10-7.二つの願い
そのけだものを目にした瞬間、ルリの身内に嵐が吹き荒れた。
人を人とも思わぬ獣のおかげでルリはたしかに苦労をしなかった。コクフウと対立したルリに迷いがあれば彼の命を奪い、先送りにしていたデルダスとティーナの問題も死という形で解決した。死はもっとも簡単な解決方法だ。もちろんルリにそれをするだけの気概はない。
しかしなにか違うのではないだろうか。二度とやり直せない大切なことなのに、そのような単純な方法で強引に幕を下ろしてしまっていいのだろうか。
荒れ狂う嵐をなんとか静め、ルリは獣と向かいあった。
「なにしにきたの?」
「願いを聞きに」
「あたしたちの命を取りにきたんじゃないの? だって、あの二人は」
「そう、私が手にかけた」
言いながらけだものはその形を作る光の束を解き、新しい形を作りはじめる。
「どうだ、このほうが話しやすいだろう」
光が収まったとき、そこにいたのは一人の子供だった。憎らしいことにそれはずっと一緒だったクロウの姿で、ルリは絶句した。そのような気遣いを見せるくらいならコクフウのときもデルダスとティーナのときも時間を与えてほしかった。
クロウの姿は、認めたくはなかったがいまだ怪しい雲行きを見せていたルリの心を穏やかにさせた。それを狙ってのことだとしたらと考えるとまた苛立ちが募り、ルリはその姿に関して追求するのをやめた。
「一つ訂正しよう。私は王族の命は取らない。デルダスのことは知らない」
「それじゃ、なんでこんなことになってるの? あんなふうに二人一緒になって……」
ちらと二つの影にルリは目をやった。父は娘を胸に抱いて二度と目を覚まさない。本当の親子でないのに、いや本当の親子でないからこそそれはルリの心を揺さぶった。
佇んでいたトーリュウが口を開く。
「血の契約」
「なに?」
「もしかしたら血の契約を結んでいたんじゃないか? ティーナの死に引きずられて偽王も死んだ、そう考えれば」
血の契約とはルリにとって馴染み深いものだ。異質なほうへ悪いほうへと引きずられるのが血の契約である。片方が生きているから重傷を負っても助かるというものではなく、一方が死ねばもう一方も死ぬ。
「ティーナが歯向かうようになっても、実の娘でもないのに殺さなかったのはそのせいかもしれない。ティーナを殺せば自分も死ぬから」
「でも、ティーナだって危ない目に遭ってるわ。初めて会ったときはリューズエニアで溺死するところだったし、ファイアーランド城でも、なにがあったかはわからないけど酷い様子だったもの」
言われてみればたしかに、という顔をしたトーリュウはクロウの姿をしたけだものに声をかける。
「どうせ全部知ってるんだろう。教えろ」
トーリュウに睨まれたその子供は馴染みのある淡々とした口調で話しはじめた。
「血の契約をした者は寿命では死なない」
「どういうこと?」
「そのままの意味だ。血の契約を交わせば双方とも寿命から解放される」
寿命では死なず、解放される。その意味を噛み砕くのには時間がかかった。つまり、病気かなにかではなく寿命が直接の死の原因である場合、契約をしていればそれは回避できるということだろうか。
「身近な例でも示そうか」
まだ自分の中で納得できないルリにとってその言葉はありがたかった。
「私とおまえはつい先刻まで血の契約により結ばれた身だった。それは明日死ぬかもしれない混血児を契約で縛り、寿命から解放するためだ。秘宝をすべて集めて王城に持ってくるまで生かしておくためだ。途中で死なれてはどうしようもないから」
混血児は一般的に早死にで、けっして二十を越えることがないために混血児と呼ばれる。手足の自由が利かなかったり目がかすんだりという老いこそは感じないが、もはや死を待つ身である。ルリの年齢を考えるとこの長旅のあいだにいつ死んでもおかしくはなかった。
道中に寿命で死ぬことのないよう、ルリは血の契約によって神獣に生かされていたのだ。
なぜ血の契約というものが存在するのかようやくわかった。相手が死ねばこちらも死ぬという負の部分よりも寿命で死ななくなるという利益のほうを大きく見るからだ。病気をしたり外に出たりしなければ不死になれる。
「偽王が三百年以上も生きてるのはそういうことだったのね? 死を避けるためにティーナと血の契約をして、ずっと生きてきた」
