1-4.炎上
古着屋で買ったものに着替え、今まで着ていたものは外套と一緒にしまった。まだ売るほど困窮してはいないし、あれは穏やかな日々の象徴で、売ってしまうには惜しかった。
ルリは再び宿を出た。宿の中が静かすぎたせいか、外はやけに騒がしく感じる。あの静けさに慣れてしまうと、雑踏では耳が痛い。
希望の名を持つ秘宝の手がかりを探す、それがウィンドランド城を発った目的だった。その手がかりのための情報がありそうなところ、人の集まるところといえば、ルリの知る限りでは昨夜の酒場以外にはない。そう考えて足を向けると、そこに人だかりができているのに気がついた。
人に埋もれてなにがおきているかはわからない。しかし煙が見え、異臭もした。
「なにかあったんですか?」
気のよさそうな女に近づき、ルリは無知を装って尋ねる。中年の女は、どこかもったいつけて話しだす。
「なにかあったも。あたしも後から来たんで、人から聞いたんだけどね」
「おい、話すのはやめとけ。まだ子供だぞ」
女の話をさえぎったのは男だった。どうも夫婦らしい。
「でも、あんた……」
「いいからやめとけ。小娘、とっとと家に帰んな」
子供だの小娘だのと言われ、ルリはむっとした。が、どうにかこうにか表面には出さなかった。ルリは男の忠告を無視し、集合の中心部に進んだ。
「人の話を聞かなかったのか。やめとけ小娘。ゴーストランドを見ることになるぞ」
ルリはかまわず先に進んだ。自分の目でたしかめなければ気がすまない。大人はなんでも隠したがる。
大人たちの背中のあいだから、ルリは目を細めてそこに広がる光景を見た。同時に、見なければよかったという後悔の念がわきあがる。なるほど、これはたしかに死者の国ゴーストランドの一部を見ているようだ。本当のゴーストランドには到底及ばないだろうが。
ここになにがあったのか一瞬わからなくなった。酒場があるはずではなかったか。
もはや火の海だった。柱は折れて屋根は崩れ、どこになにがあったのかも判断できない。取り壊した建物の残骸に火をつけた、と言われればしっくりくる。どれも原形をとどめておらず、かろうじて、あれは椅子かもしれない、これは皿だろう、というのがわかった。そこまでは、ルリも我慢できた。
だが、黒い塊があるのだ。酒場の出入口であっただろうところに、その原型がなんだったのかを考えるべきでない黒い塊。嫌な予感がする。
「あれ、もしかして店主じゃないか?」
野次馬の一人がそっと言葉を口にすると、周囲にざわめきが広がっていった。
焦げと、脂と、あとはわからない。ただ嫌なにおいだった。
「そういや、あそこの店主はけっこう薄汚いからな」
「なるほど、金を持って逃げようとして、このざまか」
ありありとその情景を想像したルリは顔をしかめた。昨夜見たときはそのような人物には思えなかったのに。
「死んだのはあいつだけじゃないさ。中で飲んだくれて寝てたやつもいたろうになあ。誰も起こしてやらなかったのか」
「酒場に火を点けるなんて、いったい誰が」
「さあね、そんなの知らないよ」
「そういや、昨日は兵士様がいらっしゃってたぜ。そいつがやったんじゃねーの?」
そんなことはない、とルリは叫びたかった。気高いウィンドランド兵が、たとえ荒くれ者だったとしても、守るべき村にそのようなこと。
けれど、国を守るためにあるはずの兵士がそのように言われる。彼らに対してそのような認識があるということは、今回の件はさておき、以前にも似たようなことがあったのだろう。
「誰か水術師はいないのか」
「いるわけないだろう、そんなご大層な人物。いたとしても戦場だ」
「まだいるかもしれないだろうが。なあ、そこの娘さん、あんたはどうだ?」
「あたし?」
思いもよらず男に話しかけられたルリは肩を揺らした。
一瞬、ルリを領主の娘と知ったうえで皮肉を言われているのかと思った。しかし昨晩はこの酒場にいなかったのだろう、男はルリの出自に気づいていないようだ。さっそく古着が役に立った。
「残念だけど、あたしが使うのは火だから、水はちょっと」
力になれず申しわけない、とルリは軽く頭を下げた。たとえ着替えていても、あのとき酒場にいた人物がルリに気づけば、なにもかも意味がない。ここで注目を浴びるわけにはいかない。
ルリが炎術師だと知るやいなや、男はルリに興味をなくしたように視線をはずした。水を操ることのできる者を探しはじめる。
それでいい、とルリは安堵する。せっかく着替えたのに、また混血児だと言われたらすぐ出発しなければならない。
また誰か新しい野次馬がやってきた。ルリのときは押してもなかなか動いてくれなかった人垣が割れ、その人物をあっさりと中へ通す。
「火事か。被害は……今のところなさそうだな」
