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時を刻む紅  作者: 榊原
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6-7.人好きのする顔

 いかにもゴーストランドらしい廃墟じみた庭、その中央で黒い体毛を逆立てた獣はぐっと四肢に力を入れておきあがる。

 その後は一瞬だった。

 少女と獣とのあいだに滑りこむようにアルドラは移動する。獣ともっとも近い位置にまたたく間に移動した彼の腹には、巨大な爪による穴が開いた。

 げほ、と彼が口に手をやりながら嫌な音のする咳をすると、その手は腹部と同様に赤に濡らされた。血が一筋というようなものではない。咳きこむ以外になんの言葉も発さず、アルドラはただ苦痛に顔を歪めている。

 小首をかしげた獣は己の爪の前にアルドラが現れたことに呆然としている様子だった。だがそれもわずかなあいだで、一拍の後には細長い耳を立ててあたりの様子をじっとうかがっていた。

 膝をついて倒れようとするアルドラの身体を、疾風のように突然現れた男が支えた。青年期をとうの昔に脱した風体の男の体格は並一通りでしかないが、印象のままに受け取れば傷を負うことになるだろう。

「あーあ、無茶しちゃって。だいぶやられたねぇ」

「……うるさい」

「しゃべらなくていいから。ほら、早く気絶しちゃいな。そのほうが楽だ」

 息も絶え絶えな領主アルドラの背中を支え、まるで子供でも相手にしているかのようなその男。ゴーストランドの主に対してそのような態度でも許される彼は、言ってからゆっくりアルドラをひびの入った石畳へ横たえた。

 アルドラを助けた男は別段剣をかまえるというわけでもなく、くせのある髪を風に揺らしながら悠然と腰を上げた。その見上げる黒い巨体はうっすらと笑う彼の背丈を五倍してもまだ足りないほどだ。

 男は兵士たちに視線を投げかけた。まだ入隊して日が浅いのだろう彼らは尻をついてがたがたと震えている。恐怖しているのは倒れた血みどろの領主を見てか、それとも目覚めた獣の大きさを改めて確認したためか。

「だらしないなぁ、まったく。そこにいるお嬢ちゃんたちのがずっとましじゃないか。そこの警備兵、兵士たちと領主つきの医師を呼んできて。寝室にも待機させるように。こりゃあ重傷だ」

 本来ならば男のものらしく低めの声はおどけたようにいささか高い。

 現状を見ても微笑を消すことのないその男は、震えて武器もまともに握れていないがなんとか立った状態でいる兵の一人を指して指示する。戸惑いを浮かべた兵士ははじめぎくしゃくと、だがこの場所を離れていくうちに元の動きで医師の詰めている棟へ向かった。

 相手にされていないと思ったか、突然現れた男がどう出るかを目を細めて警戒していた獣は痺れを切らして牙を剥き、そして咆哮した。やっと男がそれに目を向ける。

「……あのねぇ、ここは霧の森じゃないんだよ? ぼくらの目の前でも好き勝手できると思ってるなら、それは大間違いだ」

 宿す色の見えない彼の双眸に鋭い光がともるのを見とめるやいなや、耳を伏せた獣の後肢が地を擦った。力の差を悟りつつあるようだ。

「きみはまだ、おきるべきじゃあない」

 男が間延びしてはいるが断定した口調で言うと、甘いにおいが彼のほうから溢れだす。すると、緊迫した状態で体躯を低くしていた獣は再び意識を失った。

 アルドラの腹から流れ出る血はとまることを知らず、苔の生えた石畳を赤く染め続けている。

 ホウキンは関心も軽蔑もしていない冷めた目でそれらを見ていた。あたたかみのない視線に気づき、顔を蒼白にしたアルドラを見やっていた男がホウキンに目を向ける。

「これはこれは……どうも」

 隣人にするかのようにその男は笑みを浮かべながらホウキンに向かって会釈した。それは悪質なものではないが、深いところまで立ち入らせない、本心のつかめない表情だ。彼は振り返って声を張る。