「察しがよくて助かる。では本題に入ろうか」
クロウを思い起こすさっぱりとした調子で彼は話題を変えた。本題とは彼がここにいる理由、願いを聞きにきたというものにつながっている。
「秘宝を手にした者は過去を一つ変えることが許される」
音と意味が結びつかず、なにを言われたのかすぐには理解できなかった。半歩後ろにいるトーリュウを振り返って見れば彼も理解しがたそうに眉をひそめている。突拍子もないことを言われて驚いたのはルリだけではない。
確認を込めてルリは反芻した。
「過去を、変える?」
「そうだ。昨日の発言を取り消すことも、コクフウがいなかったことにすることもできる。もちろん、国が興らなかったことにすることも。それをしたときに今のおまえがいるとはかぎらないが」
過去は過去でしかないことを彼の言は示していた。その場ですぐに消える発言も、多くの人と関わる命も、その命が集まってできた国も、どれも重さは変わらないと。この獣にとっては過去に起こったことはすべて同一のものなのだ。
たしかにそうだ。コクフウが命を落としたのは次の瞬間からもう過去の領域で、耳に入ると同時に消えていった彼の発言もすでに過去のものだ。しかしそれとこれを同じものとして考えるのは感情がついていけない。
「秘宝を集めただけなのに過去を変えるだなんてこと……」
「そのための秘宝だ。秘宝は王の権威でもなんでもない。過去を取り消すためだけにある」
今より前に起こったことを一つだけ変えることが、過去を取り消すことができる。それを聞いた後なら本物の魔王が最後に出した命令、大戦を終わらせるために秘宝をすべて集めるようにという意味がわかった。戦が起こらなかったことにすればいいのだ。
けれどもその命は意味を失ってしまった。領主たちは戦どころの話ではない。生き残ったのは出兵をためらう穏健派だけで、その彼らですら病床にあったり難題に頭を抱えたりしている。
「過去を変える権利は二人にある。一方が取り消したことをもう一方がなかったことにすることのないよう、よく話しあうことだ」
変えた過去をさらに取り消されるかもしれないと聞かされたルリとトーリュウはしばらく見つめあった。話しあわなければならないことはわかるが、秘宝を介して手に入れた力は強大で、ルリはなにを願えばいいのかわからなかった。
「どうしよう」
「おれの願いは気にしないでいい。おまえが決めた後で、おれはそれを邪魔しないようにするから」
「本当にいいの? 取り返しのつかないことを願うかもしれないのよ?」
「それでもいい。文句は言わない。ただ、よく考えてくれ」
トーリュウは一歩引くことでルリの判断には関わらないことを示した。
このような事態にならないようにするためには、デルダスがいなかったことにしてしまえばいい。しかしそれでは心を持たないけだものと同じことをすることになる。本物の魔王が生きてルリに命を下すことがなければ、というのも同じことだ。
すべてが丸く収まる方法をしばらくのあいだ探していたルリは、ふと思いついたことを言葉にした。
「あの人を、兄として生まれたことにするのは?」
デルダスが長子として誕生する。そうすれば彼が王になるのは必然だ。女王を嫌って姉を殺そうとすることもないし、その計画がなければ彼の娘も出奔することなく、コクフウが彼を裏切ることもない。ティーナも父のことで悩むことはない。
「もちろんできる。だがそうすると……」
「わかってるわ。その子孫は今の王族とは違ってくる」
デルダスが玉座につくということは今の王族の系譜が書き換えられるということだ。すると現在では王女ということになっているルリの存在も危ぶまれる。しかしそれでもよかった。
王妃もヴェリオンも死に、魔王は生死不明、セリナも怪しいこともあって、もしかしたら自棄になっているのかもしれない。実の両親にも育ててくれた両親にも顔を見せることができないのであれば生きていても仕方ないような気がした。冷静な判断ができていないとわかっていても心は変わらない。
それに混血は短命だ。ここで生きながらえても本来の寿命はすぐそこまで迫っている。
しかしそこにきてトーリュウはルリに異を唱えた。
「そんなことしていいのか?」
彼の反対と視線とが一歩退いたはずのその距離を越えた。
