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時を刻む紅  作者: 榊原
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1-5.侵攻

 森に入って、村からだいぶ離れた。ルリは休み休み森を走っていた足を止め、ふと周りを見渡す。

 自分の荒い息だけが聞こえた。ルリが城から出て初めて来た森だったが、当初とは全く雰囲気が違う。不気味だった。まだ昼だというのに、優しい木漏れ日すら届かない。覆い茂った緑草は毒々しい紫へと変貌し、まるでルリを捕らえようとしているように怪しくうごめいていた。

 ルリは今までまったくといっていいほど感じていなかった恐怖を今、感じていた。しかし、その恐怖がなにに対してかはわからなかった。森の様子にかもしれないし、魔物の気配が近いからかもしれない。

 草と草がこすれあい、人が草を踏みわけるかすかな音がした。誰かいる。

 ルリは音のした方向へ顔を向けた。木々に邪魔されてほとんどなにも見えない。木の葉や枝、蔦ばかりだ。それでもルリは目を細め、凝らす。仮にも混血である。見ようとすれば見えるはずだ。

 長い銀髪が、なにかを警戒しているように辺りを見回していた。遠くからでもわかるような青い目。間違いない、彼だ。

 その青年は十分すぎるほどに周囲に気を配ってから、とある白い木の表皮を撫ぜた。すると樹木が景色に溶けていき、かわりに黒をまとった女が現れる。

 ルリの記憶がよみがえる。あの女は、たしか村の酒場で男たちに絡まれていた。

 あのときのすまし顔とは違い、彼女はかなり疲れているようだった。血のにおいがする。青年の背に隠されてしまうとその姿はよく見えなくなったが、男のほうが女に声をかけたのがわかった。

「ヴェル、平気か?」

「……そっちは」

「大丈夫だ。すぐにかたをつけるから、もう少し耐えてくれ」

 ルリが瞬きをすると、黒い姿は揺らめいて白い木皮に溶けこむようにかき消えた。目くらましか守りの術の類を使ったかもしれない。同時に血のにおいも消えた。

 銀色を一くくりにした青年は、その目で必死になにかを追いはじめた。が、目で追うのをやめて飛び退る。それと同時に彼の立っていた地面が深く抉られ、そこには爪痕が残された。

 獣だった。額に一角、体毛は赤黒い。長い口吻を持ち、その体躯は馬よりも大きかった。

 青年は怯むことなく、踊るように後ろへ後ろへと逃れていく。その勢いで後方に宙返りし、着地、前傾姿勢をとると地を蹴って直進した。そのまま火を消したときのように右腕を払う。

 水が地面から噴き出した。その勢いは酒場の火事を消したときのものとは比べものにならない。狭い地中に押し込められた大量の水が一気に外へ噴出する。

 天に噴きあがったしぶきがルリのほうにまで届き、思わず目をつぶる。次に目を開けたとき、獣は血と水たまりの中に横たわっていた。

「なぜあの場所を襲った。おれがいると知ってのことか」

 彼は獣に近づき、冷たい目で静かに問う。普通、獣は話さない。もちろん獣は問いに答えるそぶりを見せず、唸り立ちあがろうとするだけだった。

 目を剥き牙を剥き、獣がついに立ちあがると、青年は容赦なく追撃を加える。冷水は刃となり、獣の血に濡れた身体をさらに切り裂く。だが、やっとのことで立ちあがった獣は簡単には倒れなかった。

 最期の力とばかりに巨大な口が彼を襲う。一足で避けきれる距離ではなかった。

 しかし、次の瞬間、獣は一矢報いることなく横倒しになった。その巨体にのしかかる、もう一頭の獣が現れたのだ。

 艶やかな黒い毛並みだ。後ろ足しか見えないが、その頭があるだろうほうから、咀嚼する音がした。

 ルリは嫌悪と恐怖で目をそらした。今日は嫌なものばかりを見る。気分が悪くなってしゃがみこんだ拍子に、茂みが音をたてた。

「……誰だ、そこにいるのは」

 気づかれた。

 姿を現すか、このまま隠れているか、迷った。けれども見逃してくれるとは思えなかった。

 意を決してルリは立ちあがった。青い目がルリを射抜くと、ルリはこの場に根づいてしまったように動けなくなった。

「おまえ……酒場にいたな。よく聞こえたぞ、混血児だと」

 ルリと彼との距離は数十歩にも及んだが、特に張ってあるわけでもない声はよく通った。その言葉にこめられた含みさえも聞こえた。彼の口から聞く混血児という言葉は皮肉めいていた。

「おれになんの用だ」

「あたしは……あたしも、あの酒場にあった爪痕に気づいて」

 ルリが告げると、彼の目からは冷ややかさが消えた。同時にルリに対する興味も失われたようだ。

「なら、いい。おれには用がある。こいつのことは村人に言いたければ言うといい」

 倒れたばかりの獣を一瞥し、青年はルリに背を向ける。

「ちょっと、木のところにいた人は? 怪我してるんじゃないの?」

「おまえには関係ない。が、心遣いだけもらっておく。……おれはもう行く」

 誰に対してか、それだけ言うと彼は銀髪を揺らして走りだした。獲物の肉を食いちぎる獣の横を、警戒もせずに通りすぎていく。

 彼が去っても、金縛りにあったようにルリは身体が動かなかった。追いかけたくとも追えず、いやむしろ、彼に興味はあったがあまり近づきたくはなかった。



 その夜のことだった。

 森の中で迷いながらもなんとか村への道についたルリは、とぼとぼと昨晩泊まった宿に向かおうとして、異変に気づいた。

 森を抜けたあの日に見えたはずの、思わず安堵するようなかすかな明かりがまったくなかった。そこにあるのは燃えさかる赤い炎。酒場を焼き尽くそうとしていた炎とはまた別の熱を持った炎がルリの顔を照らす。