「そこの手の空いてる……そう、きみだ。彼を一番いい部屋に案内してくれ。賓客扱いで頼むよ」

 わざとらしく友人とふざけあっているような声音は抑えられ、かわりに出てきたのは別人になってしまったかのように真面目な声だった。

 言いつけられた兵士はホウキンの顔を見るとその顔の黒斑に小さく悲鳴じみた声を出したが、すぐに自分を取り戻して彼の前に立った。得体の知れない男をなぜ賓客扱いにするのか、と不満そうな顔つきだ。

「どうぞこちらへ」

「待て。寝室は……あちらだったな」

 ホウキンはゆっくりと一つ立てた指を仰向けに寝かされたアルドラに向けた。熱風がアルドラを掠めると、後ろの景色によくなじむ布で隠されたようにその姿が見えなくなった。寝室に送られたのだ。

「ああ、こりゃあ助かるよ。あの傷だ、どう動かすか悩んでたとこでね」

「気にするな」

 男がさして親しくもない顔見知りに会ったという程度に再度軽く礼をするのを見てから、ホウキンは己を案内しようとする兵に従った。

 ホウキンの後姿を見送った男は次から次へと慣れた様子で命じていく。

「そこの獣はとりあえず目を覚まさないうちに岩山の奥深くに幽閉。鎖はどれでも好きなだけ使っていい。それから彼女たちは正妻用の部屋へ案内するように」

 ようやっと彼の呼んだ兵士たちがやってきた。その数は数十、中でも特に長身で勇ましい男が先頭を走っている。この騒ぎがまったく耳に入っていないらしい眠り続ける獣を見るなり、その男がぎょっと身を引いた。だがそれもつかの間、彼らはどのようにして獣を運ぶか考えはじめる。

 その集団からはずれ、ルリよりも小柄な、一目見ただけでいいところの出とわかる少年が上品そうな足取りで彼女のほうへ向かった。甲冑のあまり似あわないきれいな顔だ。少年は彼自身よりも先にルリたちを先導しようとしていた色の濃い武骨な男を押しのけてルリの前に出る。

「客人であろう? 私が案内しよう」

 もう少しすれば女が振り向かないことなはいだろうと思われる優雅な動作は、先ほどの兵士の荒っぽいものとは正反対だ。

 よくいえば気品のある、悪くいえば貧弱そうなこの少年に、なぜ強引に前を取られたにもかかわらずその屈強そうな兵士がなにも言わないのか。先にあの男の指示に従おうとしていたのは大男のほうだ。疑問に思ったが、なにも言わずルリたちもそのあとに続いた。 



 正妻の部屋と言われて驚いたルリたちだったが、通されたのはゴーストランドで初めて目覚めたときの部屋だった。その場所は彼女たちが城を出たときの様子となんら変わらない。

 きれいに整えられた部屋だとまでは思ったが、まさか領主の正妻が使う部屋だとは思いもしなかった。となると、十歩離れているだろうかという隣室は夫の執務室ではないか。領主以外に城に妻を住まわせる者はいないにしても、ここまで近くていいのだろうか。

「領主様、大丈夫でしょうか」

「ええ、きっと……仮にも魔物だし、領主の座に就いてるんだから」

 沈黙の中に張り巡らされる緊張した糸に耐えきれずに口を開いたコクフウは、そうでしょうか、と抑揚のない声で言った。ルリも、領主ともあろう者がまさかあの程度で倒れてしまうとは思いたくない。神獣や魔王とはまた別の意味で領主は絶対の存在なのだ。

 クロウはといえば、二人に背を向けて窓の外をのぞいていた。いまだ暗い景色が広がっていることからはまだ太陽が戻っていないことが知れる。いや、もしかしたら本当に夜なのかも知れない。

 ぎ、と扉がおもむろに開いた。のんびりとした足取りで入ってきたのは、混乱した兵士たちに次々と指示を与えて彼らを動かしていたさっきの男だ。彼はわずかばかり前に目にした親しみの持てる仮面をかぶっていなかった。

「今、専属の医師が治療にあたってくれている」

 落ちつきなく男は中途半端に長いはねた髪をしきりに指に絡めていた。おそらくアルドラのことが心配なのだろう。

「このゴーストランドで最高の医師がついていてくれている。心配することはない」

 そうは言うものの、男はそわそわと。視線をさまよわせた。その中でルリと目があうと、彼は思いだしたように愛想のいい笑顔を顔に張りつけた。同時に手を下におろして髪をいじるのをやめる。