「おれはどうなる? おまえと違って親もない、帰る場所もない。変わることを強要される者のことも考えたのか?」
「デルダスが魔王になれば今とは違う時代になるわ。リューズエニアは陛下のおかげで独立したのよね。その陛下が違う人なんだからリューズエニアはファイアーランド領のまま、つまり水没しない。帰る場所はあるじゃない」
「デルダスが王になった世界にオサードがいるとはかぎらない」
「あなたが存在するともかぎらないわ」
食い下がる彼の口からオサードの名が出てきたことにルリは耳を疑いながら言った。
ある意味でルリの旅路の最初の犠牲者ともいえるオサードは、ルリと出会わなければ死ぬこともなかったのだ。オサードとトーリュウになにかつながりがあるのなら、それは悪いことをした。
「帰る場所も親もないのはあたしよ。ウィンドランドもセントラルランドも、今から帰って誰が混血を認めてくれるの? だったらこのままでいるよりデルダスが王になったほうがいい」
デルダスがその時代に兄として生まれることでなにが変わるだろうとルリは思いをめぐらした。
まず彼の実の娘は、存在すればの話だが、セントラルランドで一生を過ごすはずだ。すると彼女が現ファイアーランド領主の祖母にあたるのだから領主はルリの知っている男とは別人になる。トーリュウに言ったとおりリューズエニアはファイアーランド領のままだ。
ウィンドランド領主に託されたルリがいないということは偽王もいないということだ。となると神獣の審判は行われないのだろうからフォレストランド領主は死なない。サンドランド領主は兄に幽閉されたまま表に出ることもない。ウィンドランド領主は、父は、ルリではない子供をいつくしんでいることだろう。
そこまで考えるのが限界だった。一人がどこまで影響を及ぼすかわからないのにくわえ、自分のいない世界をそれ以上想像するのはつらい。
「だいたい、あたしがなにを願っても文句は言わないって言ったじゃない」
あ、と声をもらしてトーリュウは覇気を失った。
「そうだった。言った。たしかに言った。……すまない。おまえの好きなようにしてくれていい」
トーリュウはつらそうに息を吐いて少しのあいだ目を伏せた。デルダスに関してのルリの提案の意味は彼もきっと頭ではわかっているのだろう。誰かのため、世界のためを思ってもどこかで犠牲が出る。
再び目をあわせたとき、彼の目はすっかり静かになっていた。過去を変えたときに現在がなくなることを危惧し、ルリのことを案じてくれているのが読み取れた。
「でも、おまえはどうなるんだ。いなくなるかもしれないんだぞ」
「あたしはいいのよ。全部間違いだったんだから」
投げやりに答えるとトーリュウは顔をしかめた。今度は文句の一つも言わなかった。
本当の両親の手を離れてウィンドランド領主のもとで育てられたことはもとより、そもそも魔王が人間と子を成したことが間違いだった。他人に指摘されるより自分からそう認めてしまったほうが楽だ。
これでいい。自分でも納得できる。この答えにたどりついたとき、その決断が間違いかもしれないと思いつつもルリはやり遂げたような思いになった。
「決まったか?」
「ええ。デルダスが一番上の子として生まれるように」
自分がいなくなる覚悟はできている。もともと存在しなかった、誰の記憶にも残らない、生きていた痕跡も消えるのだと考えればあまり怖くはなかった。
怖くはなかったが胸が痛んだ。消えてしまうのはルリだけではない。ルリと関わった者全員の人生が変わる、あるいはこれまで生きてきた意味を失わせてしまうのだ。返り咲いた者も落ちぶれた者もすべてが白紙に戻される。
じっと視線を交わしていると、クロウと初めて会った日に戻ったようだった。今とあのときの目はまったく変わらず、品定めされているのがわかる。
ふと子供は目をそらす。
「おまえは?」
クロウの姿をした獣がトーリュウに発言権を与えた。クロウと同じ不遜さでありながら、けだものといえど神であるせいかどこか威圧的だ。
覚悟を決めた目をしたトーリュウは腰を屈めて耳打ちする。内容は一切聞こえなかった。いったいなにを願ったのだろう。ルリの決めたことに接触しないことを約束していたがやはり気になる。
けだものであり同時に神でもある獣はうなずき、二つの願いを聞き入れた。