 なにがあったのかと思い、ルリは目を凝らした。

 馬に乗り、傷のついた鎧をまとった兵士が数名、燃えさかる村を闊歩していた。その兵士の視線の先には一箇所に集まって怯える村人がいる。その鎧はウィンドランドのものではない。あの鎧はたしか。

「アイスランド軍……どうしてこんなところに」

 鎧に刻まれた紋章は黒馬、たしかにアイスランドの紋である。

 慎ましい村だった。住民自らが、領主が気にかけるわけのない小さな村だと称するほどの。実際、襲撃のために兵力を割くことさえ惜しまれるほど小さい。それがなぜ襲われているのか。いや、そもそも、この地域では休戦の約束がされているのではなかったか。

 ウィンドランド北方では、まだアイスランドとの小競りあいが続いている。決着のつかないことに業を煮やしたアイスランドが、ウィンドランドを背後から討つため、この村を通り道にした。ふと、そんな考えが浮かんだ。

 昨夜に出兵を命じられた男も死んだのだろうか。あの威圧的な兵士も、酒場で混血の噂話をしていた者たちも。

 アイスランドの風だろうか、冷たいものが全身をそろそろと撫でて、ルリは身震いした。

「ああ、外套が……」

 まるで現実逃避のようなつぶやきだった。

 外套は宿の衣装棚にしまったままだった。これからどこへ向かっていくのかルリにはわからなかったが、だからこそ手放す気がしない。燃えず、水を弾くという逸品だ。そのうえ金入れも外套と一緒だった。

 自分の愚かさを自覚しながら、ルリは燃える村へ足を向けた。ここで死ぬようならどのみち先は長くない。ルリの命運もそれまで、ということだろう。



 二人の見回りの兵士が気を抜いて雑談をしながら、ちょうど宿の向かいから出てきた。ルリは物陰に隠れてそれをやりすごす。

「知ってるか? ここの領主の娘」

「ああ、聞いてる。旅に出たんだって? 陛下の命令でも、そりゃ無茶ってものだろうに」

「まだ十六だろう? 領主も夫人もなにしてんだか」

「母君は娘のわがままに振り回され、領主様はなにも知らずにもっと北上したところで戦っておられるだろうさ」

 ルリは唇を噛む。それでも身じろぎ一つせず、彼らが通りすぎるのを待つ。

 兵士の一人が足を止めた。

「どうした、誰かいたのか?」

 近づいてくる足音がルリの鼓動を速くさせる。

 見つかったらどうなるのだろうか。ウィンドランド領主の娘という立場はルリの命を引き延ばしてくれるはずだ。けれども交渉材料にされて父の弱みとはなりたくない。いや、一介の兵士がルリの顔を知るはずもなく、もしかしたらただの旅人と思われて殺されるかもしれない。

 本当に命が危ないときには魔王直紋を出せば、あるいは。

「ああ、人の気配が……」

「こんなところにか? あったとしても死体さ」

 ぶつくさ言いながらも足音が遠ざかっていく。ほんの数拍のことだろうに、まるで眠れぬ夜長のように感じた。ルリは肩を抱いている自分自身に気づき、細く長く息をついた。

 さすがに巡回のすぐ後にまた兵士に出くわすことはないはずだ。そう信じて通りの向こうへ走った。

 宿の玄関は開けっぱなしで、中心となる柱は折れていた。ここにもすでに火がまわっており、崩れるのは時間の問題だろう。その前に外套を持って外に逃げなくては。

 宿の中へ通じる道は炎に閉ざされていたが、ルリはそのまま中に入った。

 仮にも炎術師である。火を生み出すのは当然のこと、そして短時間ではあるが火を寄せつけないくらいのことはできた。炎よりもつらいのは熱気のほうだが、これも短時間ならば混血の身体が耐えてくれる。

 水を使う青年がしていたように、ルリは腕を払う。さすがに彼ほど余裕の体とはいかないが、壁になっていた炎が割れて道ができた。小走りで奥へ向かう。

 そうして借りていた部屋まで行き、燃える衣装棚から外套を救い出す。外套の隠しには金入れをしまっており、その無事も確認する。

 金入れは少し軽くなっているような気がした。古着屋で品物を選んだつもりはなかったが、そういうことなのだろう。

 今まで着ていた服も衣装棚に一緒にしておいたのだが、こちらはもう駄目だった。気に入っていた染め抜きも、鮮やかな色も、形も、こうなってはただの焦げた布だ。こんなことなら惜しまずにその場で売ってしまえばよかった。

 感慨を捨ててルリは来た道を引き返す。外套を取り戻せれば、あとは自分の命を守るだけだ。

 宿を出る途中、ルリはふと思いついた。

 あの老人がいた受付台を見ると、もちろんそこには誰もいなかった。他の客もいない。兵士もいない。それでもルリはよくよくあたりを見まわした。警戒しながら受付の後ろにまわる。

 受付台のひきだしを開けると小さな木箱が入っている。重くはないが軽くもない。箱を開ければやはり宿代が入っていた。

 もう誰にも記録されることのない宿の収益と、軽くなった金入れと。

 目の前にするとためらいが生じた。人格者であるべき領主の娘という立場がある。一方で、先立つものがなければ、と現実がささやく。

 折れた柱の軋む音がした。なんとか支えられていた天井が、嫌な音をたてながらだんだんと下がってくる。火にまかれて死ぬことがなくても天井の下敷きになってはどうしようもない。時間は残されていない。

 崩れ落ちる宿を背に、ルリは頭から外套をかぶって急いで村を出た。住民のことは気になったが、ルリが解決できるような問題ではなかった。

 金入れは少しだけ重くなっていた。

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