「ルリちゃん、だっけ。血、大丈夫だった? あの場にいたろう?」

「慣れてないわけじゃないんで。……あの、あなたは?」

「ああ、ぼくはアルドラの代わりさ。領主代行のミカラゼル」

「代行……」

「言っておくけど、嘘じゃないよ。代行でなかったら誰もぼくの言うことなんて聞いてくれないから」

 そういえば、と今さらながら代行を名乗る人物がアルドラとよく似た服装をしていることに気づいた。黒で統一された衣服の中でとりわけ目を引くのは当然ながら白銀の腰帯。白地に黒糸で文様の入っているそれと同じものをアルドラも身につけていた気がしないでもない。

 平静を取り戻した彼はルリと向かいあう形になるよう壁に寄りかかって腕を組んだ。

「そんなに心配しなくても、アルドラなら平気だって。なにぶん、いつものことだからねぇ。まったく、慣れなくてもいいことに慣れさせないでほしいと思わないかい?」

 表面上とはいえ人に話しやすい印象を与え、また身分もはっきりしているため信用できそうだとルリが判じたその男、ミカラゼルは孫にでもするように目尻をさげて言った。今の言葉と先ほどの言葉、内容は同じなのにずいぶんと印象が違う。

「さてと。アルドラから話は聞いている。それで功績を認めて出国許可を出したいのはやまやまなんだけど、許可証はあいつが持ってるんだよ。困るよねぇ、ほんと。しかもあれから君たちが戻ってくるまでの十日間ずっと」

「十日間!?」

「そう、十日間。驚いた? 日輪がなくなって以来あっちこっちで時間がずれるようになっちゃって。国としても大変でねぇ。これでやっと陽が戻るんだ、君たちには感謝しきれない」

 頭をかきながらミカラゼルは言う。大変だと言うわりには大したことではなさそうな口調だが、それなりに苦労はあったのだろう。

 国の中で時間がずれるとなればどう生活すればいいかルリには見当がつかない。こちらはほんの少しのあいだと感じていても、相手は数日たったと感じる。そうなれば行方不明と同じ。ルリたちの置かれた状況がまさしくそれだ。

「でさぁ、アルドラが治るまで大都のほうでも見ておいでよ。客人がいると、それはそれで気ぃ遣っちゃうやつだから。君も、病気のときにそうとは知らない誰かが尋ねてくれば元気に振舞うだろう?」

 領主に対して気を遣え、というのなら彼の言うとおりだ。それに、ゴーストランドの街というものを見てみたくもある。たとえば他の六大国についてそれぞれ一冊の本が書かれるとしたら、ゴーストランドは一頁にも満たない、それこそ数行で収まってしまうだろう。その程度しか知られていないゴーストランドとはどのような国なのだろう、と興味がある。

 しかし、今は外出するような気分ではない。

 断ろうとしたのを察したか、ミカラゼルはルリが言葉を発する前に口を開いた。

「実は、もう用意してあるんだよね、大都までの足」

 せっかく準備した馬車が無駄になってしまうから行ってくれ、という意味をはらんだ口調にルリはコクフウとクロウを振り返った。一方はやわらかな微笑とともに、もう一方は投げやりに承諾の表情をつくる。

 彼らの顔を見てとったミカラゼルは億劫そうに壁から背中をはなし、ゆったりした袖から紙を取り出した。かなり上等と見えるその紙をルリのほうに差し出す。

「それじゃあそういうことで。これ、入都許可証」

「大都って城下大都のことですよね? どうして入都許可証なんか……」

「他国と違ってゴーストランドはこういうとこ厳しいんだよ。アルドラだってこの帯がないとどこにも行けないくらいだ。これじゃあなんのために領主になったんだか」

 言いながら彼は己の腰にある白銀の布を示す。おそらく領主であることの証明のようなものなのだろう。厚いわけではないが丈夫そうで、滑らかな手触りが想像できる。

「下まで一緒に行こうか。準備がまだなら待つけど、大丈夫かい?」

 はい、とルリはクロウとコクフウに目配せして寝台から立ちあがった。

読了感謝。

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