた。ルリの直紋はトギノカの傾倒するデルダスからのものではない。偽王デルダスの隙をついた本物の王がルリに与えたものだ。
しかし、話すといってもなにを話せばいいのだろう。その伝承のように死した王からの伝言を受け取ったわけではないのだ。
「……わたしは、嘘をつくかもしれません」
「来訪者は生国に帰ることはできない。私が彼らの国に干渉することもできない。だというのに伝言を偽ってなんの得がある?」
デルダスはルリを信じきっており、ルリはそこに彼の若さを実感した。兄として生まれたか弟として生まれたかでこれほどの差が現れるのか、と驚いた。
彼らの国、死した王たちの住まう国。こちらの人々にとって、ルリはその伝承の国からやってきたことになっている。たしかにそれは間違いではないのかもしれなかった。ルリの生きていた世界の王は皆すでに没していたのだから。
そういうことになっているのだろうか、とルリは思った。死した王たちの住まう国というのはルリの側の国のことで、トーリュウも伝承にある来訪者としてここに受け入れられたのだろうか。
なかなか口を開かないルリにデルダスは肩の力を抜いた。
「話せないようならまた日を改めるが?」
「……話せます。陛下の望む言葉ではないかもしれませんが、それでもお聞きいただけますか」
「聞こう」
間髪を入れず答えた男の顔は若いが真摯に受け止めようとしていた。
「なかった未来のお話です。ある男が、後の女王の弟として生まれました。彼は姉が王になることを嫌い……」
途中で言葉に詰まることもあったが、デルダスは真剣に耳を傾け、この話をコクフウの記憶として知っているトギノカはなにも言わず一歩引いて唇を結んでいた。
これを話して聞かせたところですでに道は正されているのだからなにも変わりはしないが、ルリが話せることは一つしかない。
「そして彼は血の契約で命をつなぎ、三百年後、玉座を手に入れました。しかし女王の子孫は東の国に託され、そこで生きながらえました」
ルリはなるべく感情の入らないよう一切の名前を伏せながら話し続けた。部屋に差し込む白い光がだんだんと赤くなり、そして薄くなって最後にふっつりと途絶えてしまってからも話し続けた。
思い出の住人になってしまいそうなほどルリはなにがあったかを鮮明に思い出すことができた。そして彼らがいないということを改めて認識した。
なにも知らずにただ正しくあろうとするデルダスにこのことを知ってほしかった。この話は、王家の男と女のどちらが先に生まれたかで道が分かれる、彼にとってのなかった未来だ。彼自身のことなのだ。
いや、それは建前だ。クロウやコクフウをはじめとする彼らのことを自分一人の胸にしまっておくのはつらかった。誰かに知っていてほしかった。ルリがいなくなってしまったら、彼らや領主たちの苦悩はいったいなんだったのかということになるではないか。
ルリが話を終えると、デルダスは数瞬のあいだ難しい顔でルリを見つめ、よく話してくれたとねぎらいの言葉をかけて席を立った。王に仕えるトギノカも一礼してそれに続いた。
誰もいなくなった部屋で、ルリは夜の城下にぽつりぽつりと灯る明かりを眺めた。
これまでのできごとを他人がわかるように話したおかげで頭の中が整理された。そしてやっと、一人だけここで生きているということに思い当たった。
ともにあの世界を駆けた者の中で自分だけが生きている。自分にだけ明日がある。
なぜこうなったのか、その理由はまだわからない。まるで罪を犯したような気持ちになった。しかし彼らのことを思うと、歩いているのは自分だけなのだから、立ちどまってしまっては彼らに顔向けできない。今までだってわからないなりに進んできたのだ。
一人だけこうして生かされていることの意味を少し考えようと思い、ルリは寝台に横になって目を閉じた。
目を開ければまた明日が来る。
完