すぐそこに焼死体があるのを確認したにもかかわらず、被害はないと言う。たしかにこの酒場以外の建物は無事だったが。
声は少年というより青年の方が近い。外見だけはルリといくつも違わないが、彼のほうが目つきは鋭く大人びて見えるのは、ルリがウィンドランド城で真綿でくるまれて育てられたからだろうか。
銀髪の彼はルリの前までやってきて、燃えさかる酒場の前に立った。視線を走らせたかと思うと、青年は右腕を前に伸ばし、払う。途端に地面を割って勢いよく水が噴き出る。その水は炎の熱を吸収し、自らも蒸発して消えていった。
それが何度も繰り返され、ほぼ鎮火が終わったころ、あっけに取られていたルリが無意識に言った。
「彼は……」
ルリの呟きはうまく音にならず、空気中に霧散する。ルリは目の前でこの青年が礼を言われるのをただ呆然と聞いていた。
「あの、ありがとうございます。ここは父の店で……」
「礼はいい。当然のことをしたまでだ」
「せめてお名前だけでも」
「名乗るほどの者じゃない。お互いさまだ、そうだろう?」
青年は話しているあいだ、話し相手を含めた誰とも目をあわせず、地面の一点を見つめていた。そこになにか重大なことが書いてあるとでもいうように。
やがてルリと、同じくあっけに取られていた野次馬たちが、青年が歩きだしたことによってようやく我に返る。完全にここから見えなくなる前に、ルリは彼と目があった。
青い目。吸い込まれそうなほどに深い色の瞳が印象的だった。それだけが目に焼きついて離れない。
いつの間にか水の勢いは衰えていき、消える。そこには賑わいのかけらも見出せない炭と化した酒場と、もとは生き物だった黒い塊だけが残された。
父を呼びながらその黒い塊にすがりつく男の姿を、ルリはただ視界に入れていた。ここに至るまでの過程は違えど、この大戦が終わらなければ、あるいは最悪の結末を迎えれば、いつか自分も動かなくなった父の身体にすがる日が来るだろう。
「ああ、怖い怖い。火の始末はちゃんとしないと」
「誰がやったんだろうな。こんなとき、ヨルジュンがいてくれたら……」
「あの人、出兵令が出たんだろう? 気の毒だよな。そりゃ、たしかに昔は軍属だったらしいが……」
誰も彼もが適当なことを言ってこの場を去っていく。我が身に火の粉が降りかからなければあとはどうでもいいのだ。そしてルリはそれを非難できない。
ウィンドランドが大戦に負けなければいい、父母をはじめとする大切な者が生きていればそれでいい、そう思っていた。ヨルジュンのように半ば無理やり戦場へ連れていかれる者のこと、ルリの父母を守っているのは誰なのか、守られているからにはその盾として散っていく者がいること、そういったことなど今まで考えもしなかった。
人のほとんどが生活に戻ってから、ルリは燃え残った酒場に近づいた。
水が噴出したはずの地面をいくら注意深く探しても、水の噴き出した跡など見つけられなかった。それだけでもあの青年の技量が知れる。
「すごい……」
水脈を読み、水を導く、それが水術師だった。しかし水脈を読むには時間がかかるため、そこを省いて水を呼ぶだけにするのがほとんどだ。呼ぶにも力が必要で、下準備がいる。それを彼は、手順をすべて踏みながら飛び越えていった。
水脈を読みながらも、事前準備もなく、すぐに水を呼んでみせた。
恐ろしい力だ。ルリには真似できない。その場で出せと言われれば明かり程度の炎にはなるが、準備がなければ大火力には至らない。そもそも術は下準備を入念にしたうえで行うものだ。
「……あら?」
どうにかして水の術跡を見つけようと躍起になっていたルリが、探し求めるものとは違うものに気づいた。
「これは……」
地面に刻まれているのは亀裂だ。縦に細長く伸びるそれは、見ようによってはひっかき傷にも思える。
ルリはその跡を興味本位でなぞってみると、指先が痺れた。続いて、ぱち、と焚き火のような音がした。驚いてルリは己の手を見る。指先だけが赤みを帯びていた。火傷だ。
「ああ、魔物の足跡」
獣が人里に降りてくるように、彼らもまた人前に姿を現すときがある。さすがに建物に火をつけるという話は聞いたことがなかったが、目の前に痕跡がある以上、認めないわけにはいかない。
小さな爪跡からルリは視線をはずした。かわりに視線が行くのは森のほうだった。身を隠そうとしたならば、村には留まらない。住処に戻るのだとしても、やはり行き先は民家ではない。
あの青年はただじっと地面を見ていた。その時点で魔物の足跡に気づき、ルリの導き出した結論まで一足飛びにたどりついた。そして、おそらく追ったのだろう。足早に去っていったわけもこれなら理解できる。
だが、どうして彼は彼自身とはなんの関係もないだろう魔物を追ったのか、という疑問が残る。火事などどうでもいいとあからまに態度に出ていたのに。
少し悩んで、ルリは走りだした。