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時を刻む紅  作者: 榊原
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9-3.水底の国

 下船して以来、トーリュウたちはほとんどずっと空の上だった。足をつけられる地面がないのだ。海とまではいかないにしても広大すぎる湖、そこにあったはずの家々は水没している。背の高い家の屋根はまだ沈まずにすんでいてそこで一夜を明かしたこともあったが、それ以上留まっているのは無理だった。

 ひどいものだ。前はこれほど水浸しではなかった。少し離れているあいだにリューズエニアは水に沈んでしまった。潤沢にある水は濁り、とても飲めたものではない。住人は生き延びることができたのだろうか。だとしたらどこへ。

 行き先をよく知っている獣はトーリュウがなにも言わずともリューズエニア街に向かってくれる。七大国でいう城下大都のような場所だ。街には領主がいるのだから、そこが水没していたらこの国は終わりだ。

 翌日、見慣れた景色にトーリュウは安堵した。目指していた街は城壁にも劣らない壁に守られている。少し壁が高くなっただろうかと思うくらいで記憶にあるものと大差ない。見てすぐわかる違いといえば壁の周囲に深く大きい堀があることだ。あれで水を防ぐらしい。

 できるだけ目立たない場所を選んで久方ぶりの地面を踏みしめ、トーリュウたちは門をくぐった。門番はいない。湖に囲まれたこの街を襲うものがあるとすれば空飛ぶ魔物か水流しかないのだ。

 道は人で溢れていた。なんとか逃げ延びた者はここで生活しているようだ。したたかなもので道端に線を引いて自らの陣地を主張する者もいる。もとから街に住んでいる者は彼らに押し入られることのないように家の窓や扉を堅く閉めていた。

「それで、どこへ?」

 人の姿となったグリフォン、ヴェルが問いかけてくる。彼女の疲れた顔を見ていると罪悪感ばかりが心を占める。移動するための乗り物ではないのに、ここのところそう扱ってばかりだ。

「まずは宿に行く。オサードの姉がやっているところだ。おまえも休みたいだろう?」

 ヴェルは明らかに喜色を浮かべた。少し気遣ってやれば笑ってくれる。笑顔に癒されながらトーリュウは後ろを歩く女に声をかけた。

「部屋はどうする。二部屋取るか?」

 これまでの二人旅とは勝手が違う。同行者が男ならまだしも女、しかも暖かい寝床があたりまえだった女だ。王女の冠をなくしたティーナはただの上品な娘の声で答える。

「一部屋でかまいませんわ。これだけの人では、三人で二部屋取れるとは思えませんし」

「一部屋だけでも取れるかどうかわからないがな」

「あなたの冗談、冗談になっていませんわよ」

 はぐれないよう人ごみの中を三人は進む。目的の宿屋はリューズエニア最大の場所で、十にも満たないうちからトーリュウもそこで働かされていた。何年もしないうちに問題を起こして追い出されたが所在地ははっきり覚えている。

 人の流れに身を任せ、ときどき逆らい、立ち止まったトーリュウはその建物を見上げた。

 屋根も入り口の扉も真っ赤、落ち着いた色合いの壁には蔦や花の模様が彫りこまれていて、懐に余裕のない者ならば足踏みするだろう外観だ。出窓から中を覗いてみれば、しかしけっこうな人々が食事を摂りながら話しあっているのが見える。

 ここに入れば間違いなくあの場は静まり返るだろうが、混血だと後ろ指さされるのはいつものことだ。トーリュウはためらいなく扉を押した。

 最初はこちらに気づかない。けれども奥に進むにしたがって口を閉ざす者、息を飲む者、果てには音をたてて立ち上がり周囲の注目を集める者が出てくる。その結果、三人はこの場の全員の視線を受けることとなった。

「空き部屋があれば泊まりたい」

「……後ろの女性二人、お先にどうぞ。なにかご用ですか?」

 受付の女はトーリュウを無視した。ティーナがあからさまに顔をしかめても女の態度は変わらない。

「失礼ですわよ。このかたは、わたくしの」

「どうした、なにがあった」

 ティーナの言葉にかぶせて受付の奥から男が口を出した。宿の警備だろうか、姿を現した男は傭兵のような風体だ。彼はこちらに目を向けて、その目を見開いた。

「トーリュウ?」

 名を呼びながら男は一気に距離を縮める。名前を知られていることは驚くべきことではない。街では悪い意味で有名だった。

「おまえ、トーリュウだろう。オサードを訪ねて来たなら、あいつは」

「いや、部屋を取りに。あの人については……残念だった」

 ファイアーランドで彼に会ったときは未練を断ち切らなければならなかった。オサードは、一番近い言葉を挙げるとしたら養父だ。彼の姉が経営しているこの宿でトーリュウが問題を起こした後、オサードは姉に言われたのもあってトーリュウを引き取った。

「その……ずっと礼が言いたかったんだ。ほら、シル村が水没してしばらくして、また村が沈んだだろう? そのとき宿にいた奴らで取り残された子供たちを助けに行ったんだが、俺は逃げ遅れてな。あのとき助けてくれたのはおまえじゃないか?」

 親しげに声をかけてくる男に覚えはない。記憶にはないが、そうしたかもしれない。水に押し流されかけるか溺れかけるかした者を助けるのは人間には難しいことのはずだ。

 黙ったままでいると男は苦笑いした。

「俺のこと、覚えてないか。タザフだ。同じシル村に住んでたんだがなぁ」

 名を告げられてもぴんと来るものはなかった。オサードに引き取られてからシル村で暮らしていたことは覚えているが、隣の家に誰それが住んでいたということまで覚えていない。

「泊まりたいんだったな。ベルシャにかけあってみるから待ってろ。無理だったら俺が部屋を出るさ」

 タザフという男は奥に引っこむ。ベルシャとはこの宿屋の女主人でありオサードの姉、昔トーリュウを雇っていた人物だ。彼女ならば金さえ払えば混血だろうとここに置いてくれる。ただし、部屋があればの話だが。

 受付の女は気まずそうに男が消えていった奥のほうをちらちら見ている。それを尻目にトーリュウはティーナたちが静かに立つ壁に寄りかかって彼を待つ。そうしていると、何人かがこちらへ近づいてきた。

「あのときは悪かった。覚えてないかもしれないけど、俺は昔一緒に水仕事してたエイゼだ」

 男が頭を下げた。彼の言うとおり、十年近く前のまだ子供だった時分のことなどよく覚えていない。

「おまえが出て行ってからリューズエニアは水害ばっかりなんだ。ここ以外どこも海みたいになってるの、見ただろう?」

「トーリュウ、ずっとここにいてくれ、な? そうすりゃこの街も安泰だ」

「それがいい。食事も家の面倒も、全部見てやる。だからここにいて街を守ってくれ」

 害意のない人々に囲まれては逃げ出すこともできなかった。一度助けただけでこのありさまとは、リューズエニアも変われば変わるものだ。

「あっという間に人気者だな」

 タザフが再び現れ、トーリュウと住民とのあいだに入る。解放されてトーリュウはほっと息をついた。刃に囲まれるのには慣れているものの、ああいった言葉には慣れていない。

「ベルシャは直接おまえと話がしたいそうだ。二階で待ってる。前に使ってたところだ」

「わかった。二人を頼んでもいいか?」

 トーリュウはヴェルとティーナを横目で見る。知らない土地、大勢の注目を集めているという状況では気も休まらないだろう。彼はトーリュウの頼みを快く聞き入れてくれた。

 表からは死角になっている従業員用の階段を上る。途中で段の抜けているところがありまったく補修されていないそれは今にも壊れてしまいそうだ。華美なのは外観と客の目に映る場所だけ、他は壁に穴があいていようと装飾が剥がれていようとそのままになっていた。裏にまで気を遣っていたのがこの宿屋の美点だったと記憶していたのだが。

 もはや板一枚といった様子の戸を叩く。返事はなかったが、昔雇われていたときトーリュウの使っていた部屋だったため躊躇せず入室した。

 薄暗い部屋で女主人ベルシャが椅子に座って待っていた。知っているころの顔より化粧が濃いのはそれだけ長く会っていないということだ。彼女は机を挟んで向かいにある椅子をトーリュウに勧める。

「それで、なんで帰ってきたんだい? オサードは帰ってこなかったのに」

「帰ってきたわけじゃない。ここ以外に寝られる場所がなかったんだ」

 この街くらいしか立って歩ける地面がなかったのだ。ベルシャがぼろぼろになった指でいらついたように机を叩くと、机上の小箱が震えた。

「それを帰ってきたって言うんだよ。あんたの言いたいことはわかるけどね」

 余計なものは持たないはずの彼女のそばにある箱に目が行った。視線が手元の箱にあることに気づいたベルシャはそれをこちらによこす。

「これを。オサードの持ち物を整理してたら出てきたんだ」

 トーリュウは不可解に思いながらも蓋を開けて中で布に包まれているものを取り出す。これは、もしや。

「リューズエニアが独立する前、ファイアーランドの友達からもらったって言ってた。あんたにやるよ。小汚くって売れやしない」

 赤い石の表面は磨かれたはずなのにくもり、内側には黒いかすが閉じこめられている。濁っているうえにごみが混じっているとなれば売れないはずだ。石を包む赤銅色の装飾も炎を模した形は見事だが錆びてしまっていて、偽物と呼ぶより玩具と呼んだほうがしっくりくる。

 布越しでなく直接触れると石のくもりが若干取れたことにより、トーリュウは確信した。これはリュースエニアで探そうとしていた秘宝だ。トーリュウの知る秘宝と同じ輝きを取り戻すには時間が必要なのだろう。

 トーリュウは宿の主を見上げた。もらってしまっていいのだろうか。価値を知らないのか、知っていながらそうしてくれるのか。だが彼女はトーリュウの視線を別の意味に受けとめた。

「部屋はここを使うといいさ。あいにく満室でね。下に行って金を払えばちゃんと客人待遇してやる」

 言いながら立ち上がり、女主人は戸に足を向ける。これを逃せば機はもうこないと思い、トーリュウはもっとも疑問に感じていたことを言葉にする。

「この宿、いったいどうしたんだ」

「どうしたもこうしたもないよ。金が足りなくなったから、とりあえず人目につかないところから剥がしていっただけ」

「満室なら金だって……」

「儲けのほとんどを領主に取られてる。従業員でもないおまえには関係ない話だ」

 その言いように口を挟む余地もなく、今度こそベルシャは出て行った。

 部屋にあるのは机が一つ、椅子が二脚、隅には急いで運びこまれたような寝台が二つ。使っていた形跡がないのに埃は払われ、すぐに明け渡せるところはさすがだ。寝台は一つ足りないがトーリュウが椅子で寝ればいい。

 とりあえず部屋が取れたことを知らせにトーリュウは階下におりる。二人を待たせたままだった。その途中、やはり装飾を無理やり剥がしたような壁が気になった。

 二人は談笑もせずただ待っていた。彼女たちを頼んだ男も護衛よろしく律儀にそばで腕を組んでいる。こちらの姿を見つけると二輪はほころんだ。

「部屋は取れた。が、小さい。それでもいいか?」

「屋根があるところで眠れるならどんな部屋でもかまいませんわ」

 王女という身分で暮らしてきた彼女にとってまともに寝られない道のりはさぞ厳しかっただろう、安心したティーナの肩が下がった。心なしかヴェルの顔にも安堵が浮かぶ。下船してからずっと飛んできて、やっと屋内で眠れるのだ。

「どうなってるんだ、この宿。そこらじゅう穴だらけで」

 トーリュウがベルシャには聞けなかったことを口にすると、タザフは周囲に目をやって声を潜める。

「……あの女、弟をゴーストランドから連れ戻してやるって領主に言われて、それに引っかかったんだよ。条件は儲けの何割だとかって噂だ。たしかにオサードは戻ってきたが、すぐ出て行ったらしい。それからのことは知らん」

「本当に連れ戻すなんてことが」

「なんたらの秘術がどうのこうのって。城は子供を亡くした親でいっぱいだ」

 オサードがリューズエニアで息絶えたことは知っていた。なぜそれがファイアーランドにいるのか不思議だったが、これで解決した。強引にこちらに連れ戻されて窮屈な思いをしたのではないだろうか。二度も死を味わった彼が不憫だ。

 さて、とタザフは組んでいた腕を解いてこちらに向き直った。

「じゃ、また会う機会があったらな」

 トーリュウが訝っていると、国を出るんだ、と彼は付け加える。

「国外に家族でもいるのか?」

「いや、ウィンドランドの村を襲うんだよ。先に行った奴らはもう行動を起こしているはずだ」

 ウィンドランドという言葉に、トーリュウだけでなくティーナも顔色を変えた。ウィンドランドには船に乗せてくれた混血の仲間がいるはずだ